俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 18 On the Bench(ベンチ待機)


1984〜1985年、「Goodbye Cruel World」〜「King of America」の頃。
「King of America」の記述が少ないが1曲しか参加していないので当たり前か。

CHAPTER 18 On the Bench(ベンチ待機)

写真家のブライアン・グリフィン*1は、創造プロセスについて素晴らしい言葉を述べていた。
ある人が「1枚の写真に1000ポンドもするのか?それを撮るためだけに一体どれくらいの時間がかかってるんだ?」と彼に抗議したとき、こう答えた。
「ええと...約37年と1/500秒ですね」
ブライアンは、軍の写真を撮るだけでなく、大手企業の重役の斬新な肖像写真でその名を知られるようになっていた。
1984年の初め、彼は我々は一緒にフランスを回る短いツアーに参加し、その頃取り組んでいたニューアルバムのジャケットに掲載される写真を撮影した。


次のアルバムの曲のデモは録音されていなかった。そこである日の午後、エルヴィスは私の家にやってきて演奏して歌い、私がコード譜を書き留めた。
彼は抑えることなく歌った。「Home Truth」を熱唱する彼の声に合わせ、水槽があふれ、本が棚から転げ落ち、軽い石膏の粉が舞った。
どこで喧嘩しているのかと近所の人々が通りまで出て見にきていた。


最初にバンドが始まった頃は、エルヴィスとメアリーが喧嘩した後、時々エルヴィスが私のシェパーズ・ブッシュの家を避難所として使っていた*2
ただし、何度かは私自身が原因で喧嘩を引き起こしてしまっていた。
「台無しにしてしまったよ、スコットランドの女の子のことは彼女が既に知っていると思っていたんだ」と私はジェイクに言った。
「気にすることじゃない、全ての歌はどうやって出来るか分かるだろ?」とジェイクは言う。


「これで Home Truth は終わりだ」とエルヴィスが叫んだ。
明らかに、これまでのすべてのアルバムの定番であったテーマで、これ以上やることはないだろう。


www.youtube.com

正直なところ、一連の曲はエルヴィスが私たちに提供した中で最も弱い曲の集まりだった。
そして、"今をときめく艶やかなサウンド "であるにもかかわらず参加し続けたクライヴ・ランガーとアラン・ウィンスタンリーも、特に熱狂しているようには見えなかった。
ノッティング・ヒルでのレコーディング・セッションが始まったばかりの頃、ポートベロー・ロードを散歩していると、クライヴが私のそばにやってきた。
「今の状況はどう思う?うまく進んでいると思うか?」とクライヴは聞いてきた。
「今までやってきた最高のアルバムになるとは思わないな。そういう君はどう思うんだ?」と私は返した。
その少し前にピートがクライヴに「歯医者の方がよっぽど楽しかった」と言ったばかりだった。
「では、どうすればいい?続けるか、それとも中止して考え直すか?」とクライヴが言う。
「ああ、だがそれは私が決めることではないな」と答えた。


クライヴは「Punch The Clock」路線の継続を望んでいたが、その時のエルヴィスはライヴでラフなものにしたいと思っていた。
その日のうちにクライヴは作業を中断し、エルヴィスに「君のレコード制作に誘ってくれて本当にありがとう」と伝えた。彼らは一緒に酒を飲んで仲直りした。
妥協策として、「The Only Flame in Town」と「I Wanna Be Loved」といういくつかのシングル曲のポテンシャルがある曲は華やかなアレンジを施し、他の曲は適当に流すことになった*3


後で、これがアトラクションズのラストアルバムになる可能性があるため、タイトルを「Goodbye Cruel World」にするつもりだと、エルヴィスがクライヴに伝えていたことを知った。
そのため、エルヴィスがソロでアメリカツアーをすることになったときには、誰もあまりショックを受けなかったのだ。
「変化と休息が同じように良いものになることを願おう」と我々は思った。


* * *


エルヴィスが帰国した後、我々はオーストラリアに飛び、4週間にわたるツアーの最中に「I Wanna Be Loved」のビデオを撮影する予定だった。
しかし、アトラクションズがエルヴィスと一緒に撮影現場に入ると、すぐに明らかになったことがあった。メルボルン駅のフォトブースの中にエルヴィスがいるように見せながら、匿名の人々の列が次々とフレームインし、エルヴィスの頬にキスをするという無編集のロングショットを撮るというアイデアだ。
その「匿名の人々」の中にはアトラクションズのメンバーも含まれており、その裏にあるメッセージは明らかだった。
私は列に並んで順番を待つことを考えたが、その後、興奮した舌を彼の耳に入れることを思いついた。
それによって撮影が台無しになるか、あるいは私のアナーキーな貢献をそのままにするかのどちらかだろう。


しかし、私は出演を拒否することに決めて、他の二人に言った。
「くそったれ、俺は帰るぞ。好きにしろ」
私は控室の窓から出て、排水管にしがみついて下に降りた。誰にも私が去ることを告げずに出ていき、ビデオに出演するよりもさらに匿名となった。
結局、ピートとスティーヴもビデオに参加しないことになった。


www.youtube.com

我々がビデオを拒否するのがこの時が初めてではない。
何年か前には、ある監督が、バンドを調味料の容器で表現し、ギンガムチェックのテーブルの上で踊るようにアニメーションさせるビデオを撮りたいと思っていた。
背の高いピート・トーマスはドラムのペッパーミル、私はソルトセラー、スティーブはマスタードを担当する予定だった。
しかし、エルヴィスがケチャップディスペンサーとして描かれることを知ると、大きな赤いプラスチックのトマトが......まあ、残りは想像にお任せしよう。


我々は日本での3つのショーとヨーロッパでの少ないギグを経てオーストラリアから帰国し、そのままニューヨークに向かい、「The Only Flame In Town」のビデオを撮影した。
そこでは、メルボルンでの我々に対する軽い扱いを埋めるためか、特別な役割を与えられた。


ニューヨークのモデル数人が「アトラクションズとのデートを勝ち取る」というコンテストに参加するという、通常起こり得ないストーリーだった。
ビデオの主役はピート・トーマスだった。彼はこの状況を最大限に利用し、カメラが止まった後も「デート相手」とキスをしたままだった。


すべてが夢のように過ぎ去っていった。が、それはモデルがいたからではなく、撮影終了後、その日のうちにロンドンに戻ったからだ。家に着いた時には想像上の出来事ではないかと思ったほどだ。
私の「月表示」のスケジュール帳のページには、連続する5つの土曜日が書かれていた:シドニー、東京、ロンドン、パリ、そしてニューヨーク。
そしてその間にはもう一つ、グラストンベリーでの大きな出演もあった。


www.youtube.com

エルヴィスが家に帰ると、メアリーが引っ越して離婚を申し出ていたことを知った。
正直なところ、私自身の状況もあまり良いとは言えなかった。

私が帰国した直後、(完全に「シャーリー・バレンタイン」のモードの)スザンヌは、長い間家に置かれていた不満から、ギリシャに向かっていた。
彼女は私が世界中を旅行して楽しんでいる間、一人で家にいることに不満があったのだ。
彼女が出発した夜、彼女の親友であるメアリー・ブラウンと私は地元のパブ・・・そのパブは「マインダー(イギリスのテレビドラマ)」や「ザ・スウィーニー(イギリスの刑事ドラマ)」の数多くのエピソードで登場してる・・に向かった。
私は自分の良心と闘いながら、ほぼ5分間苦悩したのち、彼女の腕の中で慰めを受けた。
「あなたたち、手が早いわね」とミセス・トーマスは帰宅した際に言った。
彼女はちょうどアメリカへの別のツアーに出発する私を見送るために戻ってきていた。


幸いなことに、今回はホーンセクションやバックシンガーはいなかった。
ただ、セッションサックスプレーヤー、ゲイリー・バーナクル*4が一緒だった。
彼を歓迎するために、私たちは皆、適切な部屋の名前を付けた。
ピートはピーター・プローン、エルヴィスはバンドリーダーのローレンス・ウェルク、私はレッド・スナッパーと名乗った。これは私の短気のせいではなく、最近のヘナの髪染めの不運な出来事に由来していた。
ゲイリー・バーナクルは、サウンドプロセッサーを駆使して1本のサックスを何倍にもして演奏するのだが、私たちの誰もが彼のプレイにはあまり感心していなかった。
「それはまるでクソみたいなイタリアの渋滞のようだ」とエルヴィスは彼に言ったが・・・エルヴィスは正しかった。


ゲイリー・バーナクルが演奏の三分の一しか参加していないにも関わらず、アトラクションズよりも報酬が高いことも受け入れがたいことの一つだった。
私はジェイクがゲイリーのギャラに同意した手紙のコピーを手に入れた。手紙の最後には「アトラクションズの誰にもこの手紙を見せてはならない」と書かれていた。
私は、新鮮味がなくなるまでのしばらくの間、それを額に入れて壁に飾っていた。


* * *


私が初めてケイト・オリオーダン(Cait、発音は「コット」)に会ったとき、エルヴィスが私に「ベースプレイヤーを見に来ないか?君の好みのタイプだと思う」と言ったのは、結果的に最高の皮肉だった。
エルヴィスは私をポーグスの楽屋に案内した。ポーグスは我々のUKツアーのサポートバンドだった。
楽屋には、頭をカミソリで剃っている背の高い女の子がいたが、あまり上手く剃れなかったためか、頭皮に小さな血だらけの切り傷が残っていた。


私たちはすぐに彼女を「ベリル」という名前で呼ぶことにした。
それは、長身でおてんばな漫画キャラクターである「ベリル・ザ・ペリル*5」にちなんだものだ。
彼女をそう呼ぶのは私だけでなく、他のアトラクションのメンバーやエルヴィスも同じように呼んでいた。
ケイト自身とポーグスの他のメンバーもエルヴィスを「アンクル・ブライアン」と呼んでいた。
奇妙なことに、べべ・ビュエルはエルヴィスを「アンクル・エルヴィス」と呼んでいた。だから「Man Called Uncle」という曲があるのだ。
ポーグスの場合は、ザ・フーの悪名高い「アンクル・アーニー」のような、ある種の危なっかしさをエルヴィスに伝える意図があったのだと思う。
ただ、それはすべて楽しい冗談のようなもので、悪気はなかったのだ。


ある時、バスの中でエルヴィスとケイトがお互いに絡み合って座っていて、彼らが付き合っていることが明らかになった夜があった。
エルヴィスの表情はまるで放射性物質のようで、「何も言うな、クソったれ」という警告の視線が伝わってきた。


そんなこと、そもそも私にはどうでもよかった。エルヴィスがそれを望んでいるのなら、私には関係ないことだ。
しかし、彼らはそうではなく、そういう状況を演じたかったのだろう。


しばらくすると、このスパイナル・タップ/ヨーコ・オノの瞬間が、アトラクションズとの間に溝を作るための計画的演出ではないかと疑い始めた。
どんな事情があったにせよ、それは重要な変化だった。
しかし、エルヴィスはまだアトラクションズを切り離す準備が完全にできているわけではなく、当分の間、必要に応じて我々を雇い続けた。
しかしそれは、既に避けられない運命であり、時間の問題だけだった。


エルヴィスとアトラクションズが再び一緒に演奏するのは、翌年の3月、ビリー・ブラッグ*6が主催したロンドン大学での鉱山労働者支援のための慈善イベントだった。
当時は炭鉱労働者にとって最高の時代ではなかった。内戦に近いような左右の権力闘争の中で、彼らの役割は誰よりも重要なものになっていた。
私は彼らを支持し、彼らの家族の苦しみに同情していた。


しかし、「ヘアスプレーで固められたブーディカ・ヘルメット」と「恐ろしい声」の持ち主、マーガレット・サッチャーは、プレジデント・スカーギル*7の勇敢で新しい連帯の邪魔をする唯一の人物だった。
その連帯は、すぐにでも東ドイツでみんなが乗るあのおかしなトラバント*8の10年待ちリストに入れることができれば幸運と思うようになってしまうだろう。
炭鉱労働者の一団がライブに参加し、舞台裏で握手をしてエルヴィスに炭鉱労働者のランプを贈った。

だが、私自身の生活は、鉱夫のそれとはまったく異なっていた。
私はエルヴィスの友人であるアラン・ブリーズデール*9が描いた「ボーイズ・フロム・ザ・ブラックスタッフ」というテレビドラマシリーズで描かれているリヴァプールの失業者グループの中流階級のお坊ちゃんのような生活をしていた。
私たちの家にはバターやマーマレードが不足しておらず、私はまだ仕事を持っており、当面は給料をもらっていた。
そのため、スザンヌと私はアルガルヴェで一か月間バカンス用の別荘を借り、午後はプールで過ごし、夜にはヴィンテージポートワインを飲んだ。
時折、一日中外出することもあったが、その際にはいつものようにレンタカーを湿った砂にはまらせるという、私の休暇ではお決まりのイベントもあった。


* * *


www.youtube.com

1985年のライブエイドコンサートでエルヴィスがソロでパフォーマンスすることを選んだと聞いて、特に驚きはなかった。
もちろん、私はそこにいなかったことに失望した。実際、非常に腹を立てていた*10
しかし、あの日、出っ歯で、昔ブーツを売っていたフレディ・マーキュリーと彼のバンドであるクイーンが素晴らしいパフォーマンスをしたことにより、誰もがクイーン以外の貢献を覚えていないのである。


腹が立つことが他にもあった。
ロードクルーの一人がスティーヴに、新しいアルバムのすべての曲には参加しない、もしくは、ほぼ参加しないだろうと1週間前になって漏らしてしまったからだ。
ティーヴは、他の誰よりも早くそれを知ったようで、そのやり方に非常に傷ついていた。
ティーヴは何杯も酒を煽って気持ちを奮い立たせた後、デューク・オブ・ヨーク・シアターで行われたエルヴィスのソロ・ギグに行き、エルヴィスを公然と叱り飛ばした。
話し合わなければならないことは明白だった。


シェパード・ブッシュのロータリーからすぐ近くのインド料理店という中立的な場所でバンドミーティングが開かれ、「King Of America」のレコーディングとして、奇妙なセットアップが私たちに提示された。
それは、エルヴィスと彼の新しい親友であるTボーン・バーネットが、ジョイント・ソロ・ツアーで世界中を旅する長いフライトの中で思いついたアイデアだった。
レコーディングには2つのバンドが参加し、お互いに完全に隔離され、必要な時に必要なだけ使うというものだった。
このバンドには、かつてラスベガスのエルヴィス(・プレスリー)のバックで見たことのあるミュージシャンが何人か参加し、さらにキーボードのミッチェル・フルームやLAのセッションマンも加わっていた。
アトラクションズは、もはやファーストチームではなく、スクワッドローテーションシステムの一部であり、サブベンチで過ごすことになりそうだった。


もちろん、スポーツに詳しい人ならば、優れた選手が単に人気がないという理由でベンチに置かれると、強い緊張と憤りがすぐに高まることを知っているだろう。
ただ、それに加えて、エルヴィス自身も苦境に立たされていることは明白だった。
彼は「もうエルヴィス・コステロでいたくない」と語り、すでに出生名の「デクラン・パトリック・マクマナス」に戻っていた。
公証人によって戻された名前だが、追加でアロイシャス('Al-oo-ish-uss')という名前がついており、それは「名声と戦争」を意味する。


* * *


バンドは、サンセットにあるオーシャン・ウェイのレコーディング・スタジオを予約し、同じ大通りを西に3マイルほど行ったところにあるモンドリアン・ホテルで、南側に広がるヤシの木でできた広大な敷地を見下ろすように演奏することにした。
スザンヌは、私の仕事が終わってからメキシコに行く計画を立てていたので、この旅に同行していた。


Tボーンは「曲の内容を知っていれば、創作に集中できるのではないか」という斬新なアイデアを思いついた!
そこで、レコーディングの前に、エルヴィスが歌詞を説明してくれる小部屋が用意された。
最初に見せてもらったのは「Betrayal」という曲だ。
私は冒頭の歌詞をざっと読み、声に出して言った。
「『イングランドが世界の娼婦だった頃、マーガレットは彼女のマダムだった』」
ピートが眉を上げて、ロジャー・ムーアのような仕草をした。
「これは何についての歌なんだ?」と私は言った。
エルヴィスは歯を食いしばった。
ピートはニヤリと笑って再び眉を上げた。
T・ボーンは何も気づいていない。


なぜか、私はこのトラックをジム・ケルトナーと一緒に演奏することになった(彼はジョン・レノンライ・クーダージョージ・ハリソンボブ・ディランのレコードなど、ありとあらゆるレコードに参加していたような人物である)。
私たちは演奏を始めた。
「おい、ちょっと止めてくれ」とケルトナーが私に言った。私がビートを少し押し出す傾向があることについてコメントするのはジム・ケルトナーが最初の人ではない。
しかし、他にどうすべきだったのか?
リンダ・ロンシュタットジェームス・テイラーのアルバムのような、あの無味乾燥なセッションミュージシャンのように演奏するのか?
アメリカ人の中には、キーボード奏者のミッチェル・フルームがこの状況のダークなユーモアを理解し、私に知らせるような視線を向けてくれた。


私たちの3週間の最終結果は、ミドルテンポのワークアウト「Suits of Lights」だけになった。
エルヴィスはまだ私たちを完全に拒絶することはできず、ただただ私たちを3週間、高価なホテルに滞在させただけだった。
ただ、LAを探索する時間は初めてだったので、休暇と思ってロングビーチに行ったり、クイーン・メリー号に乗ったりした。
だがやはり、自分のバンドで二番手を務めるというのは、あまりいい気分ではなかった。


振り返ってみると、エルヴィスが解放され異なるジャンルを楽しみたい理由は理解できる。
おそらく、私たち全員が前に進む時期だったのかもしれない。
要するに我々はかなり頑張ってきたのだ。
私たちは世界最高のビートグループであり、洗練されたポップ、ソウル、カントリーもやってきた。
プログレッシブロックへの回帰も常にあったと思う。私たちはナイーヴに尖った帽子を被ってもらえるかもしれない。
"音楽的な自負と言葉のごちゃ混ぜ" 、それであれば我々ならうまく対応できると確信していた!


この頃の状況を読み取るのは難しかったが、もし彼が本当に私たちを追い出したいと思っているのであれば、彼の方法は少々奇妙なところがあった。
おそらく彼は前に進むことと、私たちへの忠誠心の間で葛藤していたのだろう。
しかし、その優柔不断さが、恨みを産んでいたような気もする。
結果として、アトラクションズはエルヴィスに対し、防衛的かつ敵対的になっていった。
特にピートは我々への扱いに怒っていた。
ティーヴは既に自分の気持ちを公に表明していた。
私は、普段通り皮肉を言っていた。
士気を下げ、疎外し、侮辱することによって、私たちを分断して排除しようとしているようだ、と。


ロサンゼルスを出発する前に、エルヴィスのスイートルームに行ってアルバムのジャケットのために行われた写真撮影のプリントを見に行った。
その時、私は本当に疑問に思い始めたのだ。
彼が私に見せたのは通常のコンタクトシートではなかった。
エルヴィスがエルミンのローブを着て王冠をかぶっている大きなサイズの顔写真でいっぱいの部屋を見せられたのだ。
それはA1サイズのポスタープリントで、椅子に立てかけられたり、テーブルに置かれたり、壁にかかったりしていた。
同じ王様の顔の様々なバリエーションの海だった。
そこには皮肉の要素があったのかもしれないが、私がアルバムのコピーを手に入れ、彼の頭にバーガーキングの王冠を貼ったときほどの皮肉ではないだろう。


* * *


King of America (Dig)

King of America (Dig)

Amazon

ロサンゼルスを離れるのは嬉しかった。スザンヌとサンフランシスコに向けて、海岸沿いのハイウェイ1号線に乗り、レンタカーを運転しながら進んでいった。
数時間後、道路脇に「ハーモニー(調和)」という小さな町に入ったことが示す看板があった。そこは人口180人だと書いてある。
「どうやって180人もの人々が『ハーモニー(調和)』で生活しているんだろうな・・・4人ですら不可能だよ」と私は言った。


サンフランシスコからメキシコへ飛び、カンクーンへと向かった。そこの水はものすごく透明で、ボートが空中に浮かんでいるかのように見えた。
その後、チチェン・イッツァへと進み、歴史と異世界性を感じることができた。
ピラミッドや生け贄のプール、古代の頭蓋骨が詰まった部屋で、1週間過ごした後、メキシコシティへ飛ぶ予定だった。
しかし、空港に到着すると、すべてのフライトがキャンセルされていた。どこにも何の説明もない。


私たちは代わりにメキシコのチワワへ飛ぶことにした。
なぜなら、私たちがイギリスを出発する1週間前、新聞の日曜版に「一生に一度の旅」と称していた、チワワからラパスまでの2日間の鉄道旅行についての旅行記事が掲載されていたからだ。
空港から市内に向かう途中で、どの教会にも人々の列ができていることに不思議に思った。
ホテルの部屋に着いてテレビをつけると、画面に名前の切れないリストが延々とスクロールしているのが目に入った。
メキシコシティへのフライトがキャンセルされたのは、推定5,000人の死者が出た大地震*11が起きたためだった。そして私たちは僅か1時間弱でそれを逃していたのだ。


私たちは山々や渓谷を抜けて海岸までの素晴らしい列車の旅をした。
列車の中では誰もあまり話していなかった。唯一の軽薄さは、何が起こったかわからないほど幼い子供たちから来るものだった。
私は車両の窓の開いた場所に立って、全てのループ、橋、トンネルを見つめていた。
ラパスに到着する頃には、スザンヌもビーチに近く滞在することに満足していた。
時々、思い出すことがあった。
私たちよりもずっと近くで災害に遭遇した人々が突然涙を流し、ただ生きていることに喜びを感じていた。
それは「一生に一度の旅」にまったく新しい意味を与えてくれたのだ。


www.youtube.com

ロンドンに戻り、また別のバンドミーティングが開かれた。
「最近セッションは何回やってるんだ?今年は2回も休暇を取ったじゃないか。ピートはたくさんのセッションをこなしてる。俺がお前のケツを叩く必要があるみたいだな?」とジェイクが非難めいた口調で私に言ってくる。
「私がお前にケツを叩かれなければならない認識はなかったな。お前はいつもケツの話ばかりだ」と返した。


そこで、プリテンダーズの残されたメンバーだったクリッシー・ハインドとセッションの仕事をすることになった。
彼女はAIRスタジオで新しいアルバムを制作していた。
彼女のバンドのギタリストとベーシストは30歳になる前に亡くなっており、もう一人のメンバーであるドラマーも休んでいた。まるでみんなが七年目のかゆみに悩まされているようだった。

私たちがハインドに紹介された時、「ねえ、あなたのバンドのメンバーはみんなメガネをかけているの?」と彼女は言った。
「それはすごいギミックだね」
私は自分の舌を噛み、彼女のバンドの「ギミック」についてあまり上品ではないコメントを控えた。

シンプル・マインズのメル・ゲイナーがドラムを担当した。彼の巨大なドラムセットはスタジオの端にライザーに乗せられており、まるでスタジアムで演奏しているかのようだった。
ギタリストはポール・マッカートニーの最新メンバーであるロビー・マッキントッシュで、彼はジャグリーなコードでとても上手いギタリストだった。
つまり、優れた歌手、優れた曲、優れたドラマー、優れたギタリスト、優れたスタジオ、優れたプロデューサー、優れたエンジニアが揃っていた。
一体何を間違う必要があったのだろう?


我々はハインドを納得させようと何度も演奏したが、ハインドは演奏を止めさせた。
そして、私に「ちょっとベースを聞かせて」と言った。
私は考えたベースラインを演奏したが、彼女の顔つきからすべてを察した。
彼女は「創造的な」ベースプレイと「機能的な」ベースプレイの2つのタイプがあることを説明した。彼女が求めているのはどちらのタイプだろうか?
「2番目のドットを越えないようにした方が自分のためになるわよ」と彼女は言った。
それは、かつてあるカントリーシンガーがピアノプレーヤーに対して「鍵盤に近いところで演奏しろ」と言ったエピソードを思い出させる発言だった。

私はプリテンダーズの音楽がどのようなものかを知っていたし、亡くなったベース奏者ピート・ファーンドンがどのように演奏していたかも知っていたので、ルートとファイブ、さらに曲の流れが許す限り、時折オクターブを広げるような形で演奏していた。


公平に言って「My Baby」は良い曲だったし、トラックもうまく仕上がった。
大きなスタジアムのドラムフィルやオーバーダブされた観客の音が盛り込まれた疑似ライブのエンディングが追加されている。
私はプロジェクト全てに携わる予定だったが、私の貢献はこれっきりで、それ以上は必要とされないことがわかった。
「ツアーに出る時、控室のドアには『ハイド・クォーターズ』と書かれたサインはあるのかな・・」と思った。


The Pretenders - My Baby (1986)
www.youtube.com

バンドに近い情報源からは、エルヴィスがポーグスと冒険していると聞いていた。
ポーグスはエルヴィスからお金を借りたり、エルヴィスをローディとして働かせたりしていたが、それによってケイトと一緒にいられるようにしていたようだ。
エルヴィスとケイトはおそらく、編み物のパターンの表紙に描かれるような可愛らしいカップルのマッチングのフェアアイルセーターではなく、ジョンとヨーコのような黒いマッチングの衣装を着るようになっていただろう!
この頃、アトラクションズが憤慨したり怒ったりすることに対し、ポーグスはかなり意地の悪い態度を取っていた。

やがて、最初にエルヴィスがポーグスの軌道から離れ、ケイトもすぐにそれに続いた。

ところで、ブルースが参加したプリテンダーズの「Get Close」で一番有名な曲は「Don't Get Me Wrong」だと思うが、これのベースはなんと当時なぜかプリテンダーズのメンバーだったT.M. Stevensである。T.M. Stevensといえばファンクメタル愛好家にはお馴染みのスラップ・ベースの達人で、ブルース以上に派手なプレイを好む人なのだが、T.M. らしさはまったく影を潜めている。「2番めのドット」というのはハイポジション、つまり高音に行くな、という意味だろうが、T.M.にはスラップ禁止令でも出ていたのだろうか。

www.youtube.com

この動画はTOP OF THE POPSだが、ベースはT.M. Stevens、だがおとなしい。

本当のT.M. Stevensはこんな感じ。
www.youtube.com

「Get Close」にはT.M.つながりかバーニー・ウォーレルのようなP-FUNK系のミュージシャンも参加しているがどういうつながりなのだろうか。

*1:ブライアン・グリフィン https://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Griffin_(photographer)

*2:やはり、コステロとブルースは仲が良かった、と思われる

*3:まあ、そうだろうなと思うようなサウンドプロダクションではある

*4:ゲイリー・バーナクル https://en.wikipedia.org/wiki/Gary_Barnacle

*5:ベリル・ザ・ペリル https://en.wikipedia.org/wiki/Beryl_the_Peril

*6:ビリー・ブラッグ https://en.wikipedia.org/wiki/Billy_Bragg

*7:アーサー・スカーギル 炭鉱ストライキの指導者https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Scargill

*8:トラバント https://bote-osaka.com/yomoyama/2020/11/472/

*9:アラン・ブリーズデール https://en.wikipedia.org/wiki/Alan_Bleasdale

*10:実際のところは、ボブ・ゲルドフがフルバンドだとセットチェンジが長くなり客が待たされるのでソロでの出演を依頼したということらしく、コステロの強い意志ではなかったようだ

*11:メキシコ地震 (1985年) https://en.wikipedia.org/wiki/1985_Mexico_City_earthquake