俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 26 The Prize...(ザプライズ...)


2003年、ロックの殿堂受賞時の話。

CHAPTER 26 The Prize...(ザプライズ...)

あの時の「いつかまた」は結局、やってきた。

2003年3月、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズは、ニューヨークのウォルドーフ・アストリアのボールルームで再び、同じ時間、同じ場所にいた。


その数週間前、エルヴィスのオフィスを運営しているギルから電話があった。彼女はアトラクションズが米国のロックの殿堂入りに選出されたことを伝えてくれた。
エルヴィス自身はそれを受け入れるつもりはなかったけれども、ボノがエルヴィスを説得した、と彼女は私に話した。
仮にそれを辞退していたとすれば、私には知らされることはなかっただろう。
おそらく、エルヴィスはポップスターになりたかったとは到底思えなかった。
例えば、ロックンロールがガラスケースに収められるべきではない、とか、ジャック・ブラックのような「スクール・オブ・ロック」の教材の一部ではない、という理由で受賞を迷っていたのであれば、私もエルヴィスに同意しただろう。
しかし、いずれにせよ、エルヴィスのソロ、もしくはエルヴィス&彼のアメリカンスムージー、または弦楽四重奏楽団、あるいはどうでもいい口笛アンサンブルではなく、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズが選ばれたことに私は喜んだ。


しかし、電話で話している間、私が関与した場合には、和解はあり得ないことがすぐに明らかになった。
エルヴィスは2度も燃やした橋(Bridge I Burned)を渡ろうとはしなかった!
平和、愛、そして相互理解(Peace, Love & Understanding)は、少なくとも私がベースを弾くことでは得られないのだ。
私はギルに参加するつもりだと伝え、こう言った。
「わかった、それならクリスマスの日に武器を捨てて有刺鉄線と塹壕の間でサッカーの試合をしたドイツ兵とイギリス兵のように、ボクシング・デーにはお互いに狙撃し合おうじゃないか」
そして、可能であれば、円卓には同席せず、必要なタイミングでステージに上がってゴングを鳴らしてくれるだけでいい、と付け加えた。


空港への送迎付きのニューヨーク往復チケット2枚が私宛に送られてきた。
そして3泊のツインルームも予約されていた。
なので、昔のカンフー仲間であるスティーヴ・ジョーンズ*1と一緒に行った。
彼の両親はトロントに住んでいて、ニューヨークに連れて行けば、そこから安いチケットを手に入れて両親を訪ねることができたのだ。
ホテルにチェックインして間もなく、モンシュール・ナイーヴ*2から電話があり、彼のパートナーであるミュリエル*3と一緒にディナーに招待された。
明細が届いたとき、彼は少し驚き、支払いまで少し時間がかかった。。
「君はポップスターだよ」と私は彼に言った。


翌朝、イベントの主催者の一人であるハワード・クレイマーが私を訪ねてきた。
彼は事態がどう進展するかについて少し神経質になっており、特にバンドの私の後任に関しては、私の穏便な行動を懇願してきた。
「彼には家族を養う責任があるんだよ」とハワードは言った。


なるほど!
・・・つまり、ヴィンス・テイラーがブリジット・バルドーを連れてあのクラブに入り、その場にいた全員にシャンパンを奢った時、学費として手元に十分なお金が残ることを計算していたということか?
ジョン・リー・フッカーが父親に「それは彼の中にあるから、それが出てくる」と言ったとき、ブルースを演奏することと見習いの会計士になることをこっそりと天秤にかけていたということか?
そして、レノンが「ギミ・サム・トゥルース」と嘆いたとき、彼は本社に4.2項の早期抵当権抹消の違約金について明確にしてほしいと頼んでいたのか?
ロックンロールは変節していたのである。


その日の午後、私はリハーサルを見るためにボールルームに向かった。自分がそこにいることは想定されていなかったようだが、まあいいだろう。
その場所はあちこちで小さな諍いが起きていた。
同じく殿堂入りしたザ・ポリスがステージ上にいたが、スティングが「それをドラミングと呼ぶのか?私の5歳の娘の方が上手いな」とスチュワート・コープランドに言っていた*4


夜になると、スティーヴ・ジョーンズと私はボールルームの入り口で列に並び、テーブルが割り当てられるのを待っていた。
すると、ある奇妙な見た目の男性が、顔を真っ赤にし息を切らせながら私の肩を軽く叩き、短い賛辞を述べ始めた。
「ああ、あなたのベースライン、素晴らしいよ、うん・・・本当にこの賞に値するよ」
「そうか、ああ、ありがとう」と私は言った。


「・・・おい、今の男、誰だか知らないのか?」と驚いた表情でスティーヴが言った。
「まったく知らない、誰なんだ?」
「あいつがお前の後任のベーシストだぞ」とスティーヴは言った*5


ギルは私の言葉通り、テーブルを分けてくれたので、スティーヴ・ジョーンズと私は他のミュージシャンたちと一緒に席についた。
フロイド・クレイマーエルビス・プレスリーのピアノ奏者で、初期のサン・レコード『Lawdy Miss Clawdy』などに参加)、故ベニー・ベンジャミン(偉大なミスター・ジェームズ・ジェマーソンと共にモータウンのヒット曲に参加したドラマー)、スティーブ・ダグラス(フィル・スペクターの『Wall of Sound』でサックスソリスト)の家族、代理人がいた。
その仲間に入れてもらえたことが、何より嬉しかった。


この日のためにピンストライプのスーツを着てきたザ・クラッシュのメンバーが、受賞のあいさつをするところからこの日のイベントが始まった。
モンティ・パイソンの4人のヨークシャー人が「ここに座ってシャトー・ド・シャスレーを飲んでいる」のと同じように、「イーストエンドの若者がここに立っているなんて、何年か前に想像できただろうか」というのが、彼らの受賞スピーチのすべてだった。


やがて、「私たち」の番がやってきて、ステージの横に移動した。
それは7年ぶりだった。私は皆と握手した。エルヴィスも含めて・・・彼は私の背中を叩いた。
しかし、その和気藹々とした雰囲気は表面的なものであり、休戦以上のものではない。
私たちはエルトン・ジョンから像が贈呈されることになっており、我々のそばに現れた。私は、エルトンと旧知の仲であることを演出するために、彼に他愛もない話を振った。
「覚えているかい?私は1973年のアメリカツアーのサポートバンドのメンバーだったんだよ」と私は言った。
「ああ」と彼は冷たく、無関心な態度で返した。
私は、彼が何十年も前に忘れてしまったいくつかの無意味な話をした。
「そう、あなたはとても寛大で、リンダ・ラヴレースやスティーヴィー・ワンダーと一緒に飛行機に乗せてくれたし、私たち全員にカメラを買ってくれたし、バンドはあなたにエルシーと書かれたバッジをプレゼントしていた」


エルトンがマイクに向かって言った。「アトラクションズについてはあまり知らないので、エルヴィスについてだけ話すつもりだ」と。
私は、彼らが写真にエアブラシをかけるのではないかと疑った。
エルヴィスはエルトンの家で結婚披露宴を開いたり、テレビでインタビューしたりと、この二人のエルはかなり親しい間柄だった。おそらく、この夜の準備の過程で、3番目のエル(the elephant in the room - 見て見ぬふり)が浮かんできたのかもしれない。
私だけを無視するわけにはいかず、アトラクションズ全員を無視しなければならなくなったのだろう。


私が話す順番になったときに、こんな風に返そうと考えた。
「私もあまり知りませんが・・・エルトンについては少し知っています。彼は昔、私のバンドだったヴィレッジのサポートのブルースロジー*6にいた、ちょっとデブでハゲたピアニストだった頃に出会いました」


その後、エルヴィスが「この場は古い諍いを話すつもりはない」とスピーチした。(言い換えれば、「私が言ったことに触れるつもりはない」ということだ)

そして、私のスピーチの番になり、「思い出に感謝します...それだけだ」と自分自身を満足させることにした。

そして、それはここで終わった。


* * *


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全ての表彰が終わると、各バンドが数曲演奏して夜を締めくくった。
「ところで、これはアトラクションズではなく、インポスターズだ」とエルヴィスは小声で言った。おそらく、誰もそれを聞いてないことを期待していたのだろう。


少なくとも彼らは、私が抜けた後、単に新しいベーシストを迎えてアトラクションズというバンド名を使い続けることはしなかった、という好ましいセンスを持っていた。
その点では、AC/DCも同じく殿堂入りしていたが、彼らはかつて長く在籍したベーシストを完全に無視し、存在そのものを消してしまった。
それよりはよほど気品があったと言えるだろう。


インポスターズが演奏を始めると、私は少し悲しさを感じた。
それは(以前誰かが言ったように、私が別の誰かを見ているような感じではなく)私以外の他のメンバーがもはや完全に自分自身ではなくなっているのを見ていたからだ。


私は「ステージ上にスターは一人で十分だ」事件の後、「Deep Dark Truthful Mirror」を演奏のたびに「空はただの紫のアザだった(The sky was just a purple bruise)」という歌詞に到達すると、照明担当者と協力し細い紫色の光線が暗闇を縦に切って私を一瞬だけ照らし、彼を見つめながら勝ち誇った笑顔で立っていたのだ。紫色のブルース。
彼はこのことを知っていたのだろうか。


私の「思い出に感謝します」というコメントは心からのものだった。
というのも、初めに我々がボールルームに座っている間に、大きなスクリーンで私たちの映像のモンタージュが流され、それらが大音量で再生されたからだ。
私は初めて聴衆と一緒に、「Radio, Radio」やその他の曲の断片を聴き、かつて我々が発信したものの力に驚いた。
当時、チャーリー・マレーは次のように書いていた。「他のバンドは自分たちの埃を飲み込むためにスピードを倍増しなければならないだろう」


この夜、認められていたのは、エルヴィス・コステロが率いる4人組バンドの時代であり、どれか一つの要素を取り除くと大きな穴が開いてしまうようなものだ。
それはキース・ムーンのいないザ・フーのようなものだ。スティーヴ・ナイーヴがいなければ、我々は単にホレス・バーロウ・バンドでしかなかった。
"ケミストリー"という言葉は陳腐な表現であり、全体が部分の合計よりも大きいという表現もありきたりだが、しかしそれはいずれも正確な表現だった。
初めに聞いた映像のモンタージュと、現在のインポスターズの音の違い、まあ・・・それはあなたが判断することだ。


ツアー中の最初の数年間、エルヴィスと私は同部屋だった。
エルヴィスは「私たちは実際のところ、一緒に放り出されたようなもので、一緒の部屋を選んだわけではない」と、後に歴史修正主義のドキュメンタリー番組で語っている。
しかし、我々は一時期、本当にいつも一緒にいたのである!
ニュージーランドにバンドの「休暇」に行くとき、我々の間で別々の部屋を使うという考えは一切浮かばず、普段通り同部屋だった。
ツアー中、エルヴィスと私は時折、60マイル先にあった決まったレストランまでタクシーに乗って行き、ほとんどの場合、一緒にランチを取っていた。

アムステルダムでのランチを思い出すことがある。エルヴィスが61年のオー・ブリオンを注文してくれて、私たちは新しいジェレミーベンサムが必要なのか、新しいウィリアム・ブレイクが必要なのかを議論したのだ。
・・・もう一つの陳腐な表現は、そうしたことは一般的に一方通行であるということだ。


ティーヴ・ジョーンズはテーブルから私の「オスカー」を取り上げて笑い出した。
「なんだ?どうしたんだ?」と私は聞いた。
「これ見てみろよ?」と彼が答えた。
彼は小さな金属のプラークを指した。
エルトンが適当に配っていたため、エルヴィスの名前のついたものが私の手元にある、そしておそらくエルヴィスは私の名前のものが手元にあるのだろう。
私はそれを持ってギルを探し、彼女に説明した。
「彼の賞を私が持っているということは、つまり彼が私のを持っているはずだろう?取り替えてもらえるかな?」
「ええ、それはわかってるんだけど・・・」とギルが言った。「だけど、それはそんなに簡単なことじゃないの・・・」
彼女は諦めたような態度と恥ずかしそうな表情をしていた。
「それ以上は聞かないでくれ」と言わんばかりの顔で、「だって何が起こったかは想像できるでしょう?」

私は自分の「オスカー」が床に散らばり粉々になっているのではないかと思った。
エルヴィスがそれを受け取った瞬間、私の名前を見てしまい、壊してしまったのだと思う。
そして私は結局、それを手に入れることはできなかった。


* * *


会場が静まり返ると、かつて我々と契約し、代理人を務めたレコード会社の重役たちが、過去の付き合いを思い出し集まってくれたので、挨拶をした。
そして、その場に座って、お金では決して買えないようなパフォーマンスをいくつか思い出した。


我々はシカゴの野外で午後のショーを行っていた。私たちとブロンディの間で誰がクロージングを務めるかについて混乱があった。
我々は、ブロンディのドラマー、クレム・バークはいつもとても友好的で、彼らとは仲が良かった。だから論争はなかった。最終的にはブロンディがトップを務めることが確定した。
その後の我々の行動は、誰かが「さあ、仲間たち」と言っただけで、それ以上話し合われることはなかった。
セットリストは破り捨てられ、新しいものが書き直された。
レノンのロックンロールカバー曲、「Slow Down」と「Slipping and Sliding」で始まり、それから私たちが知っている他の痛快な曲が続いた。
我々は使命感を持っていた。セット後、ブロンディーの一部のメンバーがステージの脇にいた。
「君たちこんな感じで演奏するのは初めて見たよ」とクレムが言った。
その時、"これに続け"と思ったのは私だけじゃなかったのだ。

ノルウェーでのある夜、バンドは同じ神経を刺激した。
セットが進むにつれ、最前列にいた女の子たちは音楽に引き込まれ、もはや音楽に合わせて動くことができず、互いに服を脱ぎ始めるようになった。
私たちがステージを去るとき、何年も何年も私たちと一緒にいるベテランのクルーたちは、文字通り敬意を表して頭を下げた。
彼らもまた、このようなセットを目の当たりにしたことがなかったのだ。


レコーディングスタジオでは、まったく異なる感覚が生まれた。
我々は「Shipbuilding」をレコーディングしたが、その日はジャズ・トランペットの伝説であるチェット・ベイカーがバンドに加わった。
若い頃、チェット・ベイカーはクールでハンサムな男性で、本物のスターだった。
しかし、年月が経つにつれて悪い習慣が彼に影響を及ぼし、かつての姿を失ってしまった。
スタジオに彼を連れてくるだけでもかなりの難しさがあったのだ。彼が体調や心の状態を整えて私たちと一緒にパートを録音するのに苦労したが、最終的には成功した。

我々は小さなジャズコンボのようにセットアップしたが、チェットにとっては純粋なジャズではない曲に苦労していたのだ。
しかし、最終的に彼は自分の場所を見つけた。
ピアノソロの中に、私が簡単な下降ラインを演奏し、そのステップごとに彼のトランペットパートが非常にシンプルかつ密接に追随する箇所があり、これはレコードにも収められている。
それが生演奏で演奏されたとき、私は震えたのだ。彼がどれだけ注意深く聴いて相互作用を望んでいるかを感じることができたからだ。
どうしてこんなに美しい音楽が、こんなに傷ついた人物から生まれるのだろうか?
それは、私たちが絶対に持つことのできない無数の会話よりも多くを語っていたのだ。


* * *


翌朝、スティーブ・ジョーンズと私はタクシーでグラウンド・ゼロに向かった。9.11からわずか18ヶ月しか経っていなかった。
公になっているストーリーの解釈を受け入れるかどうかは別の問題として、敬意を払いに行かないわけにはいかないだろう。
タクシーは現場のすぐそばまで連れて行ってくれなかった。その代わりに、少し離れた教会で降ろされ、目の前の嵐に踏み込む前に、感情的な重みを感じることができた。
私たちは発見された物品や亡くなった人々への追悼リストの間を静かに歩いた。それは広島で溶けた時計の中を歩いた日と同じような感覚だった。
我々は教会を出て、かつてツインタワーが立っていた場所の四方を歩いた。
我々は一言も話さなかった。何かを言う必要も、言うこともなかった。
数ブロック離れ、ホテルに戻るためにタクシーを探し始めるまで、私は正しく息を吸うことができなかった。
前の夜の出来事の後、朝はすべてを適切な視点で見ることができた。
なぜなら、9.11の朝には、壊れた像以上の被害があり、失われたものは元の友情以上だったからだ。
・・・そして、空は「紫のアザ」よりもずっと暗かったのである。

ブログ主コメント:

「Peace, Love & Understanding」はコステロとブルースの間には適用されない、という話があったので昨今の風潮について少し思うところを書いておきたい。

エルヴィス・コステロ自伝、そしてこのブルース・トーマス自伝を読んだならば(そして読まなくてもだいたい分かっていたことだが)、「Shipbuilding」の歌詞を書き、ニック・ロウの「Peace, Love & Understanding」を歌い継ぐコステロは決して無謬の人ではない。
酒場の痴話喧嘩とはいえ余計な一言を言ってしまったことは事実だし、バンド内メンバーへの揉め事、ドラッグ、ビュエルとの不倫関係、その頃の歌詞が不倫がテーマばかりだった、別れた不倫相手にボロクソに行ったり、プロデュースしていたバンドの女性に手を出して脱退させたり、自伝なのにフィクションを挿入したりなど、いろいろ突っ込みたいところがあり、決して聖人などではない。

そして、この本の著者ブルース・トーマスだってまったく無謬ではない。ケイトへの余計な一言でわざわざ火種を作る必要もないし、チャプター11を使ってコステロを告訴するまでしなくて良かったはず。

だけど、こういう話はとても人間くさいし、とてもリアルだと思ってしまった。人間ってこういうものでしょう?

近年、「Peace, Love & Understanding」をテーマに美談にしたて、コステロを過度に持ち上げるような意見も散見されるが、個人的にはそんなものはやめてほしいと思っている。

そうやって過度に持ち上げた挙げ句、自分たちの理想と違ったらどうなってしまうのか?今はSNSで必要以上に増幅されバッシングの対象となり、それまで数曲しか聴いたことがないようなキャリアだけが長い「昔からのファン」が「もう聴きません」とか言い出して、キャンセルカルチャーの対象になる。

こっちはそんなことは全部理解した上で、コステロの曲とアトラクションズのプレイを楽しんでいるのである。

私の場合、こういう自伝を読んだあとに、「幻滅した、もう聴かない!」なんてことには全くならず、それはそれ、これはこれ、という態度で聴いている。「Accidents Will Happen」がビュエルとのことを歌った歌だと分かったところで、名曲かつ名演であることに変わりはないし、「Oliver's Amry」が近年PCで問題になっていようがいまいが、私にとっては全く関係なく、これも名曲かつ名演なのである。

*1:ティーヴ・ジョーンズ https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Jones_(musician)

*2:ティーヴ・ナイーヴのこと

*3:ミュリエル スティーヴ・ナイーヴの結婚相手 https://en.wikipedia.org/wiki/Muriel_T%C3%A9odori

*4:ポリスもめちゃくちゃ仲悪い

*5:ディヴィ・ファラガー https://en.wikipedia.org/wiki/Davey_Faragher

*6:ブルースロジー(1962-1969) https://british-rock.salmon-news.com/top/group-b/bluesology/