俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 23 Carry on Camping


1996年、エルヴィス・コステロとの再度の不仲とアトラクションズの再解散まで。

CHAPTER 23 Carry on Camping

テニスのタイブレークはエキサイティングなものだが、勝敗を決するのに45回ものラリーを要するとなると、スタミナを試すだけのものになってしまう。
そして最後には、喜びの声ではなく、安堵の声が上がるだろう。
だから、もし全員が「トイレに行きたい」とか「渋滞に巻き込まれるだろうな」としか思っていないのなら、45曲も演奏する意味はあるのだろうか?
エルヴィスは、スプリングスティーンが3時間のセットを演奏したことを知ると、それを上回るために3時間半演奏しなければならないと確信していたのだ。
私の主張としては、テニスやサッカーの「最高の試合」とはエキサイティングであり事件に満ちていて、最高のライブと同じように普通の時間で終わる、というものだ。
そのような試合の例として、私はつい先日の1996年カップ決勝のマンチェスター・ユナイテッドvsリバプールのゲームを挙げた。


エルヴィスは70年代と80年代の栄光の時期を通じてリバプールのファンであり、一方マンチェスター・ユナイテッドは同じ20年間、低迷期を過ごしていた。
しかし、マンチェスター・ユナイテッドには既にアレックス・ファーガソン監督がおり、「リバプールをその座から引きずり降ろす」と誓い、そしてそれはすでに始まっていたのだ。
エルヴィスがサンフランシスコのバーでその試合を見ていたのは知っていたが、あの往年の天才エリック・カントナが一歩下がってハーフボレーで選手の群れをかき分けて勝ち越し点を決めた時、私は「延長戦やPK戦よりも、こういう事件や興奮の方がずっといい」と「無邪気に」コメントした。


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ツアー前、ロンドンでジュールズ・ホランド・ショーの収録中、エルヴィスがステージでムーディーなソロ・バラードを演奏している間、バックステージの私たち、アトラクションズ、弦楽四重奏団、スタジオ・スタッフがテレビの周りに集まり、音を小さくしてユーロ'96を観ていた。
オランダ戦でイングランドが4点目を決めた瞬間、歓喜の歓声が沸き起こり、驚いたエルヴィスは演奏を中断してもう一度録音し直さなければならなかった。
私たちと一緒にテレビを見ていたほうがよかったかもしれない、と思った観客の間に波紋が広がったからだ。


ダブリンでのオープニング・ライブは、イングランドvsドイツの準決勝と重なった。
エルヴィスは賢明にもセットを試合の終了まで延期することに決めたが、イングランドが苦戦している中、彼とケイトは喜びを隠すことはなかった。
「彼らは君たちを興奮させようとしているだけだから、まあ気にするな」とツアーマネージャーのロビーが言った。
「まあ、成功しているんだけどな」と私は言った。


これ以上はライブ開始を延期できないと判断し、我々は舞台に上がることを余儀なくされた。
舞台の横にある小さなテレビのそばにいたロードクルーの一人に、イングランドが得点したらサムズアップ、失点したらサムズダウンをしてくれるよう頼んだ。
30分経ってもまだ決着がつかず、「PK」という言葉が口にされた。
11本目のPKで、サムズダウンが出された。サウスゲートが外してしまったのだ。


アテネのホテルの部屋で、ドイツが決勝戦に勝ったのを見ていた。
翌日になり、我々はドイツに到着した。ある時、我々が二人だけになった時、運転手が振り返って私に向かって「イングランド、負けましたねぇ」とあざ笑っていた。
見事にシャーデンフロイデ(人の不幸は蜜の味)という概念を示していた。
私はつい「二つの世界大戦と、一つのワールドカップ・・・」と口をついた。
この頃、どういうわけかサッカーにまつわる軽口の数々で、物事のトーンは決まっていった。


マドリードでは、物流の問題が発生していた。荷物受取所では自分たちの荷物だけでなく、アンプやドラム、その他の機材まで取り扱わなければならなくなった。
もし素晴らしい演奏が続けばそれも許容できたかもしれない。
しかし、その夜のショーは屋外の公園で行われ、最前列には地元の要人と彼らの愛人が座っていた。彼らの表情はまるで「ここに座っているのは自由意志ではなく、特権だから」と言っているようだった。


しかし、次のショーの後、事態は急激に悪化した。
我々はラ・マンガに滞在していた。新しく建てられたゴルフリゾートで、輸入されたヤシの木が植えられていた。
この場所はすぐにサッカー選手たちのお気に入りになった。その夜のショーは、数分のドライブで到着する別の屋外会場、小さな闘牛場で行われた。
セットの中で、エルヴィスは「I Can't Stand Up For Falling Down」を演奏したが、それは私たちのヒットシングルのアップテンポスタイルではなく、オリジナルの「サーモン・デイブ*1」のバラードのようなスタイルだった。
「I've tasted ...the bitterness of my own tears」というフレーズになったとき、私はメロディックなフィル、 ギタリストが演奏しそうなスパイシーなブルースのリフを細い1弦で演奏した。


翌日、我々はバルセロナ行きのフライトに乗るために空港に向かっていた。
その時、向かい側に座っていたエルヴィスが私に言った。
「昨夜のように、ステージでの派手な振る舞いはやめてくれ」
「・・・派手ってのは?」
「俺が何を言っているかわかってるだろう?」
おそらく私はその意味を理解していたのだろう。しかし、その瞬間、彼との間に完全なる隔たりが生まれてしまった。
「ステージ上にスターは一人で十分だ」


私は笑ってしまった。ジョークだと思った。
ジェームス・バートンがレストランの明細を手に取り、「おいおい、サラダは食べなかったよ」と大真面目に宣言したときと同じように、ジョークだと思ったのだ。


「俺のバンドにはクソみたいなソロはいらない」というのは、エルヴィスが最初に私たちに言ったことだった。

後で知ったのだが、ジェイク・リヴィエラは、私がギターとベースのダブルネックギター*2を持てば良いのでは?というアイデアを出したと聞いた。
そうすれば、私がギターソロを担当している時は、スティーブがキーボードでベースパートをカバーすることができる。
私は控室で他のアクトがステージ上で演奏している時、それに合わせてギターでジャムセッションをしていたことがあり、ジェイクはそれを見ていたのだ。
もちろん、それは現実的ではない恐ろしいアイデアであり、提案されたところできっぱりと断っていただろう。
しかし、エルヴィスと私の間には、ギタープレイについての緊張感は常にあった。
エルヴィスは、「マニタス・デ・コンクレタ(コンクリートの小さな手*3)」と私に呼ばれることに慣れる必要があったのだ*4


ただ一度だけ、オランダでのギグのアンコールで、彼がベースを弾き、私にギターを弾かせたことがある。
しかし、その音源は残っていない。その場にいた人しか知らない話だ。
しかし昨夜、私はベースでギターのフレーズを弾いた。
ホレス・バーロウ・エクスペリエンス*5の伝説的な出演のように私にとっては一度限りのことだった。

しかし、昨夜、私はベースでギターのフレーズを演奏してしまい、エルヴィスはそれに対して非常に明確な不快感を示した。
メロドラマを誇張しているかもしれないが、彼は最初から芝居を打ったのかもしれない・・・。それが私を刺激したのだ。
ステージ上にスターは一人で十分。
彼の主張は本気だった。
この話が伝わってから、クルーの一人が私に言った。
『それなら、これからは彼をテックスと呼ぶしかないな、だって彼は今ローンスター州にいるんだから』


アムステルダムでは、私はホテルの部屋の変更を要求しなければならなくなった。
私が宿泊した部屋は、騒々しい結婚披露宴が早朝まで続いていたボールルームのすぐ上に位置していたからだ。
最終的に、私のために見つけられた唯一の静かな場所は、ホテルの反対側にあるオフィスと会議室が完備されたスイートだった。
ピートとスティーヴがこれを知ると、競争が始まった。
新しいホテルにチェックインするとすぐに、私たちはフロントデスクにアップグレードを依頼するために電話をかけるようになった。
バルセロナでは、私はクリケットピッチの長さの部屋と、ラムブラスを見渡せる巨大なバルコニーを手に入れた。


バルセロナでのライブは、クリス・ボードマンが数年前にオリンピックの自転車競技で金メダルを獲得した同じバロドロームで行われた。
その夜、私は「派手な振る舞い」をすることはなかったが、特に上手く演奏することもなかった。
以前、ニューヨークでは指を一度も見ずにフルセットを演奏することにチャレンジしたことがある。
しかし、その日の夜は、いくつかの音程を間違ってしまい、エルヴィスが一回転してこちらを睨みつけるほどのミスを犯してしまった。


後にエルヴィスは、それが私に伝わることを理解した上で、他のメンバーに「私はプロとしか仕事をしない」とコメントした。
私は笑ってしまった。
彼が最初にバンドを結成するとき、彼は演奏をしたことのない初心者だけとしか仕事をしない、と言っていたのだ。


私も、それがエルヴィスに伝わることを理解した上で、「プロフェッショナリズムの問題で彼の考えを変えることができたことに喜んでいる」とコメントし、「そもそもプロでなければならないのは当たり前だろう?みんなお金のためにやるのであって、ただの楽しみのためだけにやる人なんているのか?」と付け加えた。


バンド初期の頃、一緒に夕食に出かけたロードクルーの一人が、私とエルヴィスが一晩中口喧嘩をしているのを聞いて、とうとう割り込んできた。
「お前たちは二人ともメンタルのチェスをやってるんだな」と言うのだ。
しかし、今はナイルズとフレイジャー*6のように得点を競うような言葉遊びではなくなっていた。
言葉の刃はますます鋭くなっていき、やがて鋭すぎてポイントはほとんど見えなくなり・・・そして最後には、もはやポイントすら存在しないのだ。


我々はイギリスに戻ってリバプールのホテルに到着し、チェックインデスクで部屋の鍵を受け取った。
「バッグをそこに置いたままにしないでくださいね、盗まれてしまうから」と受付係が言う。

その夜のライブの後、私の部屋の近くで大騒ぎがあった。
おそらく現地の人が予約し、友人をパーティーに招き入れ、ミニバーを空にし、いくつかの国際電話をかけた後、立ち去ったのだろう。
私は受付にクレームを入れ、誰かを派遣して解決してもらってようやく静まった。
次の日、私がその話をしていた時、「受付に電話したのはおまえか?」とエルヴィスが割り込んできた。
後でツアー・マネージャーのロビーに聞いたが、あの大騒ぎは私が思っていたようなパーティーではなく、ルームサービスの食器が原因の事件だったようだ*7


グラスゴーでは、私たちはいつものデヴォンシャー・プレイスのブティックホテルに滞在した。
リビングルームには上質なシングルモルトが揃えられていた。前年、スコットランドを旅行している間に、私はモルトウイスキーについて少し詳しく知る機会があった。
医薬品のようなヨードの効いたアードベッグから、クリスマスケーキのような甘いグレンファーカスまで。そしてその夜、私は必要以上に数種類のウイスキーを試した。
翌朝、ミニバスに乗り込む際、久しぶりにひどく気分が悪かったが、少なくとも我々は休日、あるいは「移動の日」と言うべきなのか、を取ることができた。

カタロニアのホテルでは、リーダーと妻、そしてバンドとクルーを含むみんなで一緒に夕食をとった。
長いテーブルには、本能的に厳密な序列、上座と下座で座った。
私はそこからできるだけ早く立ち去ることにし、町を1時間ほど散歩したが、逆方向からエルヴィスと他のメンバーに出くわしてしまった。
「えーっと・・・会場はあっちだっけ?」
「そうだな」
「まあ、ちょっと見に行こうと思ってね」と私は嘘をついた。
我々は別々の道を進んだ。
背後ではエトナ火山が静かに燻っていた。


ロンドンのラウンドハウスでは、我々の楽屋はDI(デジタル・インターフェース)の巨大な音響システムの真下にあった。
エルヴィスはその頃、テクノプロデューサーとのプロジェクトを行っており、その結果生じたインダストリアル・サウンドが1時間以上も私たちの頭上に轟音として降りかかっていた。
私は音楽を演奏する気分がまったくなくなっていた。

セットの途中で、「Chelsea」が延々と即興演奏に入った。
これらのジャムでは、通常、ベースから大部分またはほとんどの音楽的な動きが生まれていた。
しかし、今では私が何か奇抜なことや独自のことをしようとすると、派手に振る舞っていると非難されるのではないかと思った。

エルヴィスは私のところにやってきて、顔を目の前に近づけ、かつて一度しか見たことのない表情を浮かべた。
それは「別の」アトラクションズに向けられたときのもの*8と同じだった。
彼は私を刺激してインスピレーションを引き出そうとしていたのだろうか?
デレク・ジョーンズとのスパーリング経験の後では、それはバンビに睨まれている程度の恐ろしさでしかない。
私は彼をステージ上で倒すことを考えて笑った。
メロディ・メーカー誌の「な、殴られた!!」の見出しのためにそれをやる価値はあったのかもしれない!


* * *


ニューヨークでのライブ後、私は落ち着かず、散歩に出かけた。
ラジオシティ・ミュージックホールの近くまで来てしまった。かつてそこで行ったショーを思い出せずにはいられなかった。

私はギグの後、ステージ下の楽屋から離れて廊下を歩いていた。すると、体よりもずっと小さな檻の中に、その目に悲しみを宿したトラがいた。
私はその光景を忘れることはないだろうと思った。
おそらくそれは何らかのエキゾチックなショーの一部で、鎮静剤を打たれ、キラキラした派手なエキストラバガンザのクライマックスでステージに導かれていたのだろう。
それはどれほど悲しい結末だろうと思った。
故郷の陽光と広々とした空間から遠く離れ、動く余地もなく尊厳を奪われたまま、私たちが過去に3時間、騒々しい音を鳴らしていたステージの下で囚われているのだ。
それはたぶん地獄だっただろう。


デトロイトでは、前代未聞、ケイト・オリオーダンがアトラクションズの楽屋に現れた。氷水で満たされたドラム缶の中で冷やされたドリンクを漁りにきたのである。
「何か手助けしましょうか?」と私は尋ねた。
それはごく普通のコメントに思えるのだが、わずかに皮肉を含んでいたため、ケイトとしてはあまり気分は良くはなかったかもしれない。
「自分自身すら助けられないくせに」と彼女は文句を言った。
彼女が探していたドリンクのボトルを持って去る際、私は彼女の後ろで短いおしゃぶり音を鳴らした。
間違いなくそれはエルヴィスに報告されたことだろう。


シカゴでは、ホテルから会場まで距離があったのだが、サウンドチェック後にそこで待つことなくホテルに戻り、ホテルのスチームルームを利用することにした。
そこで私は、わくわくしながら自分のキャデラックのストレッチリムジンに乗り込み、まるで結婚前夜祭に向かう女性のようにホテルのリッツ・カールトンに急いで戻り、ちょっとしたリラックスを楽しんでいた。
しかし、どれだけの贅沢さがあったとしても、崩れ始めている継ぎ目を隠すことはできない。


おそらくエルヴィスは我々がやっていた部屋のアップグレードゲームのことを察したのかもしれない。
というのも、ミネアポリスではホイットニーホテルの部屋を変えただけでなく、ホテル自体も変更していたのだ。
ロビーは最初の部屋の鍵を私に渡し、既に支払いが済んでいるのでその部屋を使うように、と言う。
それで私は、テニスコートほどの大きさのベッドルームに、同じくらい広いデイスイートへと続く階段がある部屋に滞在することになった。
「これが彼が手放したものなら、彼が移った場所は一体どんな場所なんだ?」と、ピートが私の新しい宿泊施設を見回して言った。
そして我々はそれを確かめることにした。


「我々はMr.コステロのスイートルームをチェックしに来た者だ」と、ミネアポリスで最も高い建物のロビーでセキュリティの男性に告げた。
ハッタリが効いたのである。我々はただやりたいことを言っただけだ。
彼の側近に紛れ込むために完璧な服装をしたので、明らかに警備チームの一員だと思われていたのである!
では、我々は一般の人々が使うエレベーターで上がったのだろうか?いや、そうではない!
ホテルのセキュリティの男性が案内してくれたのは、最上階に直結する専用エレベーターで、そこには・・・お待ちかねのプレジデンシャル・スイートがあった。
数週間前には大統領自身がそこに滞在し、手配に完全に満足し、十分に安全だと感じていたと伝えられたようだ。私たちは聖域に案内されたのだ。
窓の外、向かいの建物に向かってうなずきながら、「どう思う?スナイパーが出入りできそうかな?」と私はピートに聞いた。
ピートは12人掛けの長いテーブルの下にいる虫を探しながら、「あり得るね」と言った。
「ガラスはすべて防弾ガラスですよ」セキュリティの男性が言う。
私たちは、「ミスター・プレジデント」に提供されるものをすべて見終えるまで、お互いに知ったかぶりをしながら鷹揚に見回りを続け、最終的に「OK」を出してその場を離れた。


エルヴィスの誕生日にオースティンに到着した。
ピート・トーマスが彼にぴったりのプレゼント、赤い星のついたロシア製のギターエフェクトペダル、を買ってきた。
もしかしたら「ホレス・バーロウ」がゲスト出演するかもしれない。
ニューヨークでエルヴィスから私に贈られた誕生日のプレゼントは高価なウイスキーのボトルだったので、今度は私がお返しをした。
ホテルのスタッフにスイートのドアを開けてもらい、彼が部屋に戻った時に目につくように、はく製のアルマジロをテーブルに置いてきた。


* * *


サンフランシスコに到着した頃には、エルヴィスはセットの中盤でますます長いソロパートを演じるようになり、彼のもう一つの自己である「愛されるエンターテイナー」として、観客を楽しませるユーモアのあるモノローグを披露していた。
「Poor Fractured Atlas」という曲には、「I'm almost certain...(私はほぼ確信している...)」というフレーズがある。
バックステージで、誰かが聞いている場合には、それに適当な韻を踏んで完成させることがあった。
「his trousers are off, but he's keeping his shirt on(彼はズボンは履いてないが、シャツだけは着ている)」といった具体的な韻を使っていた。
しかし、やがて、もっと下品な韻が登場し、「curtains (カーテン)」と絡めたものになった。

私は、廃れつつあった名誉ある伝統を守っていただけだ。
現在では、ポップのスクールボーイ風のユーモアはほとんど排除されてしまっていた。
今日では、一部では、バンドの妻でさえも歌詞に口をだすことさえある。
かつて、スクイーズのクリス・ディフォードの「I gave the dog a bone」のようなフレーズ(犬の栄養のことではない)を書けたような日々はとうに過ぎ去ってしまった。
ビートルズも今では「a fish and finger pie」(シーフードスナックの意味ではない)について回想することはできないだろう。
そして、もはやザ・フーも「Mary Ann with the Shaky Hand」について書くことはできないのだろうか?

バンド名にも、時折下品なネタを巧妙に盛り込んだものがあった。
「10cc」は男性の精液の平均量を意味していると言われているし、スティーリー・ダンウィリアム・バロウズの「ネイキッド・ランチ」に登場する凶悪なディルドの名前である。
そして、女性バンドの「We've Got a Fuzz Box and We're Going to Use It」はどう解釈すべきだろう?

もちろん、これらの妙な命名はブルースから始まったものだ。
peach trees(桃の木)、lemon-squeezers(レモン絞り)、backdoor men(裏口の男)など、隠れた意味を含んだ表現があった。
また、リトル・リチャードが「A-wop-bop-a-loo-bop-a-lop-bam-boom!」と叫んだ後、「tutti frutti」と意味のない歌詞「aw ma rooti」と続けたが、本当の韻は「good booty」であり、これはゲイの売春娼婦の歌を自己検閲していたのである("bald-head Sally ducking in the alley" が何を意味するかは自分で考えてみてほしい)。
この種のものは今ではヒップホップにも見られるが、それはより露骨で明示的で不快であり、言葉遊びや楽しさの感覚はない。


* * *


LAにいる間に、ジェイ・レノの番組の収録をした。彼はブルース・リーの息子のブランドンと俳優養成所で一緒だったということで話したかったのだが、そのチャンスはなかった。
「You Bowed Down」を演奏していたが、最後のコーラスになりエルヴィスは即興で歌い始めた「I never should've crossed back over the bridge ...that I burned! (燃やした橋の上に戻るべきじゃなかった!)*9」。
歌い終わると、私は彼の目を見てにやりと笑い、眉をひそめた。
「決して君のことじゃないよ」と彼は嘘をついた。
「あのフレーズはレコード会社のことだ。ああ、それとアルマジロをありがとう」


ポートランドの空港ラウンジで、シアトル行きのフライトを待っている間、私はエルヴィスとケイトがジョン・リー・フッカーと話しているのを見た。
偉大なブルースマンはすでに80代に突入していたが、シャープなモヘアスーツに高級な靴、クールな帽子を身に着けていた。
搭乗が始まると、私はジョン・リー・フッカーに続いて機内に入り、彼の隣の席に滑り込んで会話を始めた。その結果、またもやあの見つめられるような視線を浴びた。
私はジョン・リーにこの理由を説明し、そして騒動を引き起こした即興のブルースのフレーズについて彼に話した。
正直に言うと、私はオチのために話を盛ったのだ。

「If it's in him, it's got to come out (もし彼の中にあるなら、それは出てくるはずだ)」

ジョン・リーがそのフレーズを繰り返すと、彼の顔に暖かい光が広がり、まるで偉大なる知恵を聞いているかのようだった。
しかし、それは彼自身のセリフだったのだ!
両親の反対を押し切ってブルースを愛し、成長した彼の姿を描いた「Boogie Chillun」の中の一節だ。この曲はその効果を表すモノローグで、最後に父親が母親に「それは彼の中にあって、出てこなければならない(...だから私は同じようにブギウギを続けた)」と話しているのを耳にする。


その夜のシアトルでは、エルヴィスは一人で劇場に到着し、アトラクションズの控え室でくつろいでいた。
まるで間違ったパーティーにやってきてしまった少し恥ずかしそうなゲストのようだったが、それでも歓迎されていた。
その日はすべてがほぼ普通の状態だった。
私たちはまともな会話を交わしていた。緊張はほとんどない。
私たちは、ジェームズ・ブラウンの「I Got You, I Feel Good」でセットを開始し最高の演奏を披露した。
しかし、それは雲間から覗いた最後の一瞬の開放感だった。


* * *


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大阪空港から市内へ向かう道路は、ところどころで高床式になっており、緑色の濁った川の上を、製油所や工場、鉄塔など、風景を圧倒する建物の隙間を通って流れていた。
私のホテルの部屋は今まで入った中で一番小さかった。
しかし、少なくとも渋滞に巻き込まれながら街を通る必要はなく、コンサートホール*10はホテルのすぐ後ろにあり、ホテルのキッチンや積み込み場を通ってアクセスできた。
日本の多くのショーと同様に、開演は早い時間、午後6時で、午後9時までには全てが終わった。

英語の表示がなかったため、日本のツアーコーディネーターがいなければすぐに困難に直面していただろう。
我々の生活を少しでも簡単にするため、彼女は私たちに「ダフネ」と呼んでいいと言ってくれた。
そしてダフネは今、私たちをプラットフォームに並べ、白と金で縁取られた制服の職員がチケットをチェックした後、私たちはホームに並んで東京行きの列車に乗る準備をした。

グリーン車です」と、切符の切り方と同じようにきっぱりとした態度で言った。そして、ホームに描かれたシンボルマークがある場所まで、私たちを連れて行った。
ダフネは、あと2分で列車が到着するから、その場で待機しているようにと言った。
時間通りに新幹線は駅に滑り込み、私たちの車両のドアは、ホームに描かれたシンボルとぴったり向かい合うように到着した。私たちは乗車し、座席を確保すると、ブレーキの音とともに列車は駅を出て、徐々に速度を上げ、郊外を疾走し、瓦屋根の上を走り、田園地帯に出た。


中国にもインドにも行ったことがある。どちらの場所でも、自分がまるで別の惑星にいるような感じがすることがあったがそれは日本でも同じだ。
電車が飛行機と同じ速度で走る一方で、タクシーは座席の背もたれにレースの飾りがついていたり、窓には小さなカーテンがついていたり、ハイテクとキッチュが融合した日本独特のものだった。
そんな中、ホテルに着くと、急に部屋に花を飾りたくなった。アニメの子猫を映す最新式のテレビではなく、何か生きたものが欲しかったのだ。キース・リチャードは雰囲気を出すために、携帯していたシルクのスカーフを部屋のランプにかけたり、ウィリー・ネルソンは小さなテントを張って寝たりしていた。


私は花屋を探しに出かけ、ホテルの周りを1ブロック、2ブロック、3ブロック、4ブロックと歩いた。花壇や窓辺にも、私が何かを "持ち上げ "られそうな場所はなかった。
ゴルファーや株式市場関係者、政治家の映像が映し出されるスクリーンはたくさんあり、パチンコ屋にはピンボールで遊んでいる人たちがたくさんいた。

やがて私は、子供を抱きかかえ明るい未来を指し示す女性の彫刻がある、悲しげな小さな公園の入り口を見つけた。
しかし現在では、かつて自転車が置かれていた段ボールの上に、痩せこけた薄汚い髭面の男が、同じような人たちとともに横たわっていた。
公園には、まるで同じパッチワークの家族のように見える野良猫の一団も住み着いていた。中年の夫婦が、彼らに餌をやろうとツナ缶を持ってやってきた。
これとは対照的に、さらに遠くではファッションの写真撮影が行われていた。もしかしたら、東京で唯一残された、背景として使える木々だったのかもしれない。


* * *


東京でのライヴは、回を重ねるごとに雰囲気が暗くなっていった。『I Want You』のバージョンが上がるごとに威圧感が増し、ステージ裏で何かが起こっているのは明らかだった。
私はこの曲を長く演奏していたので、彼がこの曲をただ演奏しているときと本心から演奏しているときの違いがわかるようになっていた。


その都市で4回目の最後のショーの直前で、会場に向かうためのロビーからの合図まであと1時間あった。
そこのベッドに横になり、目をゆっくりと閉じたところ、突然、純粋な力のうねりが床を震えさせた。すべてが揺れ、うめき声を上げた。
風に揺れる竹のような建物の29階で、ベッドから転がり落ち、非常階段に向かって走っている女性と廊下で衝突した。
「私はニューヨークから来たのよ、何でこんな目に遭うの!?」

29階のような高層にいると非常階段で地上に到達するには少なくとも10分はかかり、途中でもしも第二の地震が起きた場合、建物全体が崩壊する可能性もあった。
そこで私は、非常用照明が壁に巨大な私の影を映し出す廊下に座り込んだ。
もし、これで終わりなのであれば、これで終わりなのだ。
そして、私にはどうすることもできない。
そして、すべてが始まったのと同じくらい突然、最後の小さな揺れと震えが収まり、不気味な静寂が残った。
電源が復旧すると、緊急放送のアラームが鳴り「皆様、地震が発生しました」という声が聞こえた。


翌日、ホテルのロビーでエルヴィスとケイトが手をつないで現れた時、二人とも私に軽蔑的な目を向けた。
過去の1週間にわたって、私がホテルのロビーで集まるファンに彼らの悪口を言ったり、ファンジンを運営する人々に情報(または誤情報)を提供していると疑心暗鬼になっていたようだ。
しかし実際はそうではない。単に彼らと話していただけだ。
しかし、この時点では、そうではないということを信じてもらうことは望めなかった。
これらのファンの中には、最初から私たちと一緒にいた人もいた。
私たちは名前で呼び合っており、ほぼ20年間私たちを追いかけており、ツアーのすべてのショーに足を運び、自分の費用で旅行し、私たちの近くや同じホテルに滞在している人もいた。
彼らはすでに昨夜のセットリストのコピーと、ライブのブートレッグ・テープを持っているだろう。
そして、彼らは既に何が起こっているかを私よりもよく知っていたのだ。


後日、私がピートと話している最中に、ロビーの端でエルヴィスがうろついているのに気付いた。
ピートが去った後、エルヴィスが近づいてきて、何気ない世間話をしてから本題に入った。
「もう俺たちは、うまくやっていけないと思う」とエルヴィスは言った。
私はその質問が修辞的なものであると理解した。
「つまり、以前はジェイクを悪者にすることができたのに、彼がいなくなってから、今はお互いを悪者にしているだけになっている」とエルヴィスは続けた。
私は黙って聞いていた。
「もしかすると・・・もっと小さな観客の前で演奏するしかないのかもしれないな」と彼は自分の思考に従って言った。

その時、カメラを持った若い日本の女性がやってきて、私たちの写真を撮りたいと言った。
私は最高の笑顔でエルヴィスの肩に腕を回し、彼女は写真を撮った。
「これは歴史的な史料になるな」と私は彼女に言った。
「・・・歴史的?」彼女は自分が正しく聞いていたかどうか疑問に思ったようだ。
「そう、歴史的な史料だよ」と私は繰り返した。

この一連のやりとりでエルヴィスの言いたいことの本質を私は理解したが、とにかく、彼女は堅苦しく一方的な会話を中断させるには十分働いてくれた。


* * *


数年後、グレーム・トムソンという愉快なスコットランド人が、エルヴィス・コステロの伝記『his life and work』を執筆した。
彼が本を執筆している間、私は彼とかなりの長時間話し、彼に写真をいくつか提供し、彼は私を有益な寄稿者の一人として認めてくれた。
ちょうどその時に撮られた写真のコピーも彼は手に入れることになった。

ただ、彼が書いたキャプションには、エルヴィスと私のボディランゲージの相違点を指摘し、私の側に何らかの無邪気な無自覚さがあると示唆していた。
彼が書いたこの物語の最も重要な部分で、彼は何らかの理由により私の回想からは大きく逸脱していた。
エルヴィスの主張であった「ブルースがエルヴィスを故意に怒らせるために『非プロフェッショナルな』演奏を始め、エルヴィスがブルースを追い出すしかない状況に追い込んだというストーリー」に同調していたのだ。
(彼は他の章では私の言葉をそのまま引用しているにも関わらず、である)

残念なことだが、それは事実ではない。
そしてこの「ストーリー」は半径1000マイル以内にすらいなかった人々によって拡散されてしまうのである。
そしてもし、近代のノストラダムスがいるのであれば、彼はたった今起こっていることについての、間違った噂やフィクション、空想が、「ウィキペディア」と「ソーシャルメディア」というものに掲載される未来を予言していたかもしれない。


しかし、この物語は整然とした軌跡を描くことができる。
ちょうど2年前にアトラクションズの再結成を象徴した地震があったように、もう1つの地震がそれを終わらせた、ということだ。

私はさらに、私がほぼ20年前にスティッフに電話をかけた際に応答してくれた女性(・・・そして後に私と結婚した同じ女性*11)が、もし「電話を切ってくれ」と告げる声に従った場合、これらのことすべてが起こらなかっただろう。
どれほど小さな瞬間が大きな転機となるのだろう。


* * *


最後のギグは名古屋で行われた。私たちはエル・モカンボ風の古いセットを演奏し、過去の一連の曲を一気に走り抜けた。
私は、あまりにも多くの「怨みはない」という意味の頷きやウィンクを使い過ぎたことは自覚しているが、誰もが感情的な時間を過ごしたことは否定できない。


予約した列車の席に座ると、数分後にエルヴィスとケイトが到着した。エルヴィスは手を差し出したが、私が握ろうとすると、彼はケイトに握らせるよう合図した。
「わかったわ、でも彼は最低ね!」と彼女が言った。

私が座っている間、彼らは私の後ろの席に座った。私は自分自身に微笑んだ。少なくとも私はジェイクよりも数年長く続いたのだ。

ヒースローで、スティーヴとピートに「さよなら」と言ったが、ちょうど私たちを見たばかりの若い日本のアーティスト*12と一緒にレコーディングする予定が組まれたため、彼らとはすぐに会うことなった。

エルヴィスと私は握手した。


「いつかまた」
「いつかまた」


こうして、曲は終わった。最初はエキサイティングでパンチが効いていたが、次第に調和がとれなくなった。しかし、置き場違いの音符はなく、ただフェードアウトで終わった・・・。


(ブログ管理者コメント)

これを読む限り解散のキーとなっていたのはケイト・オリオーダンなのかなという気がする。ジェイクと揉めてクビになり、ブルースとも敵対してしまった。

ケイトが気に入らない人間になってしまうとアウトなのだろう。

ケイトはコステロ側の家族と上手くいっていなかった、という内容もコステロ側の自伝に書いてあったが、ひょっとすると家族だけではなく、コステロの関係者周辺全てなのかもしれない。

エルヴィス・コステロ自伝から引用する(590ページ)

おそらく僕らは、互いに唯一、必要な人間だと言い合っていただろう。
だが、僕は彼女が眠っていて意識がない平和な時間に仕事をすることが多かった。そして次第に僕は飲みに出るようになり、店の酒がなくなるほど大量に飲み始めた。
彼女にはどこか生きる場所が必要だった。 何かから、多分、彼女自身から身を守ってくれるものが必要だった。
僕らが共に暮らすことができなくなった原因は、彼女の人間に対する、特に僕の家族に対する敵意にあった。
ケイトは時に優しいが、同時に困るほどに正直だ。 彼女には、どうしても許せずに存在を無視している人間が何人かいた。困ったことに、そういう時に彼女の言うことはまったく正しく、否定のしようがないのだ。彼女は同時に、とても鼻持ちならない人間にもなる。僕はそれをすべて許容していた。そして長く許容しすぎた。
最後の頃、彼女は僕から離れて一人になるためならば、文字どおり世界の果てまででも行くようになった。
僕もやはり彼女とは別の場所にいたかった。

ケイトの行動は周辺と上手くやろうという感じではない。コステロを独占したかったのだろうか?
ジョンとヨーコに例える記述があったが、まあそういう感じなのだろう。

ただ、「鼻持ちならない」のは、ケイトだけでなく、コステロもそうだし、ブルースもそうだろう。おそらくジェイク・リヴィエラもそうなんだろう。そしてそういう人たち同士でぶつかっていく。
朱に交われば赤くなるというフレーズがあるけれど、鼻持ちならない人間の近くにいると、鼻持ちならない人間になるのだと思う。結局コステロの周りに残ったのはこの中には一人もいない。

アトラクションズは1996年に終焉を迎えるが、ダイアナ・クラールとの再婚周辺でインポスターズが結成される。
ティーヴは良い人なのでずっと共にしてきたのだと思うが、ブルースとは先の1件で関係破綻。

ピートの場合だが、この後の章で、ダイアナ・クラールと結婚してからコステロは落ち着いた、という発言がピート自身から出てくる。暴れん坊ピートもインポスターズ結成まではコステロとは離れていたが、これにもケイトとの関係性に問題があったのかもしれない。

*1:Sam & Dave

*2:スティッフツアーで誰かがそんなギターを持って弾いていた映像が残っている

*3:Little Hands of Concrete

*4:コステロの場合、2010年代に入り、ギターが少し上手くなったと思うことはあるものの、ギタリストとしてはかなり下手な部類に入ると思う。ソロはもちろんだが、コードストロークも少し怪しいところがある。とはいえ、コードを間違えることはほぼない。

*5:ホレス・バーロウ・エクスペリエンス・・・スティーヴ・ナイーヴ抜きで演奏した時の変名バンド

*6:そりゃないぜ!? フレイジャー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8A%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%9C!%3F_%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC

*7:どういう意味なんだろう?コステロがルームサービスを頼みすぎた結果ということ?

*8:一度目の解散前に病み上がりのスティーヴ・ナイーヴに対して煽った件

*9:Bridge I Burned の一節

*10:大阪フェスティバルホール

*11:スザンヌ

*12:ナガハタゼンジ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%8F%E3%82%BF%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B8 彼はアトラクションズをバックに使った最後のアーティストということになるのか?