俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 13 Down in the Pipe


1979年、コロンバス事件と「Get Happy!!」の頃。

CHAPTER 13 Down in the Pipe

THE 'ARMED FUNK'ツアーは、1年間で4回目のアメリカ訪問となった。オレゴン、カリフォルニア、アリゾナ、テキサス、アラバマジョージアカンザスミズーリウィスコンシンイリノイインディアナテネシーと、前後左右、上下左右、ぐるぐると、いろんな意味で追い立てられたいた。

それは、どこででも起こりうることだったのだ。

しかし、ミシガン、ケンタッキー、ニューヨーク、ロードアイランドマサチューセッツ、ワシントンDC、ペンシルベニアコネチカットを残して、オハイオ州コロンバスに到着したとき、それは実際に起こった。


我々のショーは短く激しく、猛烈なスピードで20曲を50分で演奏していた。
「次だ、次だ!」
だが、我々が疲れ果て倒れかかっていたにも関わらず、レビューでは「ビートルズ以来、最も堅実なバンド」と評されていた。
自分たちへの宣伝文句を真に受けず、ビートルズハンブルグでやったような激しいギグの流儀で磨かれていったのだ。
疲れ果てていても、我々は良かった。
そして、自分たちが優れていることも理解していた。


ツアーというバブルの中ではしばしば、世界、もしくは運悪く我々の目の前を横切った人たちと、常に戦っているような思いだった。


ショーが終わってホリデイ・インに戻ると、別のバンドのバスが駐車場の前を塞いでいるのを見た。
我々が行ったのは短いセットだったが、ライヴは全力投球、喧嘩腰、ほとんど暴力的で、アドレナリンは全開のままだった。
アドレナリンと疲労は、あまり相性が良くない。
その1台のバスはスティーヴン・スティルスのもので、彼は最近、クラプトンの昔のバンド、デラニー&ボニーのボニー・ブラムレットと組んでいることは知っていた。
オールドスクール!」ピート・トーマスは叫んだ。
「オールド・ティン・ノーズ、その通り!」と私は付け加えた。

ティーヴン・スティルスは酒の飲み過ぎのせいで鼻の一部を整形しなければならなかったと言われている。しかし、偽善が、良い侮辱の邪魔をするのはいかがなものだろうか。


ティルスのバンドはちょうど自分たちのショーを終えたところで、必然的に皆バーに集まってきた。

最初のうちはいつものような雑談で盛り上がっていたが、次第にエッジの効いたものが出てきて、それはやがて明らかにダークなものになっていった。

私はクロスビー、スティルス&ナッシュが特に好きではなかった。
彼らの前のバンド、ザ・バーズバッファロー・スプリングフィールドホリーズのほうがずっとよかったと思っていた。
そして今、私たちはスティルスに見下されている。
ティルスは、私がいつも思っている以上に傲慢な人物だった。
ティルスにはこう見えていたようだ。
「あいつらは新参者であり、私の寛容さがなければあいつらの「ニューウェーブ」は、私の艶やかな3部構成のハーモニーの輝かしい潮流に簡単に流されてしまうようなものだ」


ティーヴン・スティルスが書いた「Love the One You're With」は、グルーピーとの交際を自己正当化する歌だ。
しかしそれを、まるで家を離れているときに可能な最も繊細で最も思いやりのあることであるかのように歌った曲である。


私は彼にこの意見を伝えた上で、クロスビー、スティルス&ナッシュの唯一の良いところはニール・ヤングであると付け加えた*1


ティルスは「セプティックってなんのことだ?なぜ俺をセプティックと呼び続けるんだ」と遮った。
「お前が浄化槽(セプティック・タンク)だからだよ、なあヤンキー」
「俺たちをヤンキーと呼んでるが、そんなに憎んでいるのに、お前らはアメリカで一体何をしているんだ?」
「俺たちはお前の金とエルヴィスのチップと女を奪いに来たんだよ」


私とエルヴィスは互いに煽り合うのが好きだった。


ティルスは自分を長老格に位置づけようと無駄な試みをしてきた。

「さて、それではアメリカの音楽については一体どう思っているんだ?」と、彼は架空の星条旗に敬礼するかのように言った。
「それはどうだろうな、なあブリキノーズ」私は不敵に笑った。


その頃のアメリカには、オースティンのクールなバンド1組に対して、やかましく大げさなオーバー・プロデュースされたテストステロンのリフとマルチトラックでピロピロした速弾きソロの商業バンドが1ダース存在していた*2
それを「プードル・バンド」と我々は呼んでいたが、彼らの無粋なヘアスタイルは、小さな犬のように見えていたためだ。


ティルスは私たちの批判の矛先を理解し、より安全で不可侵領域であるアメリカのルーツミュージックの話に切り替えようとしたが、もう私たちはそれどころではなくなってしまっていたのだ*3


レイ・チャールズについてはどう思っている?」とスティルスが言う。
「さあ、どうだろうな」とエルヴィスが言った。
ジェームス・ブラウンはどうなんだ」


このとき、バンドの運命、そして私たちの人生のすべてを変えることになる一言が飛び出した。
まさに "引き戸 "のような瞬間だった。


バンドがどこまで進化し、その後我々がどうなっていたかなんて誰にもわからない。
長い目で見れば、これ以上良くなることはなかったかもしれないが、歴史が大きく変わっていたことは間違いない。
しかし、もうその言葉はパンチの嵐に紛れて消えてしまった。
短いクラブを持った警備員がすぐに現れ、事態を打開しようとした。
本当に「ハンドバッグ」ばかりだった。
私はピート・トーマスをそれよりも強く殴ったことが何度もある。
エルヴィスは誰かに殴りかかって肩を脱臼していたことが後でわかった。
もしくは、ボニー・ブラムレットがエルヴィスを殴ったときにやってしまったかのどちらかだ。


その後、デトロイトハリスバーグバッファローと、ツアーは続いた。しかし、コロンバスでの大失敗はここで終わったわけではなかった。
ティルスとブラムレットは記者会見に臨んだのだ。
そして、彼らはそれを行うのにふさわしい場所を選んだ。
ローリング・ストーン誌は、当時最大のライバルであったブルース・スプリングスティーンを熱烈に支持していた。
やがて、誰もがこの出来事を知ることになったのだ。


ジェームス・ブラウンは、この件について聞かれたとき「あんなことを言われたのは初めてじゃない」と言った。
レイ・チャールズは、「酔っ払いの話は新聞に載せるもんじゃないな」と言った。


ビートルズはイエスよりも偉大である*4」というようなものではないが、それと同じようなダメージがあったのだ。
ニューヨークのシェイスタジアムでの公演には25万人がチケットを申し込んでいた。
だが突然、私たちはビートルズ以来に現れた最も有望なバンドではなくなってしまった。


我々はただ落ちぶれているだけの存在になった。もはや、ダメージ・リミテーションの問題なのである。
ラジオでは、この事件に憤慨したある電話の主が、エルヴィスの腕をソケットから引き抜き、そのグチャグチャになった端で頭を殴ってやりたいと言った。


エルヴィスは「ボニー・ブラムレットはかつてEC(エリック・クラプトン)の背中に乗って有名になったが、どうやらまた同じことをしようとしている*5」とコメントしたのだ。



私たちは、マージービーツの「I Stand Accused」をセットのオープニングにした。
しかし、月末には「Armed Forces」はトップ10から外れ、さらにトップ30からも外れてしまった。


THE 'ARMED FUNK' ツアーは続行された。
殺害予告の嵐が始まった頃、ステージで防弾チョッキを着ようと考えたこともあった。
エルヴィスには、キース・ムーンのようなターゲットTシャツを着たらどうかと提案したが、皮肉にも無理があったようだ。
気がつけば、ステージでエルヴィスからは1ヤードも離れたところに立っていた。
ニューヨークでのライブでは、警備を強化したほうがいいということで、ニューヨーク市警の警官を2人雇うことになった。


当初のスケジュールがストレスになっていたのなら、撃たれるのを待っていてもほとんど解決にはならない。
もしジェイクがそのプレッシャーを少しでも和らげようと考えたとしたら、彼はそれをしない良い方法を選んだ。
ボトムラインでの1日2公演の翌日、ニューヨークの3つのクラブで、午後、夕方、夜遅く、1日3公演を行った。
疲弊したロードクルーや過重な警備員もさほど喜んではいなかったと思う。その日はエイプリルフールだった。


すべてが終わったとき、私は夜中に外に出て、新鮮な空気を吸い、澄んだ空を見た。
しかし、五番街で私の前に現れた人々は、もはや質問するファンではないのだ。

まるでそうであるかのように近づいてくるがそうではなく、疲れ切った我々の口を滑らせ、失言を期待していたジャーナリストたちだったのだ。

なんとか私たちはアメリカで生きているうちにツアーを終えることができた。


* * *


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その翌日、スザンヌと私はセント・マーチン行きの飛行機に乗り、シュノーケリング、砂浜、ロブスターディナー、軽飛行機でのアイランドホッピング、ベランダに座って古いバルブラジオを聞きながらアンギラで一泊、という別世界へ迷い込んだ。
その夜、花柄のドレスと日除け帽をかぶった駐在員がお祝いの酒を注いでくれた。マーガレット・サッチャーが英国初の女性首相に選出されたばかりだった*6


* * *


THE 'ARMED FUNK' ツアーで、ステージから降りるときにPAから流れた音楽は、ファンカデリックの「Who Says White Boys Can't Play Funk Music?」で、「Who says black guys can't play rock music?」というフレーズがあった。

それが、たった一度の不機嫌な出来事で、すべて崩れてしまったのだ。
ブリクストンのロック・アゲインスト・レイシズムのギグに参加したことも、「This Year's Model」収録されている反ネオナチの曲「Night Rally」も無視されたあげく、コロンバスの騒動を「Oliver's Army」の歌詞と誰かが結びつけるまでにそれほど時間はかからなかった。

'It only takes one itchy trigger, one more widow, one less white n*****'


このフレーズは、レコードが再生されるたびにピープ音が鳴るのと同じように、今でも印刷物で検閲されている。

しかし当時は、そんなことは問題になっておらず、レコードがヒットしても誰も異議を唱えなかった。

しかし、時代は変わり言葉も変わる。皮肉なことだが、この言葉は決して黒人のことを指していたわけではない。

この言葉は、ジョン・レノンが「女は世界の奴隷か!(Woman Is the Nigger of the World )」でやったように、権利を奪われた人たちを表現するために使われたのだ。

もちろん、私はエルヴィス・コステロ本人ではないので、はっきりと言うことはできない。
だが私の解釈では、他の人よりも価値の低い生活をしている人たち、つまり二流市民について歌っているのだと思う。
レノンの歌では、それは女性だった。
私にとって、「Oliver's Army」は様々な事象についてのメタファーであり、その内のひとつがアイルランド問題であり、アイルランド人自身も互いを「白人のNi***」と呼ぶことで知られていた。


THE 'ARMED FUNK' ツアーで、私たちのステージの音楽はワイルド・チャピトゥラスの「Meet De Boys On De Battlefront」だった。
さらに共鳴したのは、アイルランドや後のフォークランド紛争で、若い男たち(私たちよりもさらに若い男たち)が戦争に駆り出される様子だった。
イギリスでは、帰国したばかりの若い兵士が次々と集まってくるような状況だったが、戦場の少年たちに会うとその様子がよくわかるようになった。
彼らの多くは、その体験にトラウマを抱え*7、文字通り震えながら、夜遅くまでホテルのバーで私たちと一緒に座り、私たちには到底理解できないような体験を、とりとめもなく話してくれた。
しかし、私たちは理解することを求められていたわけではなく、ただ聞くことを求められていたのである。


* * *


直近のアメリカでの出来事は、自分たちの足元をすくわれたようなものだった。
そこで私たちは、もう一方の足を撃ってバランスを取るという斬新な方法を思いつき、アトラクションズの「ソロ」アルバムを作った。

そのアルバムで一番良かったのは、スティーヴ・ナイーヴの「Sad About Girls」(後にエルヴィスと再録音したもの)だった。
ティーブの歌は、イアン・デューリー、サグス、ストリーツのようなロンドンのスポークンスタイルに属している。
そして、ティム・レンウィックのソロがいい曲もあった。
しかし、私はこの種のプロジェクトはあまり好きではなく、うまくいくことはほとんどない。

名誉ある例外は、ボブ・ディランのバックを務めたザ・バンドだけだ。
さらに重要なのは、このプロジェクトによって、私たちがフロントマンのいる4人組のバンドとして見られるのではなく、シンガーとバックバンドという役割を担うようになったことだ。
それが、ジェイクとエルヴィスがこのプロジェクトに熱心だった理由かもしれない。
アルバムのタイトル『MAD ABOUT THE WRONG BOY*8』も、その分離を強調している。
アルバムのスリーブには、ふわふわのラグ、プードル、ペイズリーといったキッチュな写真セットで、このレコードに対する私たちの信念のなさを証明している。


* * *


アトラクションズを横目に、エルヴィスはスペシャルズのプロデュースを行っていたが、今こそ我々が再集結する時だった。
私たちは再び集まり、新しい曲のレコーディングを開始した。再びエデン・スタジオに戻り、ニック・ロウがプロデュースし、ロジャーがエンジニアを務めた。


最初のバッキング・トラックのひとつが「B Movie」だったが、すぐにこれは違和感が芽生えた。
ある評論家が私たちのスタイルを酷評したように、まるでスピードアップしたブロンディのようで「ちぐはぐなエイトビート」だった。
さらに悪いことに、私たちはスカボローのジャグズのような、自分自身のコピーバンドのような音を出していた。
そこで、パブでのブレストの結果、エッジの効いたものではなく、もう少しルーツ的でリズミカルなものを作ろうということに決まった。


スタジオに戻ってから、「B Movie」をある種のジャジーなスタイルでジャムり始めたら、みんながそれに夢中になった。
新しいアレンジはその場で作って、最初の即興テイクをアルバムに残した。
そして、新たなテーマが提示された。
曲の構成やコードを知っていれば、それまでどのように聴いてきたか、学んできたかは問題ではない。
スタックス、モータウンニューオーリンズのソウル・ソングを、スカも交えて演奏するのだ。ドナルド・ダック・ダンやジェイムス・ジャマーソンになりきれるような、ベース主体の音楽を演奏するのが私の本領である。


だが、スティーヴはこのアイディアに満足していなかった。
彼はまだ21歳で、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックを出て、そのまま乗り物に飛び乗ったようなものだった。
彼は、こんな "くだらない "な音楽はやりたくないと言った。
ニック・ロウはスティーヴを脇に連れて行き、どんな楽器でも「創造的」な演奏と「機能的」な演奏の2つのタイプがあることを説明した。
ティーヴにもいずれチャンスが来る。ただ、今はもっとグルーヴ感を出して、華美な装飾を少なくすることだ、とニックは伝えた。


エルヴィスはみんなにモータウンの最強コンピレーションである『モータウン・チャートバスターズ Vol.3*9』を渡して聴かせたが、これはいいチョイスだった。私も自分のミックステープ、アル・グリーン、ザ・ヴェルヴェレッツ、ブッカー・T、レア・マーヴィン、オーティスのコピーを渡した。
これで、私たちが何をしようとしていたかがわかるだろう。

私たちは無意識のうちに、ある種の懺悔としてアメリカの黒人音楽で最も優れたものを参照していたのだろうか?
それについては、当事者でもよくわからない。
私にとっては、懺悔でも模倣でもなく、ただ単に過去の自分の歯を食いしばって身につけた音楽の精神で演奏するだけのことだ。


エデンスタジオでレコーディングを開始したが、途中からオランダのヒルフェルスム近くのスタジオに移った。
これは特にクリエイティブな決断というわけではなく、税制上の優遇措置のためだったようだ。
特にニックは、その最新鋭のハイテクのギラギラした感じが嫌いで、どうにかしてダサく、ファンクにする方法を見つけなければならなかった。

ここでエルヴィスは、サム&デイヴの曲「I Can't Stand Up For Falling Down」をカバーすることを思いついた。
でも、これはサム&デイヴの曲の中では16番目くらいにいい曲だ。
「そんなのヒットするわけない!」と私は文句を言った。
原曲のスローなバラードバージョンのようなアレンジで録音していれば、その通りだったのかもしれない。
しかし、オーティス・レディングの「I Can't Turn You Loose」のようなアップテンポにアレンジすることは全く想定外だった。
「Clowntime Is Over」ではその逆で、シュプリームス風にアレンジするよりも、バラード調にアレンジした方がより良く聴こえた。
テープは流しっぱなしのまま、すべてを試行錯誤しながら進められていた。


THE 'ARMED FUNK' ツアーの悪ノリは完全に止まってはいなかった。
ある日、ピートと私はレストランからスタジオに戻る途中、戦時中のオランダでまるでレジスタンスをしているかのようなふりをして、人々の家の庭を匍匐前進していた。
少し飲んだ後だと、「『サーモン・デイブ』という名前の歌手は面白いな」などと言い続けることに疲れることはない。
このフレーズの次はいつも「ソウル(ヒラメ)」シンガーの話になった。

しかし、いつもとりとめのないバカ騒ぎばかりしていたわけではない。
スタジオに戻る途中のタクシーの中で、ピートがフレーズを思いつき、エルヴィスが韻を踏んでいたらいつの間にか歌詞が出来上がり、タクシーから降りると、あっという間に曲がレコーディングされていた。
これが「Possesion」の始まりだ。
エルヴィスが一体いつの間にこんなに曲を書き続けているのか、当時の私には想像もつかなかったが、最終的に「Get Happy!!」となったアルバムには20曲が収録されることになった。


12月の第1週、我々は南フランスに飛び、シングルとしてリリースされる予定の曲のプロモビデオを3本作った。撮影はカンヌ近郊のサン・ポール・ド・ヴァンスという小さな町で、映画スター、クルト・ユルゲンスの別荘を借りて行った。実際には、バンドやロードクルー、撮影クルーが泊まれるような別荘の複合施設だった。

毎日、町からボジョレー・ヌーボーが2ケース運ばれてきた。バンドは以前、ロンドンのダンス・インストラクターのところに通わされ、テンプテーションズやフォー・トップスのようにクールに見えるようにと、ルーティンを習わされたということがあった。
エルヴィスはかなり早い段階でそれをやめてしまったので、残った僕ら3人にそれが任されることになった。
だが結局のところ、撮影当日になり動きを覚えていたのは私ただ一人だった。
これがどういう結果を生むかはすぐにわかるだろう。
こちらの様子を、窓から顔を出して見ている地元の人たちの困惑した表情を見ていたら、コメディとしての価値は十分にあると思った。


12月29日、エルヴィスとアトラクションズはハマースミス・オデオンでカンボジアのための慈善コンサートを行ったが、そのトップバッターを務めたのは、私の「もう一つのバンド」だった。
ポール・マッカートニーはロック・オーケストラを編成し、私たちの2曲と、誰でも知っているような2曲の演奏を披露した。
「Let It Be」と「Lucille」だ。マッカートニーは、リトル・リチャードの素晴らしい声に近づけることができる数少ない黒人/白人の一人だった。

アトラクションズのセットが終わり、私はもう一つの楽屋に向かったが、そこには銀色に輝くスーツが準備されていた。
ピート・タウンゼントが着るのを拒んだスーツだ。
「なぜ着なかったのだろう?」私は答えを期待しながらポールに聞いた。
「彼がバカだからさ」とポールは少しムッとした様子で答えた。
演奏の途中で、ポールがタウンゼントの背後にこっそり忍び寄り、銀色の帽子を彼の頭にかぶせた。


ショーの後、ホスピタリティ・ルームで、ポールの娘ヘザーが、私の新しいクリスマスセーターを褒めてくれた。
「赤のフレッド・ペリーだね、かっこいいわ」と彼女は言った。
「おお、そうかい?なんならこの後、お茶でも行く?」と私は、かなり無邪気に言った。
すかさずポールが「おいおい、ちょっと落ち着けよ、彼女はまだ17歳(she was just seventeen)なんだぞ」とが言った。

ん、今なんて言った?彼は本当にそう言ったのか?
「Well she was just seventeen !」と私は叫んだ。
「ん?」
「...you know what I mean !!(言いたいことはわかるでしょ)」

それはポール・マッカートニーの最高のロックソング*10の冒頭の一節であり、まさに彼自身が口にした瞬間だった!ポールはうめき声を上げた。


その後、レストランに移動した。
私はミセス・トーマスと一緒にトップテーブルに移動し、ポールとリンダの横に席に座った。
「私たちの運命は絡み合っている」と私は口ごもった。
実際のところ、私たちの運命はまったく絡み合っていなかった。
むしろ私の運命は彼のボディガードと大きく絡み合い、私はポールから引き離され、かなり離れた別のテーブルに連れていかれてしまった。


それでも、マッカートニー夫妻は私をまだ完全に見放してはいなかった。

数週間後、スザンヌと私はソーホー・スクエアにある彼の本社のスタジオで行われたレコーディング・セッションに招待された。
ポールはモニターを通して1曲演奏した。

「どうだろう、どう思う?」と彼は私に聞いた。
スティーヴィー・ワンダーのようなサウンドだね」と私は言った。
「この子(This Boy)は良いことを言うねぇ」とポールは言った。
「お願いだから、『This Boy』についてのジョークはやめてくれ」と私は前回のことを思い出した。

しかし、このときに私が言ったことは現実となる。
実際にポールとスティーヴィー・ワンダー本人とのコラボレーションが実現することになった。
やがて、私がベース、ポールがドラム、デニー・レインがピアノで一緒に演奏することになった*11


キンタイアの海(Mull of Kintyre)で1週間の休暇の可能性が残っていたが、最後にそのチャンスを活かすのはトーマス夫人に委ねられた。
リンダがジャムのレシピを教えていたときに、スザンヌが口走った。
「ねえ、あの子たちが楽しそうに演奏しているのを見ていると、自分も楽器を演奏してみたいと思わない?」
リンダはとても優雅だった。
「実は、私も楽器を演奏するのよ」
「あ・・・はい、あ・・・そうでしたね、そういう意味で言ったわけじゃなく・・」
「大丈夫、あなたの言いたいことはわかるわ・・・、それでね、果物と砂糖を30分ほど煮るのよ・・・*12

*1:コステロ以上に過激なことを言うブルース。ブルース・トーマスとスティーヴン・スティルスは3歳、ブラムレットと4歳しか離れておらず、ほぼ同世代。遅咲きのミュージシャンとして彼女とその周辺に対するルサンチマンみたいなものがあったような気がしないでもない

*2:クワイエット・ライオットみたいなやつだね?

*3:それでレイ・チャールズとかJBの話に飛ぶわけだ

*4:キリスト発言 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E7%99%BA%E8%A8%80

*5:ECはエリック・クラプトンまたはエルヴィス・コステロのこと

*6:1979年5月

*7:PTSD

*8:MAD ABOUT THE WRONG BOY https://www.discogs.com/ja/release/983458-The-Attractions-Mad-About-The-Wrong-Boy

*9:モータウン・チャートバスターズ Vol.3 https://www.discogs.com/ja/release/669949-Various-Motown-Chartbusters-Vol-3

*10:I Saw Her Standing There

*11:おそらく「Ebony and Ivory」だと思うが、公式リリースされたものにブルースは入っていないので、デモ録音のときか何かだろう https://en.wikipedia.org/wiki/Ebony_and_Ivory

*12:しかし、実際のところ、リンダがまともに演奏していると思っていた人がいたのだろうか