俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 17 A Quasi-Resolution(擬似的な解決)


1983年「Punch The Clock」の頃。

CHAPTER 17 A Quasi-Resolution(擬似的な解決)

「Imperial Bedroom」は高い評価を得たが、売上はそれに及ばなかった。
技術革新と音楽評論家からの評価はもはやプライオリティ的に高いものではなく、とにかく次のヒットが必要だった。


「トイレツアー」のサポートバンドは、クライヴ・ランガー*1&ボクシズだった。
それ以来、クライヴと彼のエンジニアであるアラン・ウィンスタンリー*2は、マッドネス*3やデキシー・ミッドナイト・ランナー*4のヒットを手がけ、ポップ・プロデューサーとして時の人になっていた。
そこで、クライヴとアランを迎え、デキシー・ミッドナイト・ランナーズのホーン・セクションとアフロディジアック(後のソウル・トゥ・ソウル)というバンドの3人の黒人女性バック・ボーカリストとともに、1983年にシェパートン・フィルム・スタジオでのリハーサルとAIRロンドンでの録音を開始することになった。


しかし、最初の問題は、家庭内の争いを歌った曲が多すぎると、クライヴがエルヴィスにもっと明るい曲を書くように迫ったことだった。
彼はすぐに「Love Went Mad」、「The Greatest Thing」、「Let Them All Talk」、「The Element Within Her(...すぐにアトラクションズが「a elephant for dinner」と改名した)」などの曲で応えた。


アレンジされた譜面にはホーン・セクションが書き込まれているため、いつものような小節のカット、変更、インプロヴィゼーションなどはできず、曲は予め決められた構造に固定されることになった。
クライヴとアランのレコード・プロダクションの手法も同様で、それらにはしばしば特有のぎこちなさが存在していた。
彼らはいくつかの楽器を電子的に同期させて、すべてをキッチリ整然と保っていた。
彼らはバンドサウンドには興味がなく、バンドとして録音することさえせず、私たちの貢献をただの建築ブロックとして使用することにのみに興味があった。
これによる唯一の利点は、エルヴィスによる困難で激しい創造プロセスに付き合う必要がなかったことだ。
エルヴィス自身も要求されたことをやるだけでよかった。


このアルバムで最も優れた曲は「Shipbuilding」である。
この曲は、父親からの視点から描かれ、父親が携わった船に乗った息子が戦死してしまうという内容だ。
これはフォークランド紛争についての個人的かつ心からの洞察であり、おそらくエルヴィスが書いた中で最高の曲だが、実際にはクライブの書いたコードにエルヴィスの歌詞が載っているという曲だ。


私自身の印象的といえる貢献は「Everyday I Write the Book」だったが、それがすべての人にとってもそうであったわけではなかったようだ。
トラックのレコーディングが終わった後、コントロールルームに戻ったが、誰の招待もなく予告なしに、デイヴ・'ミュージシャンは浜辺の小石'・ロビンソンが現れた。


「これは悪いトラックではないけど、ベースラインが何かおかしいな」と、ロビンソンは頼んでもいない批評をしてきたのだ。
「そうか?どんな風におかしいんだ?」と私は言った。
「この曲には合ってない、全然合ってない」


後日、ベース・プレイヤー誌上で、親切で造詣の深い人が私の演奏を分析し、別の視点を提示してくれた。


ブルース・トーマスが弾くベースラインは、コード、メロディ、歌詞に完璧にフィットする味わい深いメロディックなパートがあり、コステロの曲を常に新しいレベルへと導いてくれている。
ハイライトは「Everyday I Write the Book」だろう。
遊び心のあるシンコペーション、コード、フィーリング・チェンジ、スライドに満ちた彼のパートは、丁寧なサポートと既成概念にとらわれない創造性の境界線を見事に乗り越えている。
実際、曲全体を豊かにしながら強い音楽的主張をする方法を知りたければ、この曲を最初から最後まで通して、すべての音とニュアンスを学ぶのが良い方法だろう。

以下、技術的なことが数段落続く。


27小節目、彼は実に奇妙なことをやってのける。
「1」のコードの上で、彼は一瞬「4」まで旅をするのだ。
なぜかというと、その瞬間、コステロのボーカルが同じ音に乗り、2つのパートが一瞬噛み合うことで、コードの外側という最も期待できない場所に擬似的な解決をもたらすのだ。
これは、曲の全パートのハーモニーとメロディーを十分に意識することの重要性を示すものである。

(ビリー・シェリルなら銃爪を引いていたかもしれない・・・)


このベースラインが耳に染み付いた後に、もう一度、ルート音だけで曲を弾いてみてほしい。かなり違うと思う。
新鮮でエキサイティングな曲が突然、物足りなく一面的なものになるのだ。ベースラインは名人の手にかかると、こんなにも大きな力を発揮するのである。


私のうぬぼれと甘えをお詫びしたい。
しかし、もしデイヴ自身の特別な才能に特化した雑誌があったなら、『ゴブシャイト*5』で同じような称賛を浴びていたかもしれない、ということを(もし必要なら)証明するものだ。



8月の初め、私たちは7週間の「Clocking Across America」ツアーに出発した。
TKOホーンズ(と、彼らは呼ばれていた)は、私たちと同じホテルに泊まるか、ホリデー・インに泊まって差額を現金で受け取るかの選択ができた。
そのため、彼らはホリデー・インに泊まり、差額を現金で受け取るという選択をした。それによって、少なくとも私たちの手を一時、離れていた。


しかし、私たちがやろうとしたことを達成し、ヒットを出し、さらにアルバムがゴールドになる寸前のところで、エルヴィスはこのアルバムを、心も情熱も魅力もない、光沢のある反射はその時代の音に過ぎない、と非難していた*6


この頃、ヨーコ・オノは彼女自身の曲からなるジョンの追悼アルバムを制作しており、私たちは1曲を提供するように依頼された。
9月初めにニューオーリンズに着いた時、私たちはプロデューサーのアラン・トゥーサンと一緒にスタジオに入った。
彼は「Working in a Coal Mine」や「Ride Your Pony」など、リー・ドーシーのすべてをプロデュースした人物だった。
私はニューオーリンズが好きだった。それはアメリカで最も特徴のある街であり、最高の食べ物と最高の建築があり、アメリカという国はその街の存在により優れていたと言っても良い。


もし、ジェームズ・ジェマーソンとモータウン・バンドがデトロイトサウンドで、ドナルド・ダック・ダンとスタックス・バンドがメンフィスのサウンドであるならば、ニューオーリンズサウンドはザ・ミーターズである。
ザ・ミーターズのベーシスト、ジョージ・ポーター Jr. の整然としたタイトでファンキーな演奏は、私がちょうど模倣しようとしていたものだった。
我々が選んだ曲は「Walking On Thin Ice」で、それをニューオーリンズのグルーヴに再構築した。
ニューオーリンズサウンドは、私の中では常にラテン系のフレーバーがあると思っているが、それをアレンジしてみたのだ。
洒落の機会を逃すまいと、私はスライドを効かせた2小節のリフを演奏した。
そのトラックはうまくいった。
サンフランシスコに着くと、ヨーコのホテルで一緒に飲もうということになった。


クリフトホテルのペントハウスは、暗いレッドウッドのパネルで覆われていた。
控えめな照明、厚いカーペット、控えめな家具が上品な贅沢感を演出していた。
低いテーブルとアームチェアは、選りすぐりの寿司が並べられたテーブルを囲むように親しげに配置され、シャンパングラスは横に置かれていた。
私が流暢に話せる日本語は、寿司に関するものだけだった。
それでも、ヨーコの隣のソファに座って、俳句の話をするまでに時間はかからなかった。
俳句は短い句に豊かな意味が込められている。
だが前衛的な彼女にとっては、風船とピンを持って梯子に登り、「トップ・オブ・ザ・ポップス」と叫ぶ方がいいのだろう。


私はかつて一行で物語を語るという驚くべき俳句を読んだことがある。
その裸足の詩人は、ある物を踏みつけて気づいたのだ。
「私の踵の下に、亡くなった妻の櫛がある*7」と。
しかし、私たちの出会いの状況を考えると、それを持ち出すことは不適切だろう。


ヨーコは横にあるバッグの中に手を入れ、杉で出来た箱を取り出した。
これは彼女がエルヴィスにお土産のお礼として渡す予定だったものだ。それは簡素さと控えめなエレガンスを備えていた。手に持つのが心地よかった。

彼女は説明してくれた。「これはジョンのお気に入りの木から作られたもので、3つしかないのよ」
私は思わず考えてしまった。彼女がこれらの箱をいくつ作ったかによって、今はもう2つしか残っていないかもしれない。


その間、ジョンとヨーコの息子である若いショーンは、ピート・トーマスと一緒に遊んでいた。
彼らは少し荒っぽい遊びをしていた。「男の子は男の子らしく」というような遊びだ。するとピートが冗談で「窓から君を投げ出すぞ!」と言った。
彼の言葉が口から出た瞬間、イヤーピースをつけ不気味に膨らんだ黒いスーツを着た4人のセキュリティの男たちが、部屋の隅にから急に飛び込んできた。
その種のことで冗談を言うわけにはいかないことが明らかになった。
そして、その理由も理解できる。


* * *


その後、通例どおりイギリスとヨーロッパを巡るツアーが続いた。
チューリッヒでは、悲しい知らせが入った。バーニー・バブルス*8がひどい鬱病の発作により亡くなったというものだった。


しかし、このニュースにも関わらず、まるでバーニーが最後に笑いを取りに行っているかのようだった。
なぜなら、ツアーパーティ全員がホテルのロビーに座り、笑いを抑えようとしていたからだ。
フロントデスクの男性はバジル・フォルティ*9にそっくりで、まるでジョン・クリーズ本人が隠しカメラの仕掛けをやっているかのようだった。
誰も何も言わず、ただ次にチェックアウトする人の反応を見るのを待っていた。人々は哀れな男性を一目見て爆笑してしまった。
彼は、当然ながら無表情であった。


我々がアメリカから持ち込み、カスタムしたシルバーイーグルバスは、ライバルのバス会社によるしつこい妨害行為により、アメリカに返されてしまった。
そのため我々は、ホーンセクションと3人のバッキングシンガーと一緒に、南エンドやイーストボーンへの日帰りツアーを行うような普通のバスに乗っていた。
ヒーターが動作しておらず、11月のアルプスを通るときはとても寒くなるだろう。


ウィーンからベルリンまでの長い運転の見通しの中、突然、エルヴィスが「重要な商談」があるから我々とは別に後から飛行機で行く、ということを思いついた。
この発言を受けて発生した文句や罵声が、バスの中の温度を数度上げていた。

*1:クライヴ・ランガーhttps://en.wikipedia.org/wiki/Clive_Langer

*2:アラン・ウィンスタンリー https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Winstanley

*3:マッドネス https://en.wikipedia.org/wiki/Madness_(band)

*4:デキシー・ミッドナイト・ランナーhttps://en.wikipedia.org/wiki/Dexys_Midnight_Runners

*5:アイルランドの俗語で「ばか」とか「あほ」の意味

*6:発売後すぐに批判していたとは驚き。もっと後年に批判したかと思っていた

*7:おそらく、与謝蕪村の「身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む」のことだろう

*8:バーニー・バブルス https://en.wikipedia.org/wiki/Barney_Bubbles

*9:フォルティ・タワーズ https://en.m.wikipedia.org/wiki/Fawlty_Towers