1970〜1972年頃。アトラクションズ以前のキャリアで最初に名前が挙がることが多いクイーヴァー期の話。
CHAPTER 6 Raising the Roof
オーディションに合格した私は、再び代役を務めることになった。今度はクイーヴァー*1というバンドのホンク(Honk)という男の代役だ。その名前だけで、なぜ彼を変えようとしたのかがわかるだろう。ドラマーはウィリー・ウィルソン*2で、コチーズ(Cochise)*3(...チョコアイス(Choco ice)と呼ばれていた)というバンドですでに知っていた。ギタリストはカナダ人のカル・バチェラーで、もう1人は評判で聞いたことのあるティム・レンウィックだった。
ヴィレッジのローディーの一人で、ケンブリッジ出身の人が、ある日私に言った。「俺の家の近くに、エリック・クラプトンより上手い奴がいる」
ギター・プレイヤーはよくこんな風に、「...彼はキッドを抜いた!」とまるでガンマンのように語られることがあった。
ケンブリッジの繋がりは重要な役割を果たした。
なぜなら、ケンブリッジのギタリストであるピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモア*4もティム・レンウィックを知っており、フロイドのマネージャーであるスティーブ・オルークにクイーヴァーを推薦したからだ。
リハーサルとウォームアップギグが続き、すぐにバンドの話題は広まった。
クイーヴァーは、ローリング・ストーンズがイギリスを離れてフランスへ移住*5する直前、ブレイの川辺で行われたストーンズのパーティーで演奏することに招待された。
ジミー・ペイジ、ローリング・ストーンズ、さらにはジョン&ヨーコといったロイヤリティなど、みんながそこにいた。
テーブルは学校の食堂のように並べられていた。私たちの演奏に満足していたのか、誰も部屋を出ることはなかった。その後、私たちが客席を回っていると、デヴィッド・ギルモアがキャビアをテイクアウトのカレーのように山盛りにした皿を持って現れた。
ミック・ジャガーが挨拶にやってきた時、この砂金のようなおつまみを見て、眉をひそめて「デヴィッド、大丈夫か?」と言った。
これほど強固なマネージメントとサポートがある中で、クイーヴァーが失敗する可能性は果たしてあったのだろうか?なぜクイーヴァーは失敗したのか?
それは...自分たちが何をやっているのか全くわからないまま、ファーストアルバムを制作してしまったというところにある。人々は実際にそのアルバムを聴くのを待ち望んでいたし、音楽ビジネスへの期待もあった。
私たちは、アメリカのバンド、クローヴァー*6、スティーヴ・ミラー・バンド*7のようなソフトなブルージー・ロックを演奏し、ちょうどいいタイミングでちょうどいいポジションにいた。
もし、プロデューサーの力を借りて、ライブを素晴らしいデビューアルバムに仕上げることができたなら、すべてが違っていたかもしれない。
でも、結局のところ、すべて「もし」の話だ。
結局のところ、すべての「もし」は、「もしドリスおばさんに睾丸があったら、ボブおじさんになっていただろう」と同じことだ。
私にも責任の一端はあるだろう。アルバムに長い退屈なベースソロを入れようとしたのは自分だった。即興でワンテイクで演奏し、最後にちょっとだけ裏返ったベースが入る。
一体何をするつもりだったのか、何の計画もない。一度聴いたら、二度と聴きたくなくなるような。私も聴こうとは思わない。
評判はさまざまだった。酷評されたというよりかは、ただただがっかりしたというのが本音だと思う。
我々はライブ演奏の評判を高め、セカンドアルバムでは正しい道に戻ろうとした。
ピンク・フロイドのサポートで行ったフェスティバルの数は数え切れないほどで、週末には彼らとサッカーで遊ぶこともあった。
クイーヴァーはグラストンベリーフェスティバル*8で初めてピラミッドステージに立った。
ウォルシー・ファームのキッチンでアンドリュー・カーと初期の企画会議に同席したこともある。
私たちが出演した日の最も印象的な出来事は、白いスーツに身を包んだ最新鋭のセンセーションが、バンドとは思えないほど凶暴なチームを引き連れて登場したことだった。
その後、Tレックスのサポートとして、音楽的には記憶に残らないツアーを行った。
観客の興奮した女の子たちのほとんどは、クイーヴァーの音楽はもちろん、Tレックスの音楽を聴きに来たわけでもない。
2つのバンドは同じバスで一緒に移動していた。
街に近づくと、マーク・ボランは席を外してダッシュボードの前の方に座り、さりげなく身なりを整え、見つかって叫ばれるのを気にしていた。
マーク・ボランの良いところは、自分の最大の崇拝者から遠く離れることがないことだ。
ティム・レンウィック、ウィリー・ウィルソン、カル・バチャラーと私は、英国に来たアメリカのバンドをできるだけたくさん見に行った。私たちはアルバート・ホールでザ・バンドを観た。
以前はボブ・ディランのバッキングバンドとして出演していたが、ディランがエレクトリックに転向し、ウールジャンパーの連中からブーイングを浴びていた。
「俺たちはどのように受け入れられるかわからなかったので、俺たちには時間を掛けてそれを築き上げる必要があった」と、ギタリストのロビー・ロバートソンが興奮した観客に説明していた。
そして、我々はウェンブリーでグレイトフル・デッドが4時間に及ぶセットを演奏するのを見た(それでも、彼らにとっては短い方だ)。
フィル・レッシュの美しいメロディアスなベースラインに触れることができた。
その頃、クイーヴァーの大ファンがいた。
南海岸で演奏するときはいつも、背の高い若者が来ていた。かつての私がそうであったように、この若者もその場の雰囲気に浸りながら質問攻めにしてきた。
彼は自分自身がドラマーだと言う。
「名前何ていうの?」と私は聞いた。
「ピートだ」と彼は言う。
「ピート・・・ラストネームは?」
「あなたと同じだよ、トーマス」と彼*9は言う。
クイーヴァーがザ・フーのイギリスツアーのサポートとして決まった時、契約上、まだ履行しなければならない小さな会場での演奏に我慢できなくなっていた。
ソールズベリーでのライブ後、プロモーターが楽屋にやってきて、演奏についての意見を述べ、我々にアドバイスをくれた。
おそらく彼は70代半ばくらいだっただろう。赤ら顔の白いひげを生やした男性で、まるでサンタクロースか古いトビージャグのようだった。
彼の意見に対して私は「はい、どうも。ただ、これ以上お手数をおかけすることはないでしょうね。もうこんなギグはやらないんだ。来週からザ・フーとのツアーを始めるからね、ひげのじいさん!」
プロモーターは唇を尖らせて頷き、感心しつつも叱責を受けたような感じに見えた。
最初のショーの前には、ザ・フーの中でただ一人ロジャー・ダルトリーだけが話に来てくれた。彼は、私たちの機材を遠い目で見て言った。
「アンプの大きさがまだスーツケースくらいなんだな」
「まあ・・そういうことだね」と私は返した。ピート・タウンゼントが楽屋のドアから顔を出して挨拶した。
ジョン・エントウィッスルは、運転手付きのキャデラックで到着し、(毎晩そうではあったが)誰とも話すことなく去っていった。
キース・ムーンとの出会いは、彼のコーリングカードによるものだった。
楽屋のテーブルの上に、「誰か」が「世界の裸の女たち」という本を置いていった。その本は、開くためだけに作られたものだった。
この本を開くと、軽い電気ショックを与えるようにできていた。しかし、このこと以上に大きなジョークが私を待っていた。
ショーの後、私たちはホスピタリティエリアでくつろいでいたら、エージェントが私の横に寄ってきて耳元でつぶやいた。
「ツアープロモーターはもうご存知でしょう?」
私は顔を上げて見上げると、私の地位向上には無意味だと私が判断した「ひげのじいさん」がいた。
彼が私の反応を見たとき、彼は大笑いした。寛大なジェスチャーで助かった。彼は過去10年から15年にわたり、ジーン・ヴィンセントやエディ・コクランなどの時代から、イギリスで最も大きなロックショーのプロモーターであったことが分かった。
彼の息子であるトニー・スミス*10も、その後同じようにモンティ・パイソンやジェネシスを含む一流のアーティストを担当することになる。
翌日の夜、ザ・フーの控室で大ゲンカがあり、ワードローブが粉々に壊された。誰かがバックステージに訪れていた歌手、サンディ・ショー*11に何か言葉を発したようだ。
私はタウンゼントの「やるしかないだろ?」という声を聞いた。しばらく経ってから、私は「誰か」が誰であるかよく分かった。
彼らのセットが中盤に差し掛かった頃、タウンゼントとムーンは互いを見つめた後、しかめっ面をした後に、にやりと笑い最終的に笑顔になった。彼らはまた仲直りをしたのだ。
「The Who Concert File」は、レインボウでのライブ後の出来事を回顧し、クイーヴァーのドラマー、ウィリー・ウィルソンの証言を引用している。
「私たちは午後5時ごろにサウンドチェックのために行ったが、ムーンが控室で私を追い詰めたんだ。「ウィリー、いい子だ!ブランデーとコーラでいいか?」と彼は叫びながら、半パイントのグラスを私の手に押し付けてきた。
グラスにはほとんどコーラが入ってなかったんだ。ムーンは私を酔わそうとしていた。
私たちは新車のフォード・エスコートを借りてライブ会場の移動の途中で、酔いつぶれてしまってイーリング・ブロードウェイで車をひっくり返し、私とバンドの他のメンバーを道路にばらまいてしまった。
我々のギタリスト、ティム・レンウィックはマンディ(薬物の一種)の袋を持っており、パニックに陥った瞬間にそれを横断歩道の標識に隠し、翌日戻って取りに行ったんだ」
私がザ・フーを初めて見た時は、200人収容のクラブ、マッコイズでライブをしていたが、「トミー」以降の彼らは、すべてが大きなキャンバスに描かれ、大きく表示されるスタジアム・バンドになっていた。
ツアーがグラスゴーのグリーンズ・プレイハウスに到着したとき、私は今まで見た中で最高のロック・セットを見た。
そのような夜が訪れたときは筆舌に尽くしがたい。「鉱夫が豊富な鉱脈を見つけるときのようなもの」「電気技師がマイナスケーブルにドライバーを突き刺すときのようなもの」とでも言えるかもしれない。
バンドはいつものセットを演奏していたが、今夜はすべてが指数関数的に掛け合わされ、足し算の合計以上のものになっていた。
これはただの音の壁ではなかった・・・まるで波のように立ちはだかり、私がこれまで体験した中でも最も危険なものだった。
何かが起こっていた - 具体的に何が起こっていたのか、私には未だわかっていない。
ある時、私は屋根を見上げて実際にまだそこに屋根があるか確認した。文字通り夜空を見ることを期待していた。
波がさらに高くなるにつれて、タウンゼントは予備のギターの山の一番上のケースを開け、チェリーレッドのSGを取り出してオーケストラピットの上空から前の席に投げつけた。「どうすればいいかわかるだろ!」と彼は叫んだ。
観客が一斉にギターを奪い合い、頭上で回転させてからバラバラにした。
2本目、3本目、4本目......。
そして、6本のギターが破壊された後も、バンドは演奏し続けた。
私はステージ脇のモニター・ミキシング・デスクのすぐ近くに立ち、口を開けて見ていた。その時、タウンゼントの顔に浮かんだのは、自分でも未知の領域であることを自覚しているような表情だった。
彼は、今まで聞いたこともないような大音量の演奏で観客を興奮させ、何でもさせることができることを理解したのだろう。
これ以上、興奮、爽快感、多幸感のレベルを押し上げると、ダークで暴力的になってしまい危険だと悟ったのだろう。
そして、どうにかしてこの完璧な嵐を切り抜け、みんなを安全な港に連れ戻さなければならない。
The Who (1965)
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The Who (1970)
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当時のセッションマン、つまり『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演したバンドが誰であっても、多くのポップ・ヒット曲で演奏していたのは、ほとんどがベースのジョン・ポール・ジョーンズやハービー・フラワーズ、ギターのビッグジム・サリバンやジミー・ペイジのような人たちだった。しかし、今は新しいセッション・プレイヤーたちが参入してきた。ティム・レンウィックと私は、多くのアルバムに呼ばれるようになった。
時にはよりフォーキーなシンガーソングライターたちと一緒に。
アル・スチュワートのヒット曲「Year of the Cat*12」でのティム・レンウィックの特徴的でリリカルなソロは、テレビでアル自身が恥ずかしげもなく真似しているのを何度も見たことがある。
Al Stewart - Year of the Cat (1976)
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これらのセッションでのキーボードプレイヤーはリック・ウェイクマン*13で、彼はしばしばいたずらっ子のような行動でセッションを中断させていた。
アルがモスクワに進軍するナポレオンと軍隊についての壮大なバラードを歌っている最中に、リックは彼の後ろから忍び寄り、彼の肋骨に突きを入れることがあった。
また、テイクを始める寸前にリックが口を挟むこともあった。「こんなのどうかな? ミセス・ミルズがレッド・ツェッペリンを演奏する感じで」と言うのだ。
ミセス・ミルズは、過度に興奮を望まない人々のためのありふれたピアノのインストゥルメンタルを演奏する郊外に住んでいる人だった。
リックはそんなバージョンの「Whole Lotta Love」を演奏した。
それは私の母がピアノを演奏する様子、母の左手が時折ベース音を慎重に探す、まるでキーボードの下部にお茶でも置いているかのような慎重さ、を思い出させた。後年、プログレッシブ・ロックは長く続いた結果、ただの見せびらかしの技術を披露するだけの音楽となっていった。
そのような時期、リックは「ヘンリー8世の6人の妻」といったソロアルバムを制作した。
コンセプト・アルバムはいくつか理解できたが、正直、誰がこれらの妻たちの違いを聴き分けられるだろうか?
彼女たち全員がスピネットの前でギタリストのようにキーボードを素早く上下させていると推測せざるを得ない。王陛下が彼女たちを斬首したのも無理からぬことだ。シンセサイザーの登場により、キーボードプレイヤーもギタリストと同じくらい大音量で独りよがりな演奏することができるようになった。
幸いにも、プログレッシブ・ロックの行き過ぎを克服し、より満足度が高く前向きなシンセサイザーへのアプローチが、ドイツのバンドであるクラフトワーク*14によって考案されていた。
彼らはクラシックな名曲「アウトバーン」でシンセを使用し、新しくよりクールな音楽のジャンルを刺激するリズムと質感を創り出したのだ。
* * *
トライデント・スタジオでアルのセッションの時、いつも同じ4人組のバンドが受付の前に座っていた。私たちが通りかかると、彼らは静かになり口を噤む。
彼らは、私たちに聞かれたくなかったのだろう、何を企んでいるように見えた。ビッグになることを目標にしているのだと思った。
ギタリストは大きなカールの頭で、残りの2人は少し似ていた。
親しげに見えたのは歯を見せて歌うシンガーだ。そうか、あいつは昔見たことがあるケンジントン・マーケットのブート売り、フレディだ。私は彼を見て頷くと、彼も呼応して頷き返した。
「バンド名は何ていうんだ?」と私は聞いた。
「・・・『クイーン((クイーン(1970-) https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_(band)))』だよ」
クイーヴァーはオックスフォード・サーカスの上にあった、ジョージ・マーティンのAIRロンドン・スタジオでセカンド・アルバムをレコーディングし、クリス・トーマスがプロデュースを担当した。
クリスはビートルズ、ピンク・フロイド、ロキシー・ミュージック、セックス・ピストルズと仕事をしたことがある(あるいはその後、するようになった)。彼は期待通りのいい仕事をした。タイトル曲の「Gone in the Morning」は、クイーヴァーの特徴をよく表してくれた。
しかし、良くできたニューアルバムと良いライブでの評判があっても、クイーヴァーは賞味期限切れに近づいているように思えた。そして、どこかの誰かが、あるアイデアを思いついたのだ。
Quiver - Gone in the Morning (1972)
www.youtube.com
ブルース・トーマスらしいベースラインが聞こえる。
*1:クイーヴァー https://british-rock.salmon-news.com/top/group-q/quiver/
*2:ウィリー・ウィルソン https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-w/willie-wilson/
*3:コチーズ(1969-1972) https://british-rock.salmon-news.com/top/group-c/cochise/
*4:デヴィッド・ギルモア https://en.wikipedia.org/wiki/David_Gilmour
*5:ローリング・ストーンズは、1971年4月5日にイギリスの税制上の理由でフランス南部に移住した
*6:クローヴァー エルヴィス・コステロ「My Aim is True」のバックバンドを務めた https://en.wikipedia.org/wiki/Clover_(band)))やポコ((ポコ https://en.wikipedia.org/wiki/Poco
*7:スティーヴ・ミラー・バンド https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Miller_Band
*8:1971年のグラストンベリー・フェスティバルだと思われる
*9:ピート・トーマス 後にアトラクションズで組むことになるドラマー、この頃からの付き合いだったらしい
*10:トニー・スミス https://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Smith_(manager)
*11:サンディ・ショー https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC
*12:ブルースはこの曲をレコード店で買うという「サクラ」もやっていた(8章に詳しい)
*13:リック・ウェイクマン https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-w/rick-wakeman/