1972〜1974年頃。サザーランド・ブラザーズ&クイーヴァーの頃の話。
CHAPTER 7 Lifeboat
イアン・サザーランドとギャビン・サザーランドのサザーランド・ブラザーズ*1は、アイランド・レコードのバンドで、優れたソングライター(彼らの曲の1つである「Sailing」はロッド・スチュワートの次のシングルとなる予定だった)だったが、すべてのアルバムでセッションミュージシャンを使っていた。
クイーヴァーは演奏はできるが、ソングライティングの分野ではあまり多才ではなかった。この2つのバンドの合併を提案したのは、サザーランド・ブラザーズのマネージャー、ウェイン・バーデルだった。その後のプレスリリースでは、「共生」「天国の結婚」と書かれていた。
Sutherland Brothers Band - Sailing (1972)
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Rod Stewart - Sailing (1975)
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私はサザーランド・ブラザーズが好きだった。特にギャビンが好きだった。
彼は、ストークの実業家、ウィリアム・ハードキャッスルにマネージメントされていた初期の頃のことを話してくれた。彼はとんでもない方法でプロモーションを行った。「 ...それで彼はベニヤ板で宇宙船を作らせたんだ。それをローリーで運んで、人里離れた場所に捨てたんだよ」
「ええ?」 それを聞き、一体何が起こるんだ?と思った。
「ハードキャッスルがUFOの墜落を目撃したと新聞社にタレコんでいる間、俺たちはその中で一日中座って待っていたんだ」
予定では、ジャーナリストたちが現場に駆けつけると、宇宙船の中からニューシングルのプロモーションをする若者が出てくるという構図のハズだった。しかし、ジャーナリストは誰も来なかったのだ。
イアンとギャビンは日が暮れるまで、誰にも邪魔されることなく、そこに座っていたのだった。
「あのカプセルには4桁の金がかかったよ」とハードキャッスル氏は嘆いたという。
面白い話はさておき、すぐに問題が発生した。
というのも、イアン・サザーランド、ギャビン・サザーランド(以上、サザーランド・ブラザーズ)、カル・バチェラー、ティム・レンウィック(以上、クイーヴァー)の4人のギタリストがいたのだ。カル・バチェラーの家に行って、新しいラインナップに彼の演奏と歌を入れるスペースがないことを伝えた日は、楽しい一日ではなかったし、特に自慢できるものでもなかった。
だが、キーボード奏者のピーター・ウッドが加入し、私たちは前に進むことができた。
サザーランド・ブラザーズ・アンド・クイヴァーというのは、かなり語呂が悪かったのですぐにSB&Qとなり、マフ・ウィンウッドをプロデューサーに迎えてアイランド・スタジオでシングル「You Got Me Anyway」を録音し、イギリスとアメリカの両方で売れ始めた。その結果、エルトン・ジョンのアメリカ・ツアーのサポートを依頼され、我々は8月にアラバマに飛んだ。
Sutherland Brothers Band & Quiver - You Got Me Anyway (1973)
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空港のコンコースを歩きながら、「暑さと湿度で大騒ぎする意味がわからない」と私はギャビンに言った。
そして、回転ドアをくぐって外に出た。誰もエアコンについて説明してくれなかった。そして、実際に体験してみると、不思議な感じがした。
アメリカはまるで別の国のようだった。同じところは一つもなかった。気温は意味をなさない。Tシャツのスローガンも意味がない。テレビも意味不明。特にスポーツ。ホリデーインのコーヒーショップのウェイトレスも意味不明で、私は3回注文を繰り返したが、ようやく理解してもらえた。
"Yawl tock s' fur knee"*2と彼女は説明した。エルトン・ジョンはアメリカで大ヒットしたばかりで、地元の「ヘルメット着用ラグビー*3」スタジアムでのオープニング・ショーでは、エルビス・プレスリーの興行記録を更新した。
エルトンはボーイング727をチャーターしていたが、私たちは9週間、定期便でアメリカ一周の旅に出ることになった。毎日少なくとも1、2便の乗り継ぎ便があり、ハブ空港を何度も通過することになり、行きなのかか帰りなのかがわからなくなる。
* * *
私たちの初期のショーのひとつは、レイバー・デイ(労働者の日)の週末にサンディエゴのスタジアムで行われた。私たちはオープニングを務めたが、その日は中間アクトとしてスティーリー・ダンも出演していた。
ウェイン・バーデルはツアーの前に、彼らのアルバム「Can't Buy a Thrill」を聴かせてくれ、史上最高のデビュー作のひとつだと断言していた。
彼は正しかったのだ。そして、スティーリー・ダンは何年もかけて、知的な曲作り、アレンジ、非の打ちどころのないプロダクションの基準となった。
自分がミュージシャンになったとはいえ、誰かのファンにならない、というわけではない。好きなバンドを毎日タダで観られるこのような日々があったことは、今でも驚きだ。
私には新しい選択肢が提示されたため、エルトンの演奏を見るためには残らないことにした。レコード会社のプロモーション担当者のカーターという人物は、ショーが早く終わる翌日の休暇を利用してラスベガスへの旅行に一緒に行きたいと熱心だった。
ラスベガスを説明するのは難しいが、特に説明する必要もないだろう。その一方で、グランドキャニオンを初めて見たときのような衝撃と驚きがある。
しかし、自然の美しさと人間の醜さを比較したときのような衝撃的なものだった。光と音と輝きが止まらない。
ヒルトンの部屋に荷物を運び、私たちはカジノに向かった。「ほら、100ドルだ」とカーターは私に現金を手渡した。
私が知っている唯一のゲームはポンツーンで、ここでは「ブラックジャック」と呼ばれていた。15分もしないうちに現金は消えてしまい、カーターはそれどころではなくなってしまった。私たちがいたヒルトンには、いくつかのバンドが演奏していたので夕食を早めに済ませた。ここには2つのボールルームがあり、アーティストは一晩に2回公演する。
つまり、1つのショーを早く、もう1つのショーを遅く見ることができるのだ。私たちは2つあるボールルームのうち、小さいほうのボールルームに向かった。カーターはエントランスでドアマンに「エルトンのために、良いテーブルはないか?」と耳打ちし、同時に折りたたんだメモをドアマンのポケットに押し込み、私の方を向いて頷いた。
そして、それは速やかに実行されたのだ。我々はステージの最前列、ボーカルマイクのすぐ前にあるテーブルに案内された。我々の両隣のテーブルには、黒人の大柄なマダムたちが座っていて、最高の時間を過ごしていた。
「ご注文をお伺いします」とウエイターが言う。
「ハーヴィー・ウォールバンガー」と言った。
ウェイターはすぐに6種類の不健康そうなカクテルを載せたトレイを持って戻ってきて、それを私たちのテーブルの上に置いてくれた。
私はエルトン・ジョンになりきって楽しんでいたんだ。
最前列に座って、BBキングの絶頂期を堪能した。忘れられないショーだった。
スティーリー・ダンとBBキングを同じ日に見ることができるなんて、これ以上ないことだろう。
カーターと私は広いボールルームに向かったが、そこではもう一人のレジデント・アクトがこの夜の2番目のセットを披露しようとしていたところだった。
カーターはまたもやドアマンにチップを渡した。
ただ、ここの観客はもっと密になって座っていたので案内される隙間はなかった。ドアマンは、前の方にいた二人組の女性に席の間違いがあり、正しい席はもっと後ろの方だと説明していた。
これには罪悪感を覚えた。
彼女たちはワトフォードの秘書で、自分たちのアイドルを見るために何年も貯金してきたのに、このせいで旅行が台無しになってしまったのだ、と思った。
私たち二人は反省し、せっかく用意してくれたテーブルの席に座らなかった。すぐに飲み物が運ばれてきた。そして、MCの声がPAから流れてきた:
ヒルトンはあなたにブルースのキングを、そしてヒルトンはあなたにキングをお贈りします。レディース・アンド・ジェントルマン......エルヴィスです!
エルヴィス・プレスリーの晩年について、多くのことが語られ、そして書かれてきた。
その時のエルヴィス・プレスリーは確かに絶頂期ではなかった。
彼はまだ観客に愛され慕われていたのは確かなことだが、それは彼が過去にやったことの思い出のためであって、この夜にやっていたことによるものではない。
実際、見ていて本当に辛くなることもあった。もちろん、バンド、バックシンガー、ステージング、アレンジメント、そのすべてが最高であることは間違いない。
しかし、それだけに、このイベントはすべてがうまく回っていないことを強調することになった。エルヴィスが各曲のクライマックスに差し掛かった時は、そのかなり前から声量を抑え、いくつかの歌詞を飛ばしつつ、慣れに任せてそのギャップを埋めていた。そし往年のようなパフォーマンスのために力を貯め、次の一押しに備えて身を引き締める必要があったように思える。曲の合間、彼の話し方は眠そうで、しどろもどろに聞こえたが、その理由はわかっている。曲の合間には、昔のヒット曲を短いメドレーにまとめたものや、愛国的な曲、グローリー・グローリー・ハレルヤ、それに空手キックのようなものもあった。
しかし、大きなベルトにラインストーンを散りばめた衣装、大きなフレアと重厚な襟は、彼を空手家としてではなく、重いリベットで留めたパンチバッグのように見せていたのである。とはいえ、その日の終わり、私は多くの人が経験しないことをしたことに満足していた。
私はビートルズとエルヴィス・プレスリーの両方を見たのである。
* * *
ハリウッド・ボウルでのエルトンのショーは、彼特有の派手なオープニングを飾った。それぞれ異なるパステル調の色合いの9台のグランドピアノは、1台ずつ蓋が持ち上げられ、その蓋に大きくキラキラした「E L T」と表示されていた。
また夜空に白い鳩の群れを放つ役目も果たしていた。メロドラマはおおむね成功した。
だが、夏のうららかな夜に、鳥たちを長い間隠しておいたのがいけなかった。
エルトンの初期の作品に登場する「スカイライン・ピジョン」のように、約束の時間に優雅に立ち上がって「遠い国へ飛んでいく」鳥は、そうはいない。
片方の翼を羽ばたかせ、オールを持った漕ぎ手のように小さな円を描くようにステージに飛び降りる前に、ピアノから飛び出すのが精一杯だった人も少なくない。そのうちの何匹かは、そこまでたどり着けなかったと思われる。
その疲れ切った鳥たちの気持ちを、私はすぐに知ることになる。
ホノルルでのライブの前に、イアン・サザーランドと私はペダルボートを借りて、穏やかに打ち寄せる湾の海を回った。
だが、そこに留まらずにすぐに沖の方へと向かっていった。その直後、自分たちがどこに向かっているのかまったくわからなくなってしまった。いつの間にか、1分もかけて上下するような深いうねりができていた。
何度も何度も岸に戻ろうとしたが、もう岸はほとんど見えない。そして、ついに巨大な波が私たちを襲い、小さなボートは砕け散り、そのプラスチックの殻は割れ、水を吸い込み、ゆっくりと低く沈んでいった。私たちはとんでもないトラブルに見舞われてしまった。
まるで騎兵隊が現れたかのように、数人のアウトリガー・カヌーがパドルを漕いでこちらに向かってくるのが見えた。まるで『ハワイ5-O』のオープニングのようだ。彼らは私たちをプラスチックの棺からひきずり出し、安全なビーチに連れ戻してくれた。30分どころか、4時間以上も外に出ていたので、警報が鳴ったのだろう。カヌーから降ろされた私は、力強い両手で浜辺に立たされた。しばらくして、同じ手が拳になり、私に2、3発殴りかかってきて、私を仰向けに寝かせた。
疲れ果て、日射病にかかり、目の周りは真っ黒、頬には痣ができた。この数時間後のライブをどうやって乗り切ったのか、私たち二人ともわからない。
イアンと私は、「Sailing」を演奏するとき、お互いの目を合わせないようにした。
海をテーマにした他の曲「Lifeboat」はついては放っておいて欲しい。
"昨夜遅く、自分の船が沈むとき、救命ボートを見る夢を見た..."
ツアーも終盤にさしかかり、定期便の多さに参っていたある晩、同情したエルトンがチャーター機で次の目的地まで送ってくれた。
それはまるで翼の生えたロイヤルトレイン、空飛ぶ5つ星のスイートルームだった。私たちは、ナルニア国に入る子供たちのように目をぱちぱちさせながら、機内に乗り込んだ。
機体の中央には、テーブルとビデオスクリーンのあるバーがあり、そこにはピアノを弾く黒人の男もいた。
私は席に着くと、そのビデオが、有名になって公開されたばかりのものであることに気がついた。「ディープ・スロート」だ。
そして、ピアノを弾いている「あの人」がスティービー・ワンダーであることに気がついた。そのとき、私とリンダ・ラヴレース*4のどちらが口を開けていたかはわからない。ツアーはフロリダで終了した。エルトンはエージェントに新しいロールス・ロイスを買い与え、私を含めツアーに参加した全員に新しいカメラをプレゼントした。飛行機はLAに戻り、そこで保管されることになった。ウェイン・バーデルと私は、飛行機でLAに行けるなら、LAで1週間ぶらぶらしようということになった。誰も反対しなかったので、その夜、私たち2人はマイアミからLAまでプライベートジェットを貸し切った。どの豪華なソファを使ったらいいのか、シャワーを浴びたらいいのか、それともベッドに入ったらいいのか、あまりの豪華さに気が気でなかった。
* * *
その後、再びイギリスとヨーロッパでギグを行うという普通の日常に戻った。アムステルダムのテレビ番組で、ウンベルト・トッツィのようなヨーロッパのアーティストと共演した。「トッツィ」はイタリア語でも英語と同じ意味だったはずだ。その日は無名のスウェーデンのバンド*5も出ていて、『Ring Ring』という曲をやっていた。「あの青い服の人はいいお尻をしているね」とギャビン・サザーランドは言った。
私は「もう一人の方が好きだ」と返した。
ABBA - Ring Ring (1973)
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ミュンヘンでは、レコーディングやプロデューサーについて突然口論になり、それは(正式に)私のせいだとみなされた。
なので、数日後、恐怖の「バンド・ミーティング」のためにドアをノックされたとしても、まったく驚かなかった。そうして私がクビになったことにより、間接的にNo.1シングルが作られることになった。
私以外のメンバーは、後任としてエースのテックス・コマーを招き入れようと画策し、何度かミーティングを行い一緒にジャムまで行っていた。
エース*6のシンガーはポール・キャラック*7で、彼はポール・ロジャースをしのぐ数少ないイギリス人シンガーの一人だった。
エースの他のメンバーがこの状況を知ったとき、ポール・キャラックが「これはいつから続いているのだろう」と問いかける曲を書いたのだ。
「あなたの友人とその派手な説得力」といったセリフは、恋人に向けたものだとほとんどの人が思っていたが、そうではない。それはベーシストであるテックス・コマーへの呼びかけだったのだ。
結局「How Long」は大ヒットとなり、テックスはエースに残留することになった。
Ace - How Long (1974)
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私はその後もSB&Qとは仲違いしたわけではなかったので、フィンズベリー・パークのレインボーで行われた彼らのライブを見に行った。
そこにはティムを見にデヴィッド・ギルモアも来ていた。
「なにかを盗みにきたのか?」と私がギルモアに聞くと、「今すぐうちのバンドに君が入ったらどうだろうか?」と言う。
ギルモアは「そうすればロジャーはナレーションをやったりドラを叩いたり、他のことを自由にできるだろう」と言ったのだ。
私は愛想笑いで返した。単に自分のバンド内の緊張について冗談を言っているのだと思ったのだ。
クイーヴァーのプロデューサーであるクリス・トーマスはかつてこう言っていた。
「ピンク・フロイドのスタジオでの主な仕事は、デヴィッド・ギルモアとロジャー・ウォーターズの間の摩擦を未然に防ぐことだ」と。しかし、どうやらこの時のデヴィッド・ギルモアは本気だったようだ。このことを知ったのは、もっと後になってからだ。
世界最大のバンドからのオファーを、私はスルーしてしまったのだ。
とはいえ、結局は彼らとも長くは続かなかっただろう、そういうことにして自分を慰めた。