俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 20 Doing the Splits


1988〜1994年までのセッションワークス期からアトラクションズ再結成まで。スザンヌとの離婚とブルース・リー本の執筆も。

CHAPTER 20 Doing the Splits

マッドネスも私たちと同じような騒動を経験していた。
彼らは通常のリズムセクションを使っていなかったため、私は彼らのスタジオでマッドネスの残りのメンバーと一緒にレコーディングするために呼ばれた。
彼らも音楽的に新しい方向に進んでいた(もしくはバラバラになっていた)し、私が彼らと一緒に作ったトラックは、ナッティ・ボーイズよりもむしろロキシー・ミュージックのようなサウンドだった。
それはそれで楽しかったし、彼らと一緒にテレビ出演のためにスーツを着ることも楽しんでいた。


私のセッションワークの半分は他のドラマーで、もう半分はピートと一緒だった。
ピートと一緒にいると、アトラクションズの生活とそれほど変わらない。
ある日、有名なグループのミュージシャンがソロアルバムを制作するために私たちをブッキングした。
(その人は実際に最も過酷なツールの山岳ステージをいくつか走ったことがある真剣なサイクリストだったが、尊敬の意味で彼が誰であるかは伏せる)
私たちは「Lady Soul」という曲に取り掛かっていた。
それは確かにロマンチックなコンセプトではあったが、コーラス周りを演奏しているうちに、作曲者が気付いてなかったことがミュージシャンたちには明らかになってきた。
その人が全力を出している最中、私とピートの目が合った瞬間にドラムが止まり、その後演奏すべてが止まった。

「これはちょっと歌えないぞ」とピートが彼に言った。
「ええ?なんだって?」とその歌手が言った。
「『I'm looking for a Lady Soul』ってのは、何度も繰り返して歌えないと思うぞ」とピートが言った。
「なぜだ?」
「だって、それだと『私は女性の穴を探している』って聞こえるからな!」


ピートと私がアビーロードでセッションを行っていたときのことだ。
スタジオから食堂へ戻る途中で、彼が清掃員のロッカーの一つに立ち寄った。
「なあ、これ知ってるか?」とピートがドアを開けながらいった。
私は息を飲んだ。
ほうきやモップの中に、ヘフナーのバイオリンベース、しかも左利きのものがあったからだ。
さらに、それには、ビートルズの最後の公演であるキャンドルスティックパークでのセットリストがテープで貼られていた。
もちろん、持って逃げようかということは頭をかすめたが、仮にそれを自分の戸棚に隠しておいてもどうしようもないだろう*1


その年の後半、私とピートはベルファスト近くのスタジオで作業していた。しかし、アルバムが完成した後に本当の楽しみが始まった。
私は何が起こるかを知っていた。アイルランド人、ピート、そしてポティーン(アイルランド蒸留酒)が関わるものだった。
だから私は、彼らが私を無視することを願いつつ、早めに寝床に入った。

後になって分かったが、まず最初にピートが、我々の前にスタジオにいたアイルランド人カントリーシンガーのマスターテープを持ってきて欲しいと強く主張した。
ピートはギターのオーバーダビングが必要だと考えたのだ。
そこから、夜は深まっていった。
アイリッシュの人たちはその夜の冗談を録音したカセットを入手した。
彼らは、ピートに "その人 "と仕事をするのはどんな感じかと尋ねるくだりを聞かせてくれた。
ピートが「in-gig-sif-nif-i-gant worm」と言うのに苦労しているところまで聞いたが、その後テープは停止された。
「それのコピーをもらえるかな?」と私は聞いた。
「ああ、いや、 それは保管されているので・・」と彼らは言った。
私はオフィスにこっそりと忍び込んでそれを回収し、それがどれほど有害であるかを認識し破棄したのだ。
私にとっては稀に見る利他的な瞬間だった。


ベルファスト空港で、ピートが出発ゲートに近づいてくるのを見て、セキュリティーガードがピートに何をしてほしいのかを示すため、両手を広げてジェスチャーした。
しかし、ピートは全力疾走中で両腕を広げ、そのまま男に歩み寄って抱きしめ頬にキスをした。
「ダーリン、帰ってきたよ」


ピートはフライトの間、トイレに隠れていて、荷物を受け取った後、素早くこっそりと立ち去ったが、後に彼がその週をスタイリッシュかつ驚くべきクライマックスで締めくくった話を聞いた。
自宅に到着すると、ピートは白いスーツと白いブーツに着替え、そのままトゥイッケナムの自宅からピート・タウンゼントのエール・パイスタジオに向かった。
彼は白いストラトキャスターを肩にかけ、玄関から入って受付を通り抜け、廊下を進み、ピート・タウンゼントが作業している場所に入り、コントロールルームに入った。
そこで彼は宣言したのだ。
「さて、俺が来たぞ、ヒットを録ろうぜ!」



1990年8月、私の本『The Big Wheel』が出版された。
多くの人々がエルヴィス&アトラクションズがどのように終わったかを知らない中、私は自分の文章がきっかけでバンドをクビになったという神話を作り上げることに満足していた。
それによって少しの悪名を得て販売を促進しようと願っていた。
レビューは良かったし、音楽の執筆についての賞にもノミネートされたが、今さらそれを宣伝する気はない。
ただ、もしまだ読んでいない人がいるなら、自分を幸運だと思えば良いし、手間が省ける。
内容はそれほど論争となるようなものではなく、その「シンガー」はかなり不機嫌で自分のやり方を好む、ということを言っているくらいだ。
多分、足が多汗症で、体重が増えやすく、病気持ち、そして、動物に好かれない人間だということについては書かなくても良かったかもしれない。
また私が時折、エルヴィスのことを「スーツケースの履歴を持つギターの弦楽器人形*2」とエルヴィスの歌詞の書き方をパロディにして表現することにイライラしていた可能性はある。


どちらにせよ、彼のニューアルバム「Mighty Like a Rose」に収録された「How To Be Dumb」は反撃を引き起こすに十分だった。
それはディラン風の怒りのこもった曲で、私ブルース・トーマスは嫉妬深く、醜く、色白の好事家であり、世界で最も面白い奴だとされていた。
最後の「最も面白い奴」という評価は立派なものだが、私は純粋にそれを受け入れることができない。
なぜなら、私は以前に世界で最も面白い奴、つまりジョン・クーパー・クラークに出会っていたからだ。


「Do you know how to be dumb?」と彼は怒った。
彼は何を言っているのだろう、「愚かになる方法」か「黙っている方法」か?
私は、自分の駄洒落を我慢できず、このアルバムを「Mighty Lack Arose」と名付けていた。


にも関わらず、その年の暮れには、新しいアルバムのためにアトラクションズを再結成する話が持ち上がっていて、ピートは既にエルヴィスのところに戻っていた。
後になって、バンドがセッションフィーを受け取るべきか、ロイヤリティを受け取るべきかの法的な論争が原因でその話が流れたと主張されたが、そもそも私はそのようなことについて話す段階にまで至ってない。
そもそも、エルヴィスからの電話にも出ていないのにどうやってそんなことを話すことができるのだろうか?
エルヴィスは、あらゆる人々に対する善意のシーズンであるクリスマスの日に私に電話をかけてきた。
私はスザンヌに言った。
「彼に伝えてくれ、今は七面鳥を切っていて忙しい、と」


* * *


アメリカ人は皮肉を理解しない」と言われているが、私はそれ自体を極めて皮肉だと感じた。
なぜなら、エルヴィスが「King of America」で私たちを置き換えるために雇った人々、Tボーン・バーネットやミッチェル・フルームのような人々が、今度は私をセッションに雇っているからである。
年末には、Tボーンがプロデュースするレコーディングのためにロサンゼルスに行った。

休憩中、ギタリストのマーク・リボー、Tボーン、そして私はオーシャン・ウェイ・スタジオからサンセットを下ってガワーガルチ・ストリップモールに向かっていた。
そこで起こった出来事に私は驚いた。
マーク・リボーは私が最高のベーシストの一人だと思っていて、私の演奏をとても楽しんでいると話し始めたのだ。
私はお礼を言いながらうなずいたが、彼の言葉を信じる余裕はなかった。

Tボーンは歩みを止めて私の方を振り向いた。

「まだ君は怒っているんだね・・彼は本当に君を傷つけたんだな」と言った。
私はTボーンが何の話をしているのかは分かっていた。
しかし私はいつも、スティーヴはナイーヴな男、ピートはむっつりした男、そして自分自身を辛辣かつ世慣れたタフな男だと思いこんでいた。
だが、本来の自分とは裏腹に、感情が湧き上がってくるのを感じていた。

「問題はね・・」とTボーンが割り込み、私が恥をかかないように救ってくれた。
「彼には情熱はあるが、魂はないんだ!」

なってこった、Tボーンは彼に対して同じことを言ったことがあるのだろうかと、と思った。



レコーディング中のキーボードプレーヤーはブッカー・Tだった。
そして今、私は再びスタジオに戻り、その昔、短パンを履いていた頃に覚えたリフを彼に促していた。
「Red Beans and Rice」「Soul Dressing」、そして「Green Onions」。
演奏が終わった後、ブッカー・Tはポケットから小さなノートを取り出して、私に連絡先を聞いてきた。
それは私にとって大きな意味を持つことだった。


* * *


ある夜、夕食後、アイスクリームを買いに出かけた。
それを持って帰る途中、玄関からわずか数ヤードしか離れていない場所で、誰かが私の後ろに迫ってきた・・・2人の男性だった。
大男が私の腕をつかみ、小さな男性が何かを私の肋骨に突き出した。街灯の下で刃がオレンジ色に輝いて見えた。
私はほとんど現金を持っていなかったので、大男は私の手首から時計を引き裂いた。
1分後、私はまだ呆然と立ち尽くしていた。私の中の弱々しい声が、保険金請求のことを叫び始めた。


1週間後、私とミセス・トーマスはメアリー・コステロの誕生パーティーに出席した*3
そこで私はリチャード・トンプソン*4と話をする機会があった。
彼は私が参加したスザンヌ・ヴェガ*5のアルバムでギターを演奏していた。
その時、私は、ゆったりとしたコットン・スーツを着て、黒いキャンバス地のスリッパを履いた、体格の良い男性に気がついた。
これは彼のスタイルなのか、それとも本物の武道家なのか?
私は彼に最近の経験を話したところ、「君はデレク・ジョーンズに会いに行く必要があるみたいだね」と言った。


1週間後、私はシェパード・ブッシュ・ロードの窓のない地下にデレク・ジョーンズの学校を見つけた。
そしてすぐ、かつて一日中ベースを練習していたように、一日2時間、4時間、6時間とカンフーの練習に明け暮れていた。同じように時間をかけなければならないとわかっていたからである。


スザンヌと私は、タイムアウトのパブリッシャーであるトニー・エリオット*6と彼のパートナーであるジェイニーと共に、クリスマスをフランス南部の彼らの家で過ごした。
映画製作者のフランク・チビタノビッチ*7をはじめ、他のゲストもいた。
トニーとフランクはかつてジャネット・ストリート=ポーター*8と結婚していた。彼らの友情は地獄の炎の中で鍛えられたものだと私は推測した。


本屋やサンドイッチ・バーの開店を断ったり、もっと重大なこととしては、体外受精の治療を中止したり、おそらくそんなことを口にしたせいで、これがスザンヌと私が一緒に過ごす最後のクリスマスになってしまった。
1月になり、次のレコーディングでLAに行ったが、その後帰宅した時に全てが終わっていることを知った。
私がする必要があったのは署名だけだったのだ。家は私のものになった。
一方、まもなく元ミセス・Tとなる人物は、より高級な街の新しい小さな住まいに移ることになった。


ブリジット・ジョーンズの日記」の映画の脚本を書いた人は、ある時、私たちの夕食のゲストだったに違いない。
なぜなら、これはまったく冗談ではなく、スザンヌはかつて青一色の食事を出したことがあった。
青いラムチョップ、青いジャガイモ、さらに青い野菜があった。
彼女の料理は伝説的で、エルヴィスはかつて彼女に『ナッツと一緒に料理する』という本を贈ったことがある。

シナモンとマーマイトのヨーグルトや、アボカドとキャベツの料理は、食材の組み合わせがユニークなだけでなく、刻んだキャベツを海に見立て、焼いたハーフアボカドを小さなオリーブの「船頭」を乗せた巨大なコラクル(ボート)に見立て、念のためカクテルスティックをマストにした見事なプレゼンテーションが特徴的だったのだが、これは誰も理解できないだろう。
夕食の前菜として熱々でカリッと揚げるはずのシラスは、「後で時間を節約するために」冷たい油の入った鍋に一日中放置されたままだった。
「シラスをこんな風に揚げているのを見るのはは初めてだ」と、ゲストたちは崩壊したシラスのボウルを目の前にして言った。
彼らは次第に、私が料理をするのかどうかを控えめに尋ねることを覚えた。


ある時、ツアーから帰宅した際、スザンヌが建築家を雇って家の裏側をホワイトスターライナーのように改造する計画を立てているのを発見した。
手すりや救命胴衣を完備したものだった。
別の機会には、より野心的な計画が立てられた。
家全体を解体し、収納スペースとしての偽の床を設置する予定だった。ソファやベッドはプーリーで異なる高さに引き上げられるプラットフォームに置かれ、夜にはカーテンで囲まれる予定だった。
このために私から数千ドルもの金額を支払ってダンボール製の試作品を手に入れた建築家に、「小さな鏡やベル、栗の小枝を入れなかったのか?」と尋ねた。
別の時には、帰宅すると、家の一室がモンドリアンの絵画のように壁、床、天井まで装飾されているのを目にした。
何が「サプライズ」なのかと思って目を開けると、黒い線と色のついた長方形でできた格子の中にいた。脱出するためのドアを見つけるのに5分かかった。


私がいない間に、スザンヌがそういったことに夢中になっていたのだ。
しかし、実のところ、私はスザンヌに感謝していた。
私は彼女を風刺して楽しんだこともあるが、彼女は私が描写するほど一面的でもばかげているわけではなかった。
彼女は私に芸術への感謝を与え、(成功しなかったにもかかわらず)思いやりのある心を教えようとしてくれ、私の旅行への愛を刺激してくれた。
(結果として、旅行をやめられなくなり、最終的には私が残ったお金を使い果たすことになった)
彼女は私だけでなく普遍的な優しい心と広い思いやりの精神を持っている存在だった。
例えば、宅配便の配達員が自分のボートの新しいモーターのために500ポンドを「貸して」あげたり、道沿いに住む若い黒人が私のマイクを何百本も「貸して」あげたりしていた。
「彼はラップを習いたいと言っていた」とスザンヌは説明したが、その週の後半には中古ショップのウィンドウにそれが並んでいた。


ニューヨークでのキーロフ・バレエのチケットをサプライズで贈った夜ほど、スザンヌが幸せそうにしているのを見たことがない。
私たちは、アートギャラリーに行ったり、友人と食事をしたりと、いつも楽しく出かけていた。
しかし、ツアーが落ち着き、長い間同じ屋根の下にいると・・・。


だが、最後には笑顔になれた。
なぜなら、彼女の母親はローン・コリンズにも似たディオールのモデルであり、スザンヌ自身も美しい女性だったから。


幸いにも、スザンヌと別れた後、スージー・クーパーの陶器、マン・レイの絵画、ル・クルーゼの調理器具はホームレスになることなく、スザンヌの元で運良く保護された。
当面の間、私たちは両方が愛していた小さなスコティッシュ・テリアのアンガスを共有することになった。

私は古道具市や車のトランクセールで残されたがらくたを片付け始めた。
そこには、どれも本来の姿とは異なっていたが、蝶のように見えるアールデコの電気暖炉や、くちばしからぶら下がった電球を持つペリカンがあった。
私は暖炉の上に掛かっていた巨大な鏡 - 透明なガラス、黒いガラス、緑のガラスのモザイクなどをオークション会場に持って行った。
「おっ、それは強力な作品だね、こういう作品がある部屋には他の何も置けないんだよな」と店主が言う。
「置いていた人を私は知っているけどね」と私は言った。


* * *


セッションの仕事は続いていた。

みんな大好きな社会主義者ビリー・ブラッグ、カントリー・ガールのカーリーン・カーター、スペインのバンドのダンカン・ドゥ、その他世界中の叙述的なアーティストと共演した。
自分たちのレコードで演奏するはずのポップ・バンドのために演奏し、守秘義務契約書にサインしなければならなかった。
名刺を印刷しておくべきだった: ポップ、パンク、フォーク、ファンク。
その頃には、ロンドンやロサンゼルスのレコーディング・スタジオの内部をすべて見て回り、『ドクター・フー*9』から『ミスター・ロジャーズ・ネイバーフッド*10』までのすべてのテレビ番組にも出演していた。


エジンバラ・フェスティバルで、写真家のブライアン・グリフィンが行った展覧会「Work」のプレゼンテーションの裏で、アトラクションズが集まって即興で演奏した。
その結果、10インチのレコード・アルバムが本に同梱され、以前の「ソロ」アルバムよりもはるかに情報量の多い作品となった*11


* * *


コレクターズ・アイテム。
www.discogs.com

Improvised live music. The only time the Attractions played live without Elvis Costello.
と書いてある

ある日、デレク・ジョーンズが私の家にやってきて、彼が編集したブルース・リーの戦闘シーンを集めたビデオをもらった。
私がクイーヴァーと一緒にアメリカツアーしていた頃、ブルース・リーエルトン・ジョン以上に急速に人気が出ていたスターだった。
燃えよドラゴン*12』で、ブルース・リーは一瞬にして世界最高のアクションスターとなったのだ。
20年以上経った今でも、初めてジミ・ヘンドリックスジョージ・ベストを見たような感覚だ。
彼は先駆者であり、自分の表現形式で至高の存在である人物である。
私はブルース・リーの生涯と作品について学び、書こうと思った。
教えることがあるからではなく、学ぶことができるからだ。
今ではGoogleや即時に情報を得られる時代だが、当時は本や雑誌、記事を探したり、飛行機や車で移動して人々と話をしたり、コンタクトを取ったり、写真のライブラリを調べたりしなければならない。
最終的に、書籍のための研究には1500以上の情報源が必要となり、ほぼ4年程時間を費やした。

これらの旅行では、ハイウェイ1号線をドライブしたり、ビッグ・サーとカーメルを通ったり、モハーヴェ砂漠を横断したり、古いルート66号線に沿ってドライブしたりする方法を見つけた。
巨大な岩の塔の間を走ったり、ペイントされた砂漠を横切ったり、3つの機関車が1マイルの列車を引いている鉄道の脇を走ったり、と忘れられないドライブがいくつかある。
遠くにはアルバカーキで雷雨が広がっていた。

最終的に、デレクは私と一緒にアメリカへ数回の旅行をし、映画のキャリアをスタートさせるためのコネクションを築いていた。
同時に、デレクは教えることも続けていた。まさにブルース・リー自身がかつて行ったように。

彼の2回目の訪問の終わり、私は彼を空港まで送り、荷物の梱包の手伝いをした。飛行機の離陸までは時間がたっぷりあった。

「私たち二人がぶらぶらしていても意味がないよな」と彼は笑いながら言った。そして、私たちは抱擁を交わし「じゃあな」と言った。

数日後、その年はちょうどブルース・リーの誕生日と重なっていた感謝祭の日、デレクの妻のジュリーから電話があった。
その晩、彼は学校を出て帰宅しようとした時、車が側道から飛び出し、彼のオートバイの前に突然現れた。
彼は即死だった。
まだ34歳だった*13

私はブルース・リーの伝記『Fighting Spirit』を執筆し、デレクに捧げた*14


* * *


ブルース・トーマスはブルース・リーの本の著者でもあり、これはなんと日本語版も出ている。

最寄りのまんだらけに行ったら売ってた。パルコ出版の刊行で、発売時は2500円。まんだらけでは3500円と高値が付いていた。


デレク・ジョーンズはWikipediaには載っていない。しかしおそらくこの人でしょう。
www.youtube.com

ミッチェル・フルームにエルヴィスが新しいアルバムのプロデュースを頼んだとき、ミッチェルは大胆にも、私を含めたアトラクションズ全員がそれに参加すべきだと提案した。
「もしエルヴィス・コステロがあなたにコンタクトを取ってきたらどうする?」とミッチェルは私に尋ねた。
おそらくミッチェルはエルヴィスにも同じ質問をしていたに違いない。


ミッチェルはスザンヌ・ヴェガと結婚し、彼女と一緒にニューヨークに住むためにハリウッド・ヒルズの自宅を売りに出していた。
しかし、ミッチェルはその家が売れるまで、私にその家に住んで、目を光らせることを歓迎してくれた。
私は既にチズウィックの自宅を売却済みで、つい最近「演芸への優れた功績」によりグリーンカードを手に入れたばかり(自分でもつい笑ってしまったが・・)だったので、アメリカに住むつもりだった。


キャニオン・ドライブの家に落ち着くやいなや、時差ボケが治りかけの夜中に、ベッドが弧を描いて部屋を動き回り、周りのものがガタガタと音を立てているのに気づき、目が覚めた。
やがて落ち着いたときにようやく地震*15があったことに気づいた。漆喰はあちこち割れていたが、窓は無事で、ベッドは部屋を一周してほぼ元の位置に戻ることに成功していた。
私は寝返りを打ち、再び眠りについた。
翌朝、隣人たちは私の行動を聞いて愕然としたようだ。すぐに私は地震のマナーを学んだ。
パイプやケーブルの破断による火災や爆発の危険性があり、さらに揺れや余震の可能性もある。
しかし、私は何も知らないでいた。
震源地は20マイルほど離れたノースリッジだが、数マイル南にあったハイウェイ5号線は崩壊していた。


ミッチェルの家に引っ越す前に、彼は私にゴミ出しのタイミングや庭の手入れの必要性、そして誰が何をするために来るかについての説明をしてくれた。
私はニューヨークにいる彼に電話してメッセージを残した。
「ゴミ出し、やったよ。植物に水やり、済ませたよ。あ、そうそう、大地震の場合は何をすればいいんだっけ?」


エルヴィスが私に電話してきた瞬間に、まさに深刻な余震が発生した。
私が電話を取り、数年ぶりに彼と話す瞬間、世界が揺れ動いていた。これは偶然ではなかったに違いない。

付録:セッション期のディスコグラフィーを纏めてみる。が、完璧ではないです。抜粋。

1986

Get Close - The Pretenders

Get Close

Get Close

Amazon

1988

The Madness - The Madness

The Madness

The Madness

Amazon

Workers Playtime - Billy Bragg

Workers Playtime

Workers Playtime

Amazon

1989

Autobiografia - Duncan Dhu

Autobiografia

Autobiografia

Amazon

1990

Here Comes The Groom - John Wesley Harding

1991

The Name Above The Title - John Wesley Harding

1992

Six-Pack Of Love - Peter Case

Six Pack of Love

Six Pack of Love

Amazon

99.9 F°- Suzanne Vega

99.9 F

99.9 F

Amazon

1993

Lament For The Numb - Dave Dobbyn

Lament for the Numb

Lament for the Numb

Amazon

1994

Bloom - Tasmin Archer

Bloom

Bloom

Amazon

1995

Twist - Dave Dobbyn

Twist

Twist

Amazon

1996

Nine Objects Of Desire - Suzanne Vega

1998

Dopamine - Mitchell Froom

Dopamine

Dopamine

Amazon

2001

Mumu - Steve Nieve

Mumu

Mumu

Amazon

*1:仮にこれを盗んでいたら、「Flowers in the Dirt」でヘフナーを弾くことはなかったということだ

*2:切れたギターの弦をステージに残していくのでギタリストという証拠だけは立派なヤツという嫌味を書いた

*3:メアリーとは仲良かったのは意外だ

*4:リチャード・トンプソン https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Thompson_(musician)

*5:スザンヌ・ヴェガ https://en.wikipedia.org/wiki/Suzanne_Vega

*6:トニー・エリオット https://en.wikipedia.org/wiki/Tony_Elliott_(publisher)

*7:https://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Cvitanovich

*8:ジャネット・ストリート=ポーター https://en.wikipedia.org/wiki/Janet_Street-Porter

*9:ドクター・フー https://en.wikipedia.org/wiki/Doctor_Who

*10:ミスター・ロジャーズ・ネイバーフッド https://en.wikipedia.org/wiki/Mister_Rogers%27_Neighborhood

*11:1989年

*12:燃えよドラゴン(1973) https://en.wikipedia.org/wiki/Enter_the_Dragon

*13:1957年うまれなので、無くなったのは1991年11月27日

*14:発売は1994年

*15:ノースリッジ地震 https://en.wikipedia.org/wiki/1994_Northridge_earthquake