俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 9 Pebbles on the Beach(浜辺の小石)


1977年、アトラクションズ結成時の話。

CHAPTER 9 Pebbles on the Beach(浜辺の小石)

ロッキング・ポップ・コンボ、老若男女、ハプニングなベースプレイヤー募集!!


広告の下の方に書いてある番号に電話して、誰が出るか確認したみた。

「スティッフ・レコード*1です」

それを聞いて私の直感が確信に変わった。
ちょうど、アラン・ジョーンズが「次の大物になる」と言っていたアーティストについての、メロディーメーカーの評論を読んだばかりだった。
エルヴィス・コステロはスティッフレコードのアーティストで、つい最近、アメリカのバンドであるクローヴァーをバックにしたデビューアルバムをリリースしたばかりで、今度は自国のミュージシャンを募集しているところだった。
数分後、私は何も知らないふりをして、スティッフに「本番」の電話をかけてみた。


私は受付の女性に聞いてみた。「彼のイメージはどんな感じですか」と。
「覚醒したバディ・ホリー・・かな?」と彼女は答えた。
その女性は受話器をきちんと塞いでなかったのか、背後からかすかに聞こえる男の声があった。
「好きなバンドが誰か聞いてくれ!」
女性が質問してくるのを待った。
「ああ、スティーリー・ダンかな」と答えた。
スティーリー・ダン!」と彼女は男に向かって繰り返した。
「誰と共演したことがあるか聞いてくれ」
私はまた少し待った。
「直近はクイーヴァーというバンドだ」と嘘をついた。
情報は後ろの男に中継された。
「年齢は?」
「23歳だ」とまた嘘をついた。
「電話を切ってくれ!」という声が聞こえた。
「いや、切らないほうがいいんじゃない?悪くないと思う」と彼女は反論した。
「いや、だめだ、切ってくれ」
「ダメ!チャンスは与えてあげて!」と彼女は主張していた。


次にその受付の彼女が私に話しかけてきたのは、その日曜日の午後だった。パットニーのリハーサル室で行われるオーディションの詳細を伝えてくれた。

そこで私はハマースミスのレコードショップに行って、エルヴィス・コステロのレコードを買いに行った。

数枚のシングルを入手することができた。家に帰ってすぐに「Less Than Zero」「Red Shoes」「Alison」のコードを採譜した。
かなり折衷的なアレンジだと感じた。「Alison」のコーラスはデトロイト・スピナーズの「Ghetto Child」から拝借したものだった。ベース・パートも同じように借用していた。
「これはいけそうだな」と思いながら、曲を聴きながら覚えていった。

約束の日曜日になり「これは印税が入るかもしれない」と期待していた。
私の「フットボール・レコード*2」を店頭で売っていた地元の商店まで歩いていった。
幸いなことに、パットニーまでのタクシー代は十分にあった。


エルヴィス・コステロと彼のマネージャー、ジェイク・リヴィエラ*3とは、リハーサル・スタジオ近くのパブで会おうと言われていた。
しかし、私は口を開く前に、事態が最高のスタートを切っていないことに気づいた。はじめから私は異端だったようだ。
私だけ黒髪ではなく金髪だったのだが、それ自体はまあ問題ない。
私の髪は洗いざらしでペタンコだったが、他の人は髪を後ろに流して、油っぽい髪型にしていた。
それも問題ないと思うかもしれないが、少し前までは、そのせいでブライトンのビーチで人が死んだこともあった。
ジェイクとエルヴィス、それにロード・クルーとドラマー(その人はルーモア*4のスティーブ・ゴールディング*5だった)はみんなタイトなストレート・ジーンズを履いていた。
エルヴィスは6インチのターンアップを履いていたが、これはスタイルというよりも、正しい長さのものが手に入らないということだったようだ。
ジェイクは光沢のある黒いポインテッドシューズ、エルヴィスは赤っぽいドクターマーチンを履いていたが、私はアースシューズを履いていた(ショック!)。
何も言わなくても、彼らの表情がすべてを物語っていた。


しかし、私にはまだ切るべきカードが残っていた。

幸い、私が最初に「学ばなければならない」曲は、すでに知っている曲だった。
もちろん、そのことを言わず、まるで初めて聴くようなふりをした。
エルヴィスは汗まみれで、シャツは彼にまとわりつき、額からは猛烈な汗が流れ落ち、重い角縁の眼鏡が鼻から何度も滑り落ちていた。
私がそこにいた1時間、彼は一度も目を合わせようとしなかった。


後で知ったことだが、「パンク」の原則に則り、演奏できないミュージシャン、少なくともプロとして演奏したことのないミュージシャンを雇うというのが、彼の意図だったようだ。
ソングライターとして名声を得つつあった彼に、そのことを指摘する人がいたのは間違いない。
しかし、裏で何があったかは知らないが、2、3日後、私は仕事を依頼されたのである。
彼の網にかかった他の2人と合流して演奏するために、私はウォータールーのリハーサル室に向かった。


ドラマーのピート・トーマスは、南海岸のクイーヴァーのライブのバックステージで何度も会ったことのある私の「ファン」だった。
だが、そのことを話題にするのはこの時ではない。私は、まるで初めて会ったかのように挨拶した。

ピート・トーマスが若い頃、私があるクイーヴァーのライブで、ギターケースを持ってタクシーから降り、テイクアウトしたものを受け取る間、運転手に待つように頼み、そしてまたタクシーに乗り込んで走り去ったのを見たことがあったようだ。
ピートはそんな私のライフスタイルを見て、ミュージシャン、少なくともドラマーになろうと思ったのだという。
ピートはその直近の2、3年ほど、LAでアメリカの歌手のもとで働いていた。ビザがおりないため、メキシコ人の偽名「ホアキム・カーネル」を名乗っていた。
ジェイクはピートをエルヴィスの新しいバンドに抜擢したが、ウィルコ・ジョンソンのレコード会社*6に嘘をついて、ウィルコの新しいバンドにピートを採用するという口実でイギリスまでの航空券を払わせることに成功していた。

私が「ロッキング・ポップ・コンボ」に採用される際、重要な役割を果たしたのはピートだったのだ。
どうやら、私がオファーを受ける前に、ジェイクは私の「気質」がどうなのか、私の周辺に嗅ぎ回っていた。
幸いにも彼らは嘘をつき、私が平静で愛想の良い人間であると吹聴したのだろう。

だが、リチャード・ボールズの著書『スティッフ・レコード・ストーリー』のインタビューによると、ピートは、ジェイクとエルヴィスが私を雇うかどうかを迷っていた時にこう言ったという。


何を迷うことがあるんだ?あいつはクソ素晴らしいぞ


キーボードプレイヤーはスティーヴ・ネイソンというロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックで作曲を学んでまだ日が浅い若者だった。
そのような経歴を持つ彼だが、明らかに音楽的要件には十分応えていた。
しかし、オーディションでは、演奏しながらシェリー酒を1本飲み干し、エルヴィス・プレスリーのトリビュート・アクトのオーディションだと思い込んで床で寝てしまうような「プロらしくない」という条件も十分に満たしていた。
エルヴィスの耳元で、私はスティーブに、自分の答えが原因でオーディションに落ちる寸前だった質問「好きなバンドは誰か?」を聞いた。
「わからない、自分は2つしか見たことがない」
「ああ......それは誰と誰だ?」
アリス・クーパーカーペンターズだけだ」


エルヴィスは、ビギナーのミュージシャンだけを集めるというアイデアはすでに諦めていたが、しかし彼は早い段階で、よくある普通のバンドにならないことを熱心に強調し「私のバンドではソロパートは存在しない」と、忠告していた。


彼はまた、バンドを何か斬新で特徴的な方法で表現することを望んでいた。
「キーボードがステージの左側、ドラムがステージの右側でやってみる」と言う。
おそらくそれは、私が「ステージの後ろ」、彼の真後ろにいるということだろう。
「だけど、ピートがやっていることを見ないと演奏なんてできないぞ!」と抗議した。
「ピートの反対側にいると、バスドラムのペダルも何も見えない」

大音量で音が飛び交うと、キックペダル、ハイハット、スネアの動きを見ることでしか、タイミングを合わせることができないことがある。
幸いエルヴィスはそれ以上私と議論することはなく、私の主張を受け入れ、ステージングはより一般的な方法で構成された。
ドラムは中央(ステージ上ではライザーの上)、シンガーは中央、キーボードはステージ左、私はステージ右だ。
他の3人はマイク、キーボード、ドラムセットというスタティックなものに縛られているので、私だけが自由に動き回れるというわけだ。


そんなこんながあり、オーディションで演奏した曲の演奏が始まった。
ある時、エルヴィスが作ったばかりの新曲を聴かせてくれた。キンクスの「Tired of Waiting」のようなスローコードでリフが効いた曲だ。サビになると、「チェルシーに行きたくない」というような歌詞になった。
でも、この曲はテンポが遅すぎてだらけてしまう。そこで私は間を置いてから、ジョン・エントウィッスルが「My Generation」のライブ盤の最後に弾いていたようなベース・リフを弾き始めた。
「このバンドではジャムはできない」とも言われていたが、ドラムのイントロ、エンディング、コーラスのバリエーションなど、何度も推敲して、最初のグループアレンジが完成した。

Tired of Waiting for You - The Kinks (1965)
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(I Don't Want To Go To) Chelsea - Elvis Costello & The Attractions (1978)
www.youtube.com

多くの人が彼をエルヴィスと呼ぶことに抵抗があったようだ。
私の昔の指導者、チャーリー・ジレットは、文字通り口の中に悪臭が残ると言っていた。
歌手のミッキー・ジャップは、物理的に言い出せなかったので、代わりにアルバートと呼ぶことにした。
私にとっては、「昔」のエルヴィスがデメロールを飲んでよろよろとステージを歩く姿ほど腹立たしいものはなかった。
さて、新しいエルヴィスだが、バンド名はどうするのだろう?

恒例のブレインストーミングの時間だ。エルヴィスは、いくつかのアイデアが出尽くした後、少し間が空くのを待って、明らかに一番自信のあるものを放り込んできた。
「スティッキー・ヴァレンタインズ!」と、彼は決定打のように言い放ったが、顔を引きつらせたのは幸い、私だけではなかった。
「スティッキー・ヴァレンタイン!?」
突然、「ムーンライダー」も悪くないとさえ思った。
みんなの反応が乏しかったので彼は少し落ち込んでいるように見えた。
私たちが必要としていたのは、大げさな名前ではなく、クールな名前だった。
私は、マッコイズで「フューチャー・アトラクション(公演予定)」のリストに載っていた、シェベルズやサンダーバードといった名前を思い出していた。



「・・・フューチャー・アトラクションズはどうだ?」と私は言った。
「それは、名前が長すぎるな・・・」
「うーん、それなら・・・アトラクションズは?モータウン風の・・・テンプテーションズっぽいだろ?」


結局、それが採用されることになった。


その日の夜の休憩中、私はまた新しい名前を閃いた。
レコーディングの話、ツアーの話の流れからグルーピーの話になった時、スティーヴ・ネイソンが「グルーピーってなんだ」と言い出した。
「知らないのか?」と誰かが言った。
それからすぐ彼は知ることにはなるが、この時は本当に知らなかったのだ。
「こんなにナイーヴな人間に会ったことがない。
"ナイーヴ・スティーヴ "と呼ぶべきだろう」と私は言った。
このちょっとした会話の中で、スティーヴ・ネイソンはスティーヴ・ナイーヴになったのだ。


その夜、エルヴィスと私は一緒にタクシーに乗ってウエストロンドンに戻った。彼は既に「私を追い出す」ということはすっかり忘れて、まっさらな状態からスタートすることにしたようだった。
帰り道はずっと音楽の話で、彼は今作っている曲のことを話してくれたり、歌詞を引用してくれたりした。

「お前を不健全な状態にしたくない・・・最近は何を聴いているんだ?」と、エルヴィスは私の反応を見るために言った。
「難しい質問だな」と話し始めたが、スティーリー・ダンのことはもう言わない方がいいと思い、「・・・まあ、カントリー以外なら、ほとんど何でも」と答えた。
「ああ、そうか、わかったよ、ただ、もう1ヤードの音楽(another yard of music)を頼むよ」とタクシーから降りた彼は言った。


* * *


1週間後、ナイーヴ・ネイソンとスティッキー・ヴァレンタインズになるはずだったバンドは、1時間のステージセットのリハーサルのため、コーンウォールに出発した。
ロンドンを離れる途中、エルヴィスをハウンズローのサイプレス・アベニューにある彼のアパートまで迎えに行った。
彼が荷物を整理している間、私は彼の本棚に目を走らせた。何が置いてあるんだろう?
ヘルマン・ヘッセ、クヌート・ハムスンか......うーん、思ったより共通点が多いかもしれない。
「なあ、いいものを持っているじゃないか」と私は言った。
「ああ、実はこれ、うちの父のものなんだ」
「そうなのか」

ロス・マクマナス*7は、幼きエルヴィス(当時はデクラン)が見守る中、昼休みに流れていたラジオでジョー・ロス・バンドと一緒に当時のポップ・ヒットをカバーするのをよく聞いたシンガーだったのである。
私はエルヴィスより何歳か年上だったが、彼はヒッピーの時代を避けてきたためか、私と彼の間には、私と彼の父よりも大きな文化的ギャップがあったのだと思う。
しかし、同時に、エルヴィスが私より年上に見えたのは、彼には幼い息子マシューがいたからだとも思った。


M4*8に入って南西に向かう時に、リハーサルのために町を離れるのが楽しみだと私が言った。
エルヴィスは「ここはクソほど木が多い」と言った。
そんなことは思ったこともなかった。バンドはいつも"団結"するために田舎に行くとおもっていたのだ。
私は彼の発言に驚いたが、それが重要なことだと理解した。


キャメルフォードにあった小さな家を借りて、毎日、車で数キロ離れたデイビッドストウ・ビレッジ・ホールに行って、小さなステージに機材をセッティングした。
5日間、エルヴィスがクローヴァーと一緒に作ったデビュー・アルバム「My Aim Is True」の曲を覚えるのと同時に、年末にレコーディングするニュー・アルバムのためのアレンジを行なっていた。
この新しいアルバムの設計図は、ローリング・ストーンズの「Aftermath」であり、それが当時彼が考えていた唯一の「モデル」だった。
私にとって、この週のトピックは「Lipstick Vogue」だった。あのハイパーアクティブなベースパートがどこから来たのか、自分にもまったくわからない。
夜はティンタジェルに行き、岬にあるキング・アーサー・ホテルと、そこにある想像力豊かな名前のエクスカリバーで、みんなと同じようにビリヤードをした。


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週末には、練習したことを実践するための3つのライブがあった。 ペンザンス、プリマス、そしてデイヴィッドストウの村役場で土曜の夜に行われる地元のダンスパーティだ。

ペンザンスに向かう前の晩、ジェイクの友人であるスーがチリ料理を作ってくれた。その時、彼女が使ったのは缶詰の豆ではなく、採ってきた本物の豆だったのだが、どうやら浸す時間が足りなかったようだ。
赤インゲン豆の漬け込みが不十分だと、命にかかわることもある。私たちの場合は、むしろ瀕死の状態になってしまった。

ペンザンスに向かう車の中で、私たちは誰ひとりとして動くことができなかったが、パンツがはちきれそうになるような舞台恐怖症(ステージ・フライト)ではなかったことは確かだった。


私たちはウェイン・カウンティ*9のサポートをしていた。ウェイン・カウンティはこの少し前、世界初、そしておそらく唯一のトランスジェンダー・パンク・アクトであるジェイン・カウンティに変身した。
私たちのセットは、少し控えめなものだったが、ウェインはそう思っていなかったようで、舞台裏ではまるで自分のことがゴミのように見えていたようだ。
彼はとてもストレートで正直な人だった。
「君たちのバンドは何ていう名前なの?今まで全く聴いたことがないサウンドだけど、いつから一緒にやってるの?」
「今日が最初のギグなんだ!」
「なんだって?本当に?」


最初の2、3回のライブは私たちだけで行ったが、3回目のデイヴィッドストウでのライブでは、ジェイクがスティフから大勢連れてきてくれた。
その中にスザンヌもいた。スザンヌは、エルヴィスに「彼はいい感じだから、チャンスをあげて」と言った女性だ。

セットの最後に、ジェイクは私たちに感想を述べ、あれこれとアドバイスをした。マイクテクニック、ステージへの出入りの仕方。しかし、彼の本音はすぐに伝わってきた。
「うるさいな、俺たちはワールドクラスのバンドなんだからさ・・・ワールドクラス、だよな?」
「そのとおり」と私は言った。



スティッフのオフィスはベイズウォーターのアレクサンダー・ストリートにあった。私の昔のバンドだったビター・スウィートを短い期間マネージメントしていた「Jenner and King」と同じビルで、彼らはまだ上の階にいた。
その頃はイアン・デューリー*10&ブロックヘッズ*11のマネージメントをしていた。
スティッフ・レコードは1階と地下に入居していた。地下には、かつて写真撮影のスタイリストだったスザンヌがいて、エルヴィスの新しいルックのため眼鏡を買いに行っていた。
また、地下には美術部があり、バーニー・バブルス*12が働いていた。彼は私と同じように時代の要請に応じて自分を変えてきた。
バーニーは、クイーヴァーのグレイトフル・デッド風のアルバム・スリーブを手がけ、バスドラムの皮に蓮やピラミッドを描いてくれた人だ。
今は、ダムド*13イアン・デューリーのレコード・スリーブを手がけ、ポストモダンパスティーシュ赤と黒で構成された峻厳なグラフィックを描くようになった。


ジェイクのオフィスは1階にあった。彼は広告業界にいて、スティッフのスローガンのほとんどは彼の作品だった。「スティフ以外は、クソにも値しない(If It Ain't Stiff, It Ain't Worth A Fuck)」というものや、「時間を殺すと成功も殺す(When You Kill Time, You Murder Success)」と書かれた壁掛け時計もあった。また、彼は洞察に富んだ観察をしていて、「'78年には、1945年生まれの人々が33 1/3歳になるだろう(In '78, people born in '45 will be 33 1/3)」と書かれていた。


ジェイクは、デイヴ・ロビンソン*14という、グラハム・パーカー*15&ザ・ルーモアをマネージメントしていた口が達者なアイルランド人とオフィスを共有していた。
名目上は責任を分担していたが、エルヴィスはジェイクのアーティストで、グラハム・パーカーはデイヴのアーティストであることは明白だった。


デイヴ・ロビンソンは、私が初めて事務所を訪れたときに、自分の見解を押し付けてきた。
「ミュージシャンは浜辺の小石みたいなものだ」と彼は言う。
「そうなのか?」と私は言った。
「そうだよ、浜辺の小石だ」と返ってきた。
デイヴ・ロビンソンの第一印象は、「ちょっと嫌な奴だな」というものだったが、その第一印象は見事に的中することになる。
「お前のようなバカこそ砂粒のようなものだ」と私は思ったが、事態を悪化させないためにも黙っているのが一番だ。


ディングウォールズでのロンドンでのデビューギグの前日の午後、エルヴィスとバンドは、スティッフのプラカードを持ったメンバーとともに、アメリカのCBSの重役が会議に出席していたパークレーンのヒルトンの前に集合した。
ホテルの入り口付近の歩道に陣取ったエルヴィスは、昼休みに公園を散歩して戻ってきた彼らを、バッテリー駆動のアンプで演奏をしながら歌い、ロビーに案内した。
まだ、アメリカでのレコード契約が決まっていなかったので、ジェイクが関心を持たせるために行ったことだ。

一方、ヒルトンの経営陣は現地の警察を呼び寄せ、ECが路上演奏(バスキング: 違法にお金をもらって演奏すること)で逮捕されることになった。
「金のためじゃないんだ」と彼は抗議した。
それで結局、彼は無礼という理由で逮捕されたが、公演の時間に間に合うように保釈された。


リハーサル、写真撮影、ロンドンでのギグなど、事態は急速に進展していた。
ハイ・ウィカムに行く途中、アール・デコ調のフーヴァーファクトリーの建物の前を通り、ライブに着く前にその建物についての歌*16が作られ、その夜のセットで演奏された。

ある写真撮影のとき、ELV15というナンバープレートのジャガーXJSが停まっているのを見つけたので、エルヴィスは行って、持ち主が出てくるまでそのそばで何度かポーズをとったが、その持ち主はフリートウッド・マックのツアーマネージャーであることがわかった。
フリートウッド・マックは、ピーター・グリーン率いるかつてのブルース・バンドではなく、リーダーを失ってカリフォルニアに行き、AORの代表格としてかつてとは正反対の存在になっていた。
「お前は誰だ?」とツアー・マネージャーは言った。「みんなからはエルヴィスとして知られている」と返した。


デビューギグから1ヶ月後の8月中旬、誰も予想だにしなかったことが起こった。
メール紙とエクスプレス紙の両紙がバンドの特集を組む前の日に、本家のエルヴィスが亡くなったのだ。
私たちの特集は即打ち切られ、死亡記事と追悼文が掲載されることになった。しかし、それは一時的なもので、ジェイクは「The King is Dead, Long Live the King」という演出の準備を始めていた。


その同じ週、私たちはベルギーでポップフェスティバルに出演した。
我々はダムドと一緒にバスとフェリーで旅したが、彼らは楽な旅行仲間ではなかった(正確には、「不安定な」仲間と言った方が良いかもしれない)。
キャプテン・センシブル*17は、まるで普通の人のように最新のクリケットのスコアを知りたがるというジョークを言い続けていたが、彼らと一緒に旅をするのは容易ではない。帰り道で、エルヴィスはバスの後部座席に横になって眠り込んでしまった。
ダムドのメンバーはパンクのような反逆を試みるチャンスを見つけ、エルヴィスの靴紐を結び合わせ、灰皿を彼の半開きの口に放り込み、そしてさらに彼のズボンの裾に火をつけた。


その後、私たちはイギリス中を地方公演で回った。私はバンドをレンタカーで移動させ、機材はバンに積んで行った。私たちは多くの機材を使用しなかった。頑丈な新しいベースキャビネットを数台持っていたが、ギターアンプはセッション用アンプのサイズで、ピートは通常のサイズのドラムセットを使用し、オルガンは通常の巨大なマホガニーハモンドオルガンではなく、「レトロ」なヴォックス・コンチネンタルを使用した。ほぼ60年代のビートグループと変わらない。


毎週日曜日にはハマースミスのナッシュビル・ルームで演奏し、入場待ちの行列がブロックの2周分もできるほどだった。
一方、週の半ばにはエディンバラグラスゴーといった遠方でギグを行い、時にはロンドンでのトップ・オブ・ザ・ポップスのために日程の隙間を縫って飛行機で移動した。
メイデンヘッドの近くで、私達を載せた小型飛行機は霧に覆われた飛行場に着陸しようとしたが道に迷い、低い雲から抜け出してキャラバン・サイトの屋根をかすめるように飛んでいた。
突然、エルヴィスがバディ・ホリーのように見えてきた。

クリスタル・パレスでの野外ショーでは、数百ドルではなく、数千ドルのギャラが支払われるようになった。その街で一番ホットなチケットになったことで、私たちは日々、ステータスが上がっていくのを感じていた。

苦節ウン10年にしてようやく大ブレイク。


追記:コステロ側から見た視線で Watching the Detectives してみました。
shintaness.hatenablog.com