俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 10 Arrival(ア・ライバル)


1977〜1978年頃。スティッフツアーと「This Year's Model」の頃。

CHAPTER 10 Arrival(ア・ライバル)

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「いや、お前が今やるべきことは、ジャケットに目玉焼きを付けて、耳から数切れのベーコンをぶら下げることだけだ!」
「いや違うな!!リズム!リズム!リズムだ!!」


この会話はフィルムにも残っていて、私たちを追っていたドキュメンタリー・クルーが、そのやりとりの一部始終を永久記録している。


イアン・デューリーとの言い争いは、少し酒が入っていた影響もあるが、私には主張したいことがあったのだ。
私の主張は、今現在、音楽よりもアティテュードが優位に立っている、というもので、それを証明するバンドがたくさんいた。
エルヴィス自身がもともと「演奏できない」バンドを望んでいたように、多くの人々は、音楽的に不勉強であることを美徳とし、プログレが最終的になってしまったもの、つまり尊大で大げさな恐竜ロックに反発していた。
しかし、この議論はそれ以上に複雑なもので、裏があった。というのも、デューリーと彼のバンド(ブロックヘッズ)は、「スティッフ」ツアーでトップ・アクトになるために、我々と真っ向から対決していたのだ。
デューリーは「リズム!リズム!リズムだ!!」と言いながら「俺たちはお前たちより先に成功する」と言っていたのである。


デイヴィ・ペイン*1アナーキーなサックス・ソロはともかく、ブロックヘッズは僕らよりもっとオールドスクールなバンドだった。
彼らがラヴィング・アウェアネスから静かに名前を変えてからまだ間もない頃だった。
その翌日、イアン・デューリーは私のハッタリに負け、プラスチックの目玉焼きをメダルのように胸に付けてステージに登場した(ただし、耳からベーコンはぶら下げてはいなかった)。


1977年末のスティッフ・ツアーは、レックレス・エリック*2ニック・ロウ*3イアン・デューリー&ブロックヘッズ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズの4バンドで行われ、ニックのバンドにはスティッフの5人目のアーティスト、ラリー・ウォルス*4が参加した。
最初のアイデアは、毎晩の演奏順をランダムに決め、全員がオープニングとクロージングを担当することだった。
だが、我々やブロックヘッズがオープニングを飾った場合、レックレス・エリックがクライマックスまで盛り上げるのは難しいということがすぐに判明した!
そこで、エリックとニックがオープニングを交互に行い、ブロックヘッズとアトラクションズがクロージングを交互に担当することになったのだ。


イアン・デューリーの曲は「Sex & Drugs & Rock 'n' Roll」という、アンセムのようなとてもキャッチーな曲で、ショーを締めくくるのにふさわしい曲と判断された。
だから、我々はこの曲のためにステージに集まり、まるで幸せな大家族のように一緒に演奏することを要求されたのだが、実際はそうではない。
エルヴィスは、このショーの終わりの陽気な雰囲気を避け、ステージからこっそり降りているところをフィルムに撮られたこともある。エルヴィスだけではなく、私にもそういうことがあった。
「目玉焼き」の喧嘩は、2つのバンド間のライバル関係や緊張感のほんの一例に過ぎないのだ。


我々がイアン・デューリーの「Roadette Song」のカバーをセットリストに加えたのは、トリビュートでも賞賛でもなく、「ほら、俺たちの方がお前の歌をうまくやれるぞ」と主張するためだ。


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エルヴィスはその後、「Sex & Drugs」に直接的なアンサー「Pump It Up」を書いた。
デューリーは「セックスとドラッグとロックンロール、それが私の脳と体に必要なすべてだ」と書いた。
エルヴィスは「本当に必要ないときは、パンプ・イット・アップだ」と返した。


ブロックヘッズのキーボード奏者ミッキー・ギャラガ*5は、自身のブログでこう回想している(ブログで返しているからブログ・ヘッズか?)


1977年11月4日金曜日:
記憶の中では、ワイルドな夜だった。バンドは今夜もいい演奏をしたが、イアンはなぜか自分の魅力を失っているような気がした。
ステージを出て楽屋に向かうと、エルヴィスとアトラクションズがステージに向かっているところに遭遇した。
イアンはエルヴィスとすれ違うとき「今夜は君のものだ」と慇懃な調子で言った。
ジョニー・ターンブルと私にとってはホーム・ギグであり、残りの時間は旧友のリンディスファーンやクラブ・ア・ゴーゴーの様々な知人との交流に費やされた。
ブルース・トーマスが私の妻を口説こうとしたことに腹を立てたことは覚えている。

(え?そんなことあったっけ?)


スティッフのツアーが終わってから1週間後、私たちはアメリカ行きの飛行機に乗っていた。
ヒルトンの前でバスキングをした結果、ジェイクは米国でのレコード契約を獲得し、「My Aim Is True」はすでに10万枚の売り上げを記録していた。フライトの途中、ジェイクは座席の背もたれから身を乗り出して、私たちを抱き寄せ、こう言ってモチベーションを高めた。


「今のお前たちの競争相手はブロックヘッズでもピストルズでもクラッシュでもジャムでもない。アメリカでのライバルバンドは、ブルース・スプリングスティーンダイアー・ストレイツだけだ」



サンフランシスコに到着し、ミルバレーにあるハワード・トーンソンというモーテルに向かった。荷物をバラした後、コーヒーショップに行くとそこにはジェイクしかいなかった。
他のメンバーたちは興奮し、すでにタクシーを拾って市内へ向かっていたのだ。
ジェイクは諮るように「私たちは古株だから、機会があれば休みを取ってくれ」と言った。
「休みだと?8千マイルも飛んだばかりで?」


ニューオーリンズでは、レコード会社の歓迎で初めて企業のホスピタリティを味わった。スイートルームに通され、好きな飲み物を注文するように言われた。
ルームサービスが注文を取りに来たとき、私はピートに「ピエール、何にする?」と聞いた。
ウォッカ2本、ブランデー2本、ビール数本、オレンジジュースとコーラ」とピートは言った。
「私も同じものを」と私は言った。


アトランタでは、トーキング・ヘッズ*6のサポートでライブをした後、全員がパーティーに招待され、私はティナ・ウェイマス*7が隣のテーブルに座っていることに気づいた。
「私たちのバンドをどう思う?」と彼女が聴いてきた。
トーキング・ヘッズは私のお気に入りのバンドであり、彼らのアルバム『Talking Heads '77』が大好きで、あなたはとても良いベーシストだ」と、本当のことを言えば良かった。
だが、「ああ、あなたはちょっとアーティーな人なんだね」と言ってしまった。
彼女はまるで、以前も非難されたことがあるかのように少しガッカリしたような顔をして「ええ」と言った。
私はエルヴィスが言ったことを繰り返しただけだった。
エルヴィスの意見に共鳴して、賢くパンキッシュでモダンに見せようとしたのかもしれない。
それ以来、私は自分の言いたいことだけを言うことにしたのだ。


東海岸に着いたあと、プリムスのステーションワゴンで移動したが、バンド全員と、マネージャー、ツアーマネージャーを乗せるスペースはなかった。
バッグやケースの上にヒーターもないところで震えながら後ろ向きに座っていた。外を眺めながら、今からどこに行くのかではなく、どこに着いたのか、しか分からない。
12月の寒い時期だった。
ある日はペンシルベニア州で白いレースの木が生い茂る冬のワンダーランドをドライブし、次の日は、ニュージャージー州の荒涼とした都会の風景を眺めていた。
ABBAの「Arrival」とデヴィッド・ボウイの「Low」という2つの絶妙なサウンドトラック*8が、変化する外の世界観を反映していた。


ニューヨークでは、すべてのバンドが待ち望んでいたようなブレイクを迎えることになった。
マルコム・マクラーレン*9がジェイクに電話をかけてきて、セックス・ピストルズ*10が予定していた『サタデー・ナイト・ライブ』のテレビ出演ができなくなったので、私たちを出演させることにしたと言う。
ラモーンズ*11は「ラモーンズは誰の代わりにもならない!」と抗議し、最初にこのオファーを断っていた。
しかし、この後、彼らは考え直したかもしれない。


サタデー・ナイト・ライブは、現在のスタンダードから見ると地味に見える。
しかし、1977年当時、特にアメリカでは、かなりユニークな番組だった。
当時、グループのライブ演奏を見ることができたテレビ番組は、『サタデー・ナイト・ライブ』と『ミッドナイト・スペシャル』だけだったのだ。
私たちが出演した12月17日より前は、レイ・チャールズ、ウィリー・ネルソン、レオン・レッドボーン、ジャクソン・ブラウンポール・サイモン、タジ・マハルといったアーティストがゲスト出演していた。
そして、音楽だけでなく、ショー全体が生放送だった。


舞台裏の楽屋には、ジョン・ベルーシ*12をはじめ、さまざまなキャストが訪ねてきた。

「君たちの中にブルースが好きな人はいるか?」とベルーシが尋ねた。
私の方を横目で何人か見てきたので「ああ、俺は好きだよ」と私が言った。

いくつかのブルースマンの名前とブルースの歌詞をお互い出し合った。

「ウィリー・メイボン*13はどうだ?」とベルーシが言った。
「ああ、知ってるよ」と自信を持って返した。
マッコイズで演奏していたバンドがウィリー・メイボンのナンバーを何曲か演奏していたからだ。

「I just got some...」とベルーシは、同名の曲の最初の行を引用した。
「I had to have some」と返した。

「The doctor supplied some...」

そして、最後まで一緒に合唱した。
「I just got a taste of her meat and veg !!」

我々は、お互い握手し肩を叩き合って、ブルース・ブラザーズ*14になったのだった。


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その夜、サタデー・ナイト・ライブで我々は2曲演奏することになった。
しかし、全米ネットのテレビ番組という予期せぬボーナスだけでは物足りなかったのか、ジェイクはまたも名人芸を披露した。
彼はヒルトンの前で路上ライブをするなどアイデアには事欠かないが、今回も同じようなことが提案された。
ピート・トーマスが私たちがプリントした「Thanks Malc(ありがとうマルコム*15)」のTシャツに着替えたところだった。


ジェイクは我々を楽屋の隅に集めてこう言った。
「良いか?1曲目はアレンジ通りにやる。2曲目を始めるときに...エルヴィス、突然止めてRadio Radioに入れ。みんな驚くだろう?」*16


実際にそれが実行された瞬間、それがショーの寸劇の一部なのか、誰が思いついたのか、バンドは知っていたのか、自然発生的にそうなったのか、演出されたものだったのか、誰も何も知らなかった。
ジョン・ベルーシは、生放送で最高の出来だと思ったようだ。
歌詞は放送される前に事前に審査されなければならない。
私たちが何か漏らしたりすれば番組出演が取りやめられる可能性があった。



ロンドンに戻った私たちはスティッフ・レコードから離脱した。
エルヴィスはアンドリュー・ローダー*17(かつてクイーヴァーと契約しようとした人)が経営するレイダー*18と新しい契約を結んだ。
私たちは1日かけて大量の洗濯物を整理し、トップ・オブ・ザ・ポップスを挟みナッシュビル・ルームで3回のギグを行った。


最終公演にはスティッフ・レコードのスザンヌが現れ、公演後に会話が弾んだ。

「ジェイクがスティッフの人とは付き合っちゃいけないって言ってたぞ」と私は言ったのだが「ジェイクの言うことを気にする必要はない、もうスティッフは辞めたの」と彼女は言った。
私は「あなたの家?それとも私の家?(your place or mine?)」というセリフを口にした。

「彼女の家(your place)」だった。それ以来、荷物を取りに行く以外は自分の家には戻らなくなった。


スザンヌが住んでいたのは、地下鉄ベーカー・ストリートの向かいにある、厚い緑の絨毯と真鍮のシャンデリアが敷かれたウッドパネルの廊下が続く大邸宅だった。
各エントランスには制服のポーターがいて、買い物の手助けをしてくれる。
ポーターの一人によると、このブロックには他にも何人かの「ショービズ」な人々、ゲイリー・グリッター、ヒューイ・グリーンが住んでいたそうだ。


クリスマスが終わると、バンドはそのままアクトンのエデン・スタジオに入り、ニック・ロウがプロデュース、ロジャー・ベキランがエンジニアで『This Year's Model』のプロダクションを開始した。

そのうちの何日かは作業が終わった後の夜、私の広々とした新しい家で、ラフミックスを聴きながら翌日のレコーディングを計画した。
ソファーが片付けられ、予備のマットレスが床に敷かれていた。
そして翌朝にまた出発し、昼過ぎから夜10時まで、驚くほどの集中力で作業を行った。
ノリに乗っていたある日には、アルバムの半分以上となる7曲を完成させたのだ。
在りし日のモータウンがセッション1回で4、5曲のヒット曲を作っていたような感覚だった。


クラシックなヴァース&コーラス・ソングが返ってきた。影響は明らかだが、新しいエッジが加わっている。
「The Beat」のベースはポール・マッカートニーの「Taxman」に似ているが、ギターで聴くような華やかさが加えられている。
「You Belong to Me」はソロモン・バークのリフを再構築したものである(聞き方によってはスモール・フェイセズローリング・ストーンズのリフのようでもある)。
「This Year's Girl」はストーンズの「Stupid Girl」とビートルズの「You Won't See Me」のハイブリッド。
「No Action」はザ・フー
「Pump It Up」はディランの「Subterranean Homesick Blues」(この曲はチャック・ベリーの「Too Much Monkey Busi-ness」を参考にしている)からボーカルのヒントを得ている。
「Pump It Up」のコーラスのベースは「In the Mood」を引用しているが、これはエルヴィスの父親がこの曲をバンドの代表曲として使っていたことに因んでいる。

マテリアルのクオリティの高さと前衛的な音楽的アプローチから、自分自身もこの作品を楽しんだ。


ベース・プレイヤー誌がこの様に書いている:


アトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスは、パンク・ポップ・アイコンのエルヴィス・コステロサウンドにとっていかに重要な存在であるか。
「This Year's Girl」でのブルースのインスピレーションあふれるパフォーマンスは、彼自身が頂点のリーグを形成しているようだ。
アルバムの大半のトラックは、彼の独特かつ大胆なスタイルの研究の成果である。
ブルース・"キング"・トーマスは、キラー・トーン、邪悪なほどのサウンドの明瞭さと、独創的なベース・ラインを持って、ミックスから飛び出し、顔を殴るようなサウンドで風景を支配するのだ。
インスピレーションを求めるロックベーシストにとって必携の作品である。

この「This Year's Model」はそのまま1位を獲得し、現在でも通用するアルバムとなった。


* * *


ジェイクの友人スーが作ってくれたチリ料理のせいでデビューギグは台無しになりかけたことがあったがバンドはを彼女を許し、スーの結婚披露宴で演奏するためにコーンウォールに戻った。

その晩の幸福感の中、スザンヌと私は結婚することになった。
それは人生のあらゆる側面が急加速して進んでいたことを反映していたのだ。
次に2、3日空く予定の8月の第1週に結婚式をすることに決めた。