俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

スティーヴィー・サラス自伝 序章

自伝感想シリーズ、今回はスティーヴィー・サラスです。

ただ、私はこの人のファンでありながらあまりバイオを知らなかった、
いや、全く知らないわけじゃなく、なんとなくしか知らなかった。

ということで、自伝感想編に入る前に、かつて発表されていたライナーノーツを転載してみることにする。


まずは1996年に発売された2枚組のANTHOLOGY OF STEVIE SALAS COLORCODEのライナーノーツ。
執筆は川合純行氏によるもの。


スティーヴィー・サラスが、衝撃的なデビューを果たしたのが'90年。あれからすでに6年の歳月が流れている。その間、様々なプロジェクトで毎年のようにアルバムをリリースし、彼の凄まじい創作意欲と才能にはいつも驚かされ続けているわけだが、デビュー・アルバムをリリースした後、アメリカではメジャー・レーベルから離れて日本を軸に活動をしていることもあって、特に日本では彼に特別な思いを寄せている日本のファンも多いだろう。


そんなスティーヴィー・サラスの数多い作品をひとまとめにしたアルバム「ANTHOLOGY OF STEVIE SALAS COLORCODE 1987-1994」が完成した。中身はデビュ一作から「BACK FROM THE LIVING」までのベスト選曲と、未発表曲を集めたというもので、まさにファン待望の作品集になるのだが、アルバムについて触れる前にスティーヴィーのこれまでの活動歴を紹介してみたいと思う。

カリフォルニア州のサンディエゴで生まれたスティーヴィーは、小学生の頃からBLACK SABBATH、KISS、MONTROSEなどを聴くようになり、15歳の時にギターを手にしてからは、VAN HALEN、RUSH、UFO、AEROSMITHといったパンドをコピーするようになる。その後、楽器屋で働きながらTHE KIDS*1というバンドを結成すると、地元サンディエゴではかなりの人気を獲得するようになり、インディから2枚のアルバムをリリースするなど、その頃からすでにミュージシャンとしての素質が開花し始めていたのである。


このアルバム制作で自身を付けたスティーヴィーは、’85年に本格的な音楽活動をするためにLAに移ることを決める。そして、LAで知り合ったドラマーのウインストン・ワトソンらとパンドを結成するが、いいシンガーがいなかったこともあって、活動はなかなか思うようにはいかなかった。しかし、そんなある日、寝泊まりしていたスタジオでP-FUNKジョージ・クリントン出会ったことで、彼に1つの転機が訪れることなる。ジョージに気に入られた彼は、ジョージの「R&B SKELTONS IN THE CLOSET*2」の"Electric Pygmies"に参加することになったのである。こうしてプロのギタリストとしての第一歩を踏み出すと、アルバイトでTV番組*3のエキストラをやっていた時に知り合ったプロデューサーのデイヴィッド・カーシェンバウムと一緒に仕事もするようになり、イギリスとLAを行ったり来たりしながら、プロデューサーやギタリストとして腕を磨き、彼の名前は徐々に知られていったのである。


スタジオ・ワークを精力的にこなす一方で、トーマス・ドルビーやアンディ・テイラー*4のツアー・ギタリストとして誘われるようになった彼だったが(両方とも結局実現していない)、自分の音楽をプレイすることも決して忘れることはなかった。プロデュースの仕事で親しくなった「Electra」レコードにあくまで自分のバンドで活動することが目標だと伝えると、彼らは早速協力すると言い出し、スティーヴィーは再びウィンストン・ワトソンを誘い、彼と一緒にプレイしていたベーシストのC.J.デヴィラと共にデモ・テープを制作を開始したのである。そして、それが「Electra」のASRであるスティーヴ・プロスに気に入られ、一度は契約前までいったのだが、突然スティーヴ・プロスが会社を去ることになり、せっかくの契約の話も白紙に戻り、スティーヴィーはセッション・ワークへ戻らざるを得なくなったのであった。


しかし、女神はスティーヴィーを見離さなかった。WAS(NOT WAS)の「WHAT PU DOG?*5」のプロデュースをこなし、ロッド・スチュワートのツアー・ギタリストとしてスタジアム級のスターを行なっているスティーヴィーのところへ・スティーヴ・プロスから「Island」レコードで働くことになったという連絡が入る。ロッドと一緒に10万人の前でプレイするのも楽しかったが、自分のアルバムを作るべきだと判断し、彼は「Island」と契約を獲得したのである。


'90年初頭、デビュー・アルバム「STEVIE SALAS COLORCODE」はリリースされた。"ジミ・ヘンドリックスの再来”と言われるほど、スティーヴィーのデビューは大きな話題となり、ジョー・サトリアーニとの全米ツアー、そして、同年6月には早くも日本公演を行なうなど順調な滑り出しを見せた彼らだったが、またもや彼らには不運が待っていた。'91年初めに「Island」が「PolyGram」に買収されるなどのゴタゴタがあり、「Island」を切られるという予想だにしなかった事態が起こったのである。このため 2ndアルバムの予定は立たなくなってしまったのだが、日本では、'91年6月にミニ・アルバムの「STUFF」がリリースされ、10月には「楽器フェア」での来日と大阪・名古屋・市川でライヴ(市川の「クラブGIO」で行なわれたライヴの一部は、「BOOTLEG LIKE A MUG!! LIVE IN JAPAN」というアルバムになって、'92年7月にリリースされた)を行なうといった活動をし、スティーヴィーは自らの存在を大きくアピールしたのだった。


この日本でのライヴを最後にCOLORCODEを解散させると、スティーヴィーは、1つの枠から開放されたかのように様々なプロジェクトをスタートさせる。P-FUNKブーツィ・コリンズ(b)と元ジミ・ヘンドリックスのBAND OF GYPSYSのメンバーだったバディ・マイルズと結成したTHIRD EYEで、アルバム「HARDWARE」('92年)を発表、'93年には、女性シンガーのサス・ジョーダンのバンドのギタリスト、テレンス・トレント・ダービーのツアー・ギタリストとして活動し、さらにリッチー・コッツェンザック・ワイルド等の友達を集めてアルバム「STEVIE SALAS PRESENTS:THE ELECTRIC POW WOW」を制作したのである。そして、94年にCOLORCODE名義での久しぶりの作品となった「BACK FROM THE LIVING」をリリースし、同年の10月には来日公演も実現させている。


以上、スティーヴィーの'94年までの活動を追ってみたが、今回のアルバムは、こういったスティーヴィーの波乱に富んだ活動歴の集大成と言えるものである。中には貴重なテイクもかなり収録されているので、それぞれの曲について簡単に解説していくことにしょう。


(中略)


以上、2枚のディスクに分けて32曲も収録されているわけだが、こうして改めて彼の代表曲を聴いてみると、いかけだが*6、こうして改めて彼の代表曲を聴いてみると、いかに彼がギタリスト、シンガー、コンポーザー、プロデューサー、パフォーマーのすべてにおいて天才的な能力を持っているかがわかる。どの時代の作品でも、決して褪せることのないエネルギーを含んでおり、彼ほど心と体の両方に訴えるような音楽を創作し、プレイできるミュージシャンはいないだろうと言いたくなる。そういったことからも、この彼のあらゆる魅力を収めたこの「ANTHOLOGY OF STEVIE SALAS COLORCODE 1987-1994」は、スティーヴィーをよく知っている人はもちろんのこと、これから好きになろうという人にも彼の凄さを伝える価値のある作品として、今後長い間、多くの人に愛されることは間違いないだろう。


尚、'95年以降のスティーヴィーは、「STEVIE SALAS PRESENTS:THE ELECTRIC POW WOW」や、THE ROLLING STONESのツアーに参加したり、ミック・ジャーガー*7キース・リチャーズのソロでも歌った経験もあるバーナード・ファウラーと、NICKLEBAGというプロジェクトで「12 HITS AND BUMP」('95年)をリリースし、同年10月にはNICKLEBAGで来日公演も敢行。そして、1996年にはCOLORCODE名義で「ALTER NATIVE」をリリースしており、相変らず多忙な毎日を送っているのである。


1996.6.16. 川合純行 Jun Kawal(guitar)


続いて、それから10年後の2006年にリリースされた「The Essential Stevie Salas Volume 1」のライナーノーツから。
こちらはスティーヴィー・サラス本人による執筆。


メジャー・レーベルから初めてCD/アルバム(うん、アルバムさ)を出してから15年経った2005年に、リマスターした楽曲を集めたベスト盤の選曲をして欲しいと頼まれた。15年間のうちに19枚以上の作品をリリースしてきて、その中には俺のお気に入りの曲っていうのはあるけど、それらは必ずしもファンのお気に入りと同じじゃない。そこでネットを通してファンの意見を訊く事にしたんだ。世界にはあらゆるスタイルの音楽が存在するし、流行も様々だ。そんな中、これだけのファンが世界中にいるなんて本当に俺は恵まれているってわかっているよ。ギター・キッズが好きな曲と、ファンク・キッズが好きな曲と、オルタナティヴ・キッズが好きな曲はどれも違う。でも全てのファンに共通しているのは、みんなが俺の事を信じてくれているってことかな??俺が自分のサウンドを信じている以上に彼らは俺をサポートしてくれているんだ。選曲するにあたって、このミュージック・ビジネスでの俺のキャリアについて振り返ってみた。100万枚以上のCDを売り、20年近くこの世界で生き延びている俺のキャリアを成功と呼ぶ奴もいれば、焦点が定まっていなくて意味ないものだと言う連中もいる。何故なら所詮この世界ではアートより金儲けが先に来るし、アーティストは同じような曲を何度も何度も作る事を要求される訳だからね(何もColorcodeのバラードがそうだって意味じゃないけど)。この世界ではアーティスト育成という言葉はタブー。それが何を意味するのか俺には理解出来ないけど、俺は常に「この次に大ブレイクするアーティストだ」と騒がれ続けてきたから、それが実現しなかったのは恥であると言う奴もいる。だからこの機会にスタート地点に戻ってどのような理由で、そして誰のおかげで今の自分がいるか振り返ってみたかったんだ。成功なのか失敗なのか、見方によって違う俺のキャリアをここまで築き上げてくれたのは、世界中の素晴らしいファンとその他に誰がいるのか考えてみる事にしたんだ。


まず礼を言いたいのはサンディエゴ高校のパンド「This Kids」。あれが全ての始まりさ。初めて俺達の曲がラジオで流れた時の事を今も覚えているし、5,000人の観客を前にステージに立って、彼らの叫び声を体で受け止めた時の気分は…最高だったね!! そして「彼こそがロック・スターだ!!!」と俺を唸らせたドラマー Winston A Watson Jr。1985年、俺は「This Kids」を辞めてWinstonがヤク中の女の子と住んでいた家のクローゼットに引っ越したんだ。彼女の父親は金持ちで、ジャムする部屋までそこにはあった。典型的なロスの夢物語だろう。でももっと凄い事になったんだ。


PlimsoulsのDavid Pahoaと (クローゼットがら追い出された8ヶ月後に)俺が寝泊まりした今は亡きハリウッドのBaby Oスタジオにも感謝の気持ちを伝えたい。本当にありがとう!ここで俺はGeorge Clintonと出会ったんだ!ある晩、深夜3時に起こされて、「SKELETONS IN THE CLOSET」というR&Bアルバムで弾いて欲しいと声を掛けられたんだ。そこから俺のミュージック・ビジネスの人生がスタートしたんだよ!


そしてホームレス状態でスタジオに寝泊まりしていた俺をビヴァリーヒルズの豪華なゲスト・ハウスに住ませてくれたTerry Kostaと娘のNikka (ああ、あの凄いシンガー)に感謝。当時コロンビア・レコードのA&R部門の副社長だったJamie Cohenにも感謝。俺の才能を信じてくれて、Bootsy Collinsと当時はまだ名が知られていなかったWas (Not Was)のDon Wasに紹介してくれてありがとう。彼らは僕のキャリアに大きな意味を持つ人々だ。スーパー・プロデューサーであるDavid Kershenbaumに紹介してくれたMark Leviに感謝。彼は俺をStudio Powertraxのスタッフ・プロデューサ一として起用してくれて、ちょっと風変わりな映画「BILL AND TED'S EXCELLENT ADVENTURE」の曲を手がけさせてくれた。


1987年にソロ・バンドから俺をクビにしてくれたDuran DuranAndy Taylorに感謝。何故彼に感謝するかって?だって凄く頭にきて絶対に成功してやるって心に誓ったからさ。(あのクソ野郎!!)そしてクビになった同じ週に電話が鳴り、ロンドンのAcid Houseのプロデューサ一のZeoと一緒に無名の若きシンガー、Terrance Trent D'arbyのアルバムを手掛ける話がきたんだ。初めての育成契約を結んでくれたロンドンのElektra RecordsのA&RだったMitchell Krasnowに感謝。これによってとても需要な人物であるA&RのSteve Prossと知り合ったんだ。彼はIsland Recordsとの契約を決め、最初のStevie Salas Colorcodeアルバムを作るのを手助けしてくれただけでなく、今も俺の良き友人であり相談相手さ。そして俺の初めてのビッグ・ボスであるRod Stewartを忘れる事は出来ない。(Carmine Rojasのおかげで)1988年の彼のツアーで俺はリード・ギターを担当させてもらえたし、プライベート・ジェットで世界を飛び回る生き方も垣間見る事が出来たんだ!!それ以上にRodのおかげで俺にとって最愛な存在であり、多くの曲のインスピレーションとなったTonjua Twistと出会う事が出来たんだ。4万ドルのSimple Mindsの仕事を蹴って4千ドルのColorcodeの仕事を引き受けてくれ、そしてBernard Fowlerに引き合わせてくれたBill Laswelllも感謝。Morty WiggansとBill Graham。俺のマネージメントを引き受け、ビジネスのいろはを教えてくれてありがとう。そして1990年の最初のソロ・ツアーをJoe Satrianiのサポート・ツアーとしてブッキングしてくれてありがとう。Joe、ギタリストとしての俺の名前を広めてくれてありがとう。1995年に俺の最初のレコード・レーベルを日本に立ち上げてくれて、クリエイティブ面と金銭面で自由を与えてくれたRoger Stienに感謝。2001年に燃え尽き、インスピレーションも何もなくなってしまっていた俺を発見してくれたMick Jaggerに感謝。彼はロックとは何かというのを改めて教えてくれたんだ。


もしかしたら俺のキャリアは真のサクセス・ストーリーとは言えないのかもしれない。何故ってビッグ・ヒットがある訳じゃないからね。でも俺は世界のトップに立つ数多くのミュージシャンと一緒に仕事をし、ニューヨークのMadison Square Gardensからアフリカの小さなクラプまで、数多くの素晴らしい会場でライヴをやってきた。カナダでは500.000人の前で演奏するという記録まで保持しているんだ。だから文句なんて言えないけど…文句は言い続けてしまう。何故ならビジネスが音楽を蝕んでいるから。アートっていうのは計画を立てて作るものじゃないんだ。ビジネスとアートのバランスが崩れたら、未来のロック・スターはDJだけになってしまうんじゃなかと不安になるよ。とにかく俺を奮い立たせてくれる友人、ファン、そして敵に感謝の気持ちを伝えたいね。


スティーヴィー・サラス

*1:THIS KID'S の間違い、UFOの曲名から拝借したバンド名とのこと

*2:SKELETONS のtypo

*3:フェームのこと

*4:デュラン・デュラン

*5:WHAT UP DOG?のtypo

*6:誤植だろうか?

*7:普通はミック・ジャガーと書くかな?