俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 16 Work Experience(仕事体験)


1982年、「Imperial Bedroom」の頃。

CHAPTER 16 Work Experience(仕事体験)

私はピートにウィンクをして、メモ帳とペンを手に取りエルヴィスに「もう一度曲を演奏してくれ。今度はコードを叫んでほしい」と言った。
エルヴィスはギターを手に取り、完全なパフォーマンスモードで曲を演奏し始めた。「E-E-E-E-E」と叫びながら。
ピートと私は真顔を保つことができず、笑い出した。
エルヴィスは、やられたと思い、にやりとした表情を浮かべた。

1981年の10月、我々は新しいアルバムの制作を始めるためにデヴォンの農場に行き、一連の新曲を覚え始めた。

そのうちの1曲はほぼ1つのコードで激しく演奏するものだった。
AIR ロンドンを3ヶ月間予約し、ジェフ・エメリックがエンジニア兼共同プロデューサーとして招かれた。


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私の提案は、ケイト・ブッシュにニューアルバムをプロデュースしてもらうことだった。
彼女は当時、最も創造的で革新的なポップアーティストだったのだ。
エルヴィスはそれを一時、考慮したが、私がギタリストも迎えるように依頼したことで、彼をその考えから遠ざけたのかもしれない。
やがて、エルヴィスが創造的な決定を下し、1965年以降、ほぼすべてのビートルズの曲(Sgt.Pepper's やホワイト・アルバムも含む)を手掛けていたジェフ・エメリックが技術的な決定を下すことになった。


いつも通り、我々は前回終わったところからレコーディングを始めた。
しかし、エルヴィスがニューアルバムのタイトルを提案したり破棄している最中(『Music to Stop Clocks』や『A Revolution of the Mind』など)、我々は継続的にアレンジを変更していた。
例えば、「Tears Before Bedtime」は最初はジョン・レノンの「Starting Over」と似たようなスウィング・バラードとして始めたが、それがニューオーリンズスタイルのアレンジに変わっていた。
我々はすべての曲を即興で完全に新しいバージョンで演奏していた。ジャンルを変えたり、アレンジを変更したりしながら、エルヴィスはしばしば完全に新しい歌詞とボーカルのメロディを一晩で書き直していた。
すべてが絶えず変化し続けていた。


ピートが予定されたレコーディングの時間に現れなかったとき、「Beyond Belief」はエルヴィス、スティーヴ、そして私がドラムなしで「クリックトラック」(電子メトロノーム)に合わせて演奏してレコーディングされた。
前日、ピートは隣のパブで倒れて寝ている姿が目撃されていた。ポール・ウェラーとの口論の結果、彼は気を失ってしまったようだったが、誰も彼らの論争の内容を知らなかった。
彼は殴られた頭が痛かったのか、屈辱を忘れるために立ち上がって酒を飲み続けたかのどちらかだが、どちらにしても頭が痛かったのだろう。
彼がようやく現れた時、エルヴィスがまっさきに彼に声をかけた。


「ドラムセットに座って、ヘッドフォンをつけろ。チャンスは1回だけだ」
リハーサルでは、その曲は「The Land of Give and Take」という曲だったが、一晩で歌詞が完全に書き換えられ、アレンジも変わっていた。
しかし、ピートはそれを知らない。
なので、レコードを聴くと、ドラムが単にリズムを刻み時折フィルを入れているだけだと分かる。
ドラムは「アウトロ」に達するまでテンポが合わない。
その時まで緊張感が保たれており、ドラムが爆発的に活気づくと、本当の解放感を感じることができるのだ。
「さあ、家に帰って横になって休め」とエルヴィスはピートに言った。


ドラムもそうなのだけれど、ベースパートもアウトロまでは白玉全音符、アウトロ以降は8ビートを刻んでいる。
なんとなく、この後にベースだけドラムに合わせて録りなおしているのではないかという気がする。
この曲はこの辺りのアレンジがとにかく秀逸だと思う。

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ティーヴはアコーディオン、メロトロン、マリンバを演奏し、さらにストリングスの編曲も2曲手がけ、それを元ビートルズのプロデューサーであるAIR ロンドンのオーナーであるジョージ・マーティンがチェックした。
彼は楽譜の束を見るだけで、明らかに頭の中でアレンジの全体像が見えていた。ジョージは譜面をスティーヴに返して、「ああ、問題ないと思うよ」と言った。しかし、あるページのある音符を指差して「ただ一箇所だけ。この音は、クラリネットが実際に演奏できる音よりも半音高い音だよ」と指摘していた。


エルヴィスが家庭内の問題に対処している間の数日間、アトラクションズはバックトラックをレコーディングするために残された。

「Boy with a Problems」はその最初の曲で、8弦ベースに大量のエコーをかけて「シンフォニック」な効果を出すことにした。
「Pigeon English」のバックトラックも作った。
その夜の帰り道、ラフミックスのカセットをエルヴィスの家のレターボックスに投函した。
そのテープを聞いてスタジオに戻ったエルヴィスは、あれもダメ、これもダメ、全部ダメだ、と騒いでいたが、結局我々のバッキング・トラックはそのまま使われることになった。


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「Imperia Bedroom」(最終的なアルバムタイトル)は、エルヴィスの作曲とバンドのアレンジメント、そして私自身の演奏において転機となった。
例えば、「Shabby Doll」では、ジャズベーシストのジェフ・クラインが数年前に教えてくれたアド・ナインス(add 9th)のハーモニーを使ってリフを演奏した。
「Human Hands」では、ベースで和音を使って一節を演奏した。
「The Loved Ones」では、ついにマッカートニーの「All My Loving」と並ぶウォーキングベースラインで繋げることができた。
しかし、最も際立ったトラックは「Man Out Of Time」だ。
それは以前の激しい「E-E-E」という曲が壮大なバラードに変わったものだ。だが、曲の最初と最後に以前の短いパートが挿入されていた。


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その年の終わりに、私たちは一連のショーを行った。
最初のショーはロンドンのレインボウで、「ロック」のセットだった。
クリスマスの日には休みを取り、その後LAスポーツアリーナに行き、ロックセットとカントリーセットの両方を含む45曲を演奏した。
その後、同じような2セットのショーをパラディウムで行うためにニューヨークに向かい、カントリーセットをグランド・オープリで演奏するためにナッシュビルに行った。
その数日後にアルバート・ホールでの合同公演のために、ロイヤル・フィルハーモニックとのリハーサルを行った。


オーケストラのアレンジは、ロバート・カービー*1が手掛けた。私は一緒に仕事ができて嬉しかった。
ロバート・カービーは、ニック・ドレイク*2の「Five Leaves Left」というアルバムの編曲も手掛けており、私はそれを最高のアルバムの一つだと考えていた(今でもそう思っている)。
ニック・ドレイクがどれほど革新的で特別な才能であるかを音楽界の多くの人々が認識していたことは永続する悲劇である。
ただし、そのことを一番信じる必要のあった人、つまり本人はそのことに気付かず、26歳の時に謎めいた状況で亡くなってしまった。
だから、このアルバムに対する賛辞は、自動的に悲しみを帯びたものとなり、ロバート・カービーの感謝の頷きは、それを物語っていた。


百数十人のオーケストラとのわずか数時間のリハーサルでは、いくつか問題が生じる可能性が常にあり、そして実際にそうなってしまった。
公演の夜になり、ジョン・マクフィーはペダル・スチール・ギターで一曲を華々しく演奏し、その後に4小節のイントロを演奏した。
直感的に、バンドは彼に合わせて一斉に演奏を始めた。
しかし、「正統な」音楽家であり、楽譜を読むだけの彼らにとっては、曲は実際に演奏される最初の音符で始まっていたのだ。それが「グレースノート」であっても。
ロバート・カービーが音楽台を叩いて観客に何が起こったのか説明してくれなかったら、彼らは1小節ずれたまま曲を演奏し続けていただろう。
その後、顔を赤らめたジョン・マクフィーが再び演奏を始めるまでの間に、ロバートは何が起こったのか説明した。


後にエルヴィスとジェイクは、オーケストラプロジェクトが水準以下の出来だったため中止され、それ以上のことは行われないと言っていた。
それはおそらく自尊心を守るための言い訳だったのかもしれない。
私の考えでは、契約上の詳細が適切に明確化されていなかったため、オーケストラとの演奏が繰り返されることはなかったのではないかと考える。
いずれにせよ、もしあなたがその場にいなかったとしたら...。


翌年の初めには、エルヴィスとアトラクションズはAIRスタジオに戻った。
クイーヴァーがプロデューサーのクリス・トーマスとともに2枚目のアルバムを制作したのと同じ場所だった。
何年も前、ビートルズが「ヘルター・スケルター」をレコーディングする際にクリスが立ち会っていた。
当時、彼はプロダクションの序列ではかなり下位だったが、野心的な人間は自分自身を前に押し出さなければならない。
若かったクリス・トーマスはエフェクトを加えたトラックのミックスを自分自身で行った。
ステレオのパンニングが乱れ、物があちこち飛び交っているような状態だった。
実際にそのトラックでベースを演奏していたジョン・レノンはそれを聴いて、彼ならではの乾いた口調で「楽しい旅行をありがとう」とコメントした。
私がこの話をジェフ・エメリックに伝えたところ、彼自身のビートルズとの仕事に関する多くの思い出を思い出させることになった。

偶然にも、AIRのもうひとつのスタジオで仕事をしていたのがポール・マッカートニーだった。ビートルズの話を聞いて、彼が私の一番古い親友だと確信し、廊下に出て挨拶する口実ができた。


重い防音扉の周りに顔を突っ込み、暗く照らされた制作室に足を踏み入れた。
録音デスクの後ろにエンジニアがいて、マッカートニー自身は巨大なコンソールの横に立っていて、細身の若い黒人の男性と一緒に、「Here Today」という曲の再生を聴いているようだった。
「ここにいるのは一体誰だろう?」と思ったが、時間の経過とともに明らかになる。


「彼がマイケルだ」とポールが言った。
私は近寄って握手し、「やあ」と彼は答えた。
彼はまだ14歳か15歳に違いない。声が変わっていなかったので、おそらくCapitol Radioのコンペか何かで、スタジオでポール・マッカートニーと1時間過ごす権利をもらった子供だったのかもしれない。または、新しいアシスタントか、あるいは「仕事体験」で来ているのかもしれない。それまで彼をスタジオで見たことはなかったが、かなり溶け込んでいるように思えた。
曲が終わった後、「ブルースはアトラクションズのメンバーなんだ」とポールはその若者に説明した。

「ねえ、君」と少年は細く女の子っぽい声で言った。「あのさ、クインシーはエルヴィスがジェームズ・ブラウンについて言ったこと*3を気に入らなかったんだよ」
「クインシー?」と返した。
(そんな知り合いいたっけ?)

クインシー・ジョーンズだよ、ねえ、君」と彼は言った。
クインシー・ジョーンズ? おい、君はなんでクインシー・ジョーンズを知ってるんだ?」と私は尋ねた。
彼がまだ仕事体験の最初の週にいると思えば、合理的な質問だったはずだ。

「クインシーは僕のアルバムをプロデュースしているんだよ」と、はっきりとした声で答えが返ってきた。

衝撃を受けた。22トンのコンクリートブロックとクイーン・メリー号のプロペラを運んでいるジャガーノートのような衝撃だ。
あのマイケル*4か!クインシー!マジか!?このキンキン声の少年がマイケル・ブラッディ・ジャクソンだなんて。

「ああ、もちろん・・そうだな」と私は言葉に詰まりながら言ったが、あまり説得力はない。

この時、元ビートルズの彼は緊急の介入が必要だと感じたようだった。

ポールは「まあ、彼は意味のあることを言ったわけではないよ、これがイギリス人のやり方なんだよ、お互いをからかい合うっていうね・・」と彼は仕事体験豊富な大スターに説明した。
「いや、何がなんだか全然分からないなあ、クインシーはかなり怒っていたんだよ」とその少年はキンキン声で騒いだ。
「いや、違うんだ、特に中身のあることを言ったわけじゃないよ、俺たちはいつもそうやって冗談を言いあっているんだよ」ポールは私を見て眉を上げながら、まるで「助けてくれ」と言っているようだった。
「ああ、その通りだよ・・・。例えば、私が、おい、マッカートニーのクソ野郎、いつになったらマトモな曲を書くんだ?って言ってるようなもんさ!」と私は答えた。
「・・・まあもうちょっと待っててよ、こっちも地道にやっているからさ・・」とマッカートニーは答えた。


この時、私は急いで私の仲間が他のスタジオで何をしているか、確認しに戻る必要性を感じた。
私はエルヴィスにこの出来事を話した。
我々が一生懸命音楽に取り組んでいるにもかかわらず、人々が覚えていることが「酒場の喧嘩」のことだけであるなら、今やっていることに一体何の意味があるのだろうか?


後に、アメリカの報道で和解的な発言がなされたことで、空気がクリアになり被害を修復する一助となった*5


デヴィッド・ベイリーにアルバム・ジャケット用の写真を撮ってもらうために、彼のスタジオに集まった。彼は、良いか悪いかはともかく、人間を一言で言い表すような人だった。
彼は私を一目見て、「なるほど、マッドプロフェッサーか」と言った。
髭も剃らず、ファッショナブルに着崩すのを見ていたので「なるほど、老いぼれか」とか「月光浴するビンボー人か」と私は返していたかもしれない。
しかし、私は機転と忍耐の見本のような人間となった。


その日、スザンヌと私はベイカーストリートからチズウィックに引っ越した。
アクトングリーンを見下ろすビリー・ブラッグの家の角を曲がったところだった。そのすぐ後に、ピート・トーマスが隣の通りに引っ越してきた。


ベルギー、オランダ、スイスを回った後、再びオーストラリアに戻り3週間を過ごした。
オーストラリア公演の途中で、エルヴィスが突然、「僕がインタビューしたらいいんじゃないか」と言い出して、二人でアデレードのラジオ局に行った。
途中で、マーガレット・サッチャーフォークランドへの出兵を機動部隊に命じた、というニュース速報が入り、中断してしまった。
香港経由でオーストラリアから帰国した。香港ではピート・トーマスがテーラーを探し、鮮やかな黄色のシルクのスーツを作ってもらっていたが、わざわざ巨大なバナナのような格好をして注目を浴びる必要はないだろう。
照明のロイと私は、マカオを経由して、中国に旅行に行った。
当時の中国は今の北朝鮮のようなもので、私たちは丁重に演出されたツアーに参加し、「幸せな」兵士や「幸せな」農民、「幸せな」体操選手たちに迎えられた。
ガイドは、私が持ち出したほとんどのテーマ、特にロックミュージックに関する質問には答えてくれなかった。
なぜ、人間1人につき自転車が3台*6、アヒルが10羽以上いるのか、不思議に思うばかりだった。


14週間にもわたる「Imperial Bedroom」のアメリカ・ツアーは、7月中旬にサンタクルーズで始まり、2ヵ月後に終了した。その後もイギリス各地で再び同じことを繰り返すことになった。
セットリストも40数曲が常態化していた。カントリー・バンド、ロック・バンド、ポップ・バンドと、3つの異なるアーティストとして活動することが可能なほど、曲数が増えていたのだ。
しかし、多くの観客は、音楽学や折衷主義を求めず、ただ盛り上がりたい、ハッピーになりたい、と思っていたのだ。
実のところ、それについては私も彼らに共感していた。


私がそんなことをしている間、ミセス・トーマスは、6週間で14都市を回るインドツアーを予約していた。私はさらなる体力テストに励むことになった。

デリー:私達が空港に到着したのと同じタイミングである「グル」が到着し、待ち構えている信者たちがシンバルとベルを鳴らしていた。市内のすべてのホテルが満室で、唯一利用可能な部屋は町で最も高級なホテルのペントハウスで、費用は£60だった。

ジャイプール:おそらくピンクの宮殿があったようだが、私は1日中ベッドにいたため見ていない。

アーグラ:私はタージマハルまで行くことができた。そして、ダイアナ妃のためにベンチを温めていた。

ウダイプール:そのホテルはまた、湖の中に建てられた半貴石で飾られた白い大理石の宮殿だった。ピート・トーマスにそっくりなロジャー・ムーアがプールで過ごしていて、ボンド映画『オクトパシー』がそこで撮影されていた。

ヴァラナシ:私はガンジス川の岸沿いを歩き、火葬場のそばを通り過ぎた。人々は毛布にくるまれた親族の遺体を持ち込んでいた。ボートを借りて、渡し守と入れ替わり、漕いで川を渡った。


最良の時でも、それを全て受け入れるにはあまりにも多すぎる。全てが壮大だったが、当分の間は十分すぎるほどだった。特に午前4時のフライトにはもう耐えられない。
私は今、ビーチで過ごすこと、そして、1日3回のカレー食をやめることを主張した。
ところが、よくあることだが、あることがきっかけで、すべてが見えてきた。


マドラスでは、私たちは自転車で動く人力車を拾った。その運転手はバラクリシュナンと名乗った。

しばらくすると、彼のペダルにはゴムブロックがなく、中央の金属バーだけが残っていることに気付いた。私は彼に足が痛くならないのか、なぜペダルを修理しないのか尋ねた。
彼は人力車を別の人から借りており、収入の60%を持っていかれると説明してくれた。
ラクリシュナンは自分の家族全員(両親、祖父母、兄弟姉妹、子供たち)を養っていたが、デリーの1泊ホテルの部屋料金よりも少ない額で1か月間養っていたのだ。
自分自身の人力車を買って独立するためにはどれくらいの費用がかかるかを尋ねると、150ポンドだと答えた。

私たちはイギリスに帰国後、彼にそのお金を送金した。
これは私たちの誰もがすることだろう。

*1:ロバート・カービー https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Kirby

*2:ニック・ドレイク https://en.wikipedia.org/wiki/Nick_Drake

*3:コロンバス事件のこと

*4:あのマイケル・・・マイケル・ジャクソンのことである

*5:クインシー・ジョーンズの「ソウル・ボサ・ノヴァ」が主題歌のオースティン・パワーズコステロカメオ出演しているということは、既に許しているということか?ちなみに、バカラックとの共作の際、バカラッククインシー・ジョーンズにオーケストラアレンジを頼もうとしたがコステロが断ってバカラックが書くべきだと進言している。ひょっとするとこの事件の影響があったのかもしれない。

*6:この時代の中国は確かに自転車で道路が溢れかえっている映像をよく見た記憶がある