俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 19 Wound Up, Wound Down(緊張と緩和)


1986〜1987年、「Blood & Chocolate」からアトラクションズ一度目の解散まで。

CHAPTER 19 Wound Up, Wound Down(緊張と緩和)

エルヴィスとジミー・クリフが映画のために共作した曲*1をアトラクションズと一緒にレコーディングすることで、なんとか状況を立て直そうという動きがあった。
日が進むにつれ、エルヴィスはほぼプリミティブで素朴な新曲の集まりがあることを私たちに告げた。
イデアとしては、我々がこれらの曲を素早くライブ録音し、何らかの機能不全が再び現れる前に仕上げてしまうことだった。
ニック・ロウがプロデューサーとして、そして必要ならば和解役も兼ねた上で招かれた。
そして1986年3月、バーンズのオリンピックスタジオ、私にとっては川沿いを20分の自転車で気持ちよく通える場所だったが、そこで「Blood & Chocolate」のレコーディングが行われた。


我々は、まるでライブショーを行っているかのように、機材をセットアップした。
私は自分の400ワットのステージアンプと16基の10インチスピーカーを使用し、他のメンバーもそれぞれのフルセットの機材を使用した。
しかし、ミキシング段階になるとに、スタジオにはたくさんの音が飛び交っており、各トラックをの音を明確に分離することは不可能だった。
言ってみれば、それはまるで濃厚な「Blood & Chocolate」のスープのようなものだ*2
イコライゼーションやエコーの追加、オーバーダブによる装飾や修正はできない。
ミックスで単一の楽器を隔離しようとしても、他の楽器の音が裏で同じくらい大きく聞こえていた。
結局、それはライブアルバムとして扱う必要があった。フィル・スペクターの有名なウォール・オブ・サウンドと同じ方法でレコーディングされたののだ。
私はニックに「騒音の柵(Fence of Noise)- 発音としては攻撃的な騒音(Offensive Noise)」として有名になるだろうと伝えた*3


ニック・ロウは昔のような明るい橋渡し役としての役割からは程遠く、あえて緊張感を作り出すように動いているように見えた。
それが要求されたものかどうかはともかく、演奏される音楽のレベルを上げるというアイデアだった。
既に水面下で沸騰しているものを考えると、それは危険なゲームだった。
我々は今までで最も大きなレコーディングスタジオにいたのに、これほど閉塞感を感じたことはない。


アルバムで最も印象的なトラックはおそらく「I Want You」だが、それを作るのは大変だった。
タイトルは皮肉を込めて付けられており、脅威と脅迫に満ちた逆恋愛の歌である。
レコーディングに適切な雰囲気を作り出すとき、エルヴィスは我々の一人一人をいらだたせたり、敵意を煽ったりする言葉で何度も作業を止め、結果として我々はみな非常に惨めな気持ちになった。
エルヴィスの首を絞めてやろうか、出て行ってやろうか、と思っていると、「どうしたんだ?何か問題でもあるのか?」と口を挟むのである。


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アメリカツアーの最中、彼は腰の痛みで悩まされていた。驚くべきことに、エルヴィスは私のアドバイスを聞き入れてマッサージに行くことにした。
「まったく時間の無駄だったな」とエルヴィスは帰ってきて言った。
「どうなったんだ?」と私は尋ねた。
「マッサージ師に、私が常に緊張しているからだと言われた」とエルヴィスは答えた。
「そうなのか?」
「私はマッサージ師に、私の仕事は緊張することだ、と言ったんだ」
今となって思えば、エルヴィスの仕事は明らかに私たちをイラつかせることだったようだ。それにふさわしい緊張感が生まれ、トラックがレコーディングされていった。


アルバムは、「Uncomplicated」「Tokyo Storm Warning」「Honey Are You Straight」といったモノリシックな曲と、「Blue Chair」「I Hope You're Happy Now」「Next Time Round」といった明るいディラン風のポップ曲の組み合わせとなった。また、ジーザス&メリーチェインに対する非調和的なオマージュとして、「Poor Napoleon」収録された。


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レコードが完成した後、失業者のためのチャリティーコンサートを行うため、アイルランドのダブリンに向かった。
エルヴィスとケイトは、午後のサウンドチェックと夜の公演の合間に、セント・スティーブンズ・グリーンに出かけ、法的には結婚ではないが象徴的な結婚の儀式を行った。
結局、2人は正式に結婚することはなかったが、その後10年半の間、2人は切っても切れない関係になった*4


* * *


7月に、我々はベルギーのフェスティバルで演奏した。このフェスティバルは、ツール・ド・フランスの5回優勝者である偉大なエディ・メルクス*5によってプロモートされた。
ジェイクがフランスに住んでいた頃、彼はツール・ド・フランスを愛し、国中を追いかけていた。
彼自身も熱心なサイクリストであり、それを証明するほどの脚の筋肉を持っていた。
フェスティバルへの参加料の一部として、ジェイクは私たち全員にカンパニョーロのメルクスの自転車を用意してくれた。
この偉大な人物との出会いによって、私自身もツール・ド・フランスとの愛の関係が深まり、それ以来、ほとんどの大会を見逃さずにいる。
私にとって、ツール・ド・フランスはワールドカップよりも大きなスポーツイベントになった。


9月には、ロンドンとロサンゼルスで3週間のリハーサルを開始し、年末までのツアーに備えた。
普段はこんなに集中的にリハーサルをすることはないのだが、ここ数ヶ月はロードワークが少なかったので、まるで引退したボクサーが試合用の体重に戻すような感じだった。


その後に行われたのは「ホイール・ツアー」だった。
イデアは、垂直に取り付けられたルーレットのような巨大な車輪をステージ上に配置し、観客から招待された人々が回し、ルーレットが止まった曲を演奏するというものだった。
もし同じ曲が2回出た場合は、別のジャンルにアレンジし再び演奏しなければならない。
最悪、レゲエバージョンでやることもあった。
何でもレゲエバージョンにできるのだ。
例えばあの「ドレッド・ツェッペリン*6」が「Stairway to Heaven」や「Whole Lotta Love」のレゲエバージョンをやったように。(...「Dread Shoes」なんてのはどうかな?)


「スピニング・ソングブック」のアイデアに正当なクレジットを受けることができるのは、デヴィッド・ボウイだけだろう。
私はかつてローリング・ストーンでデヴィッド・ボウイがこのアイデアを話していたのを読んで、それをエルヴィスに伝えたのだ*7
しかしボウイはそれをやらなかったので、我々が試してみることにしたわけだ。


ロサンゼルスでは、適当でチープな服を探すためにメルローズ・アベニューのヴィンテージの洋服店をくまなく回った。
最終的には、赤いクラッシュベルベットのスーツとフリルのシャツを手に入れた。
しかし、サウンドチェックに戻った時に私に仕掛けられる予定の「冗談」は、それとはまったく比べ物にならなかった。
ホイールは既にステージ上に組み立てられていた。
それは約12フィートの幅があり、ステージ上で唯一の「空きスペース」に配置されていたが、ちょうど私がいつも演奏する場所だった。
そして、ツアーの間ずっと誰からも見えないように、その真後ろに立って演奏することができると真剣に提案されたのだ。私は面白くなかった。


メンバーに変更や追加があるたびに、このようなことが起こっていた。
ホーンセクションをツアーに連れて行ったときも最初は同じように配置され、私はバックミュージシャンたちの背中に向かって演奏することになっていたのだ。
ロンドンへの飛行機の時刻を確認するようツアーマネージャーに頼んだとき、ホーンセクションは最終的にドラムセットの後ろの台に移動されることになった。
同じことがバック・シンガーズにも起こり、ゲストギタリストやサックスプレーヤーにも起こった。
毎回、私は自分の立場を守るために闘わなければならなかったのだ。
結局、ホイールは後ろに移動し角度を変え、自分用のスペースを確保できることになった。


ビバリーシアターで数回演奏することになったので、ホイールは最後の夜まで出番がなかった。
曲は38曲で、その中には古い定番曲や、プリンスの「Pop Life」、アバの「Knowing Me, Knowing You」といったカバー曲も含まれていた。
また、地元のゲストアーティストやゲストプレゼンターも登場する予定だった。ロサンゼルスでは、バングルスの素敵なスザンナ・ホフスや嗄れ声の詩人トム・ウェイツが参加する予定だった。


我々がトム・ウェイツの曲のリハーサルを始めてまだ数小節しか経っていないのに、彼はくるりと回って「ルート音に集中しろ」と唸った。
最終的には、トム・ペティが「Peace, Love and Understanding」「American Girl」「So You Want to Be a Rock and Roll Star」で参加し、ライブは終了した。


しかし、ヒューイ・ルイス、ジャクソン・ブラウン、ペン・アンド・テラーなどのゲスト出演はあったものの、残りのツアーは同じ高みに達することはなかった。
イタリアでは、私たちと一緒にステージに上がった女性が、観客から大きなどよめきで迎えられた。それはどの言語であっても「ああ、彼女はちょっと違うよね!?」という意味だ。
明らかに、私たちはイタリア版アンシア・ターナー*8に遭遇したのだ。


コステロ自伝にも出てくる「イタリアンポップのプリンセス」のことだと思うが、しかしまたもやこれが一体誰のことなのかは分からない。
shintaness.hatenablog.com

ロンドンでは、最初のショーがエルヴィスによる長いモノローグ「The Ballad of Joe Soap」とともに開幕した。
その日のTime Out誌で掲載された記事*9は、私がスクイーズとのツアーで始めた文章の断片から編集されたものだったが、このモノローグはそれに対するエルヴィス側の直接の反論だった。
この文章はその後、偶然にも「The Big Wheel」という題名の本に掲載されることになった。


エルヴィスが、私の書いた文章を放置するつもりがないことは明白だった。
作品の中で私が描いたエルヴィスの姿は、お世辞にも良いとは言えないが、特に恨みや悪意があったわけではない。
むしろ、エルヴィスとアトラクションズの間の反感が高まっていることを示す一例であった。
エルヴィスは徹夜でその原稿を書いていたはずなのだが、私の耳にその言葉は入らなかった。

その時の私には、そもそも他に心配事があったのだ。つい先日、古いダイムラーV8を購入して、数週間かけて修理していたが、サウンドチェック中に家の外で盗まれてしまっていたのだ。


ツアーの終盤、一番苦しんでいたのはスティーヴ・ナイーヴだった。
ティーヴはエルヴィスとジェイクが自分に対して陰謀を企んでいるのではないかと被害妄想に陥っていた。
アトラクションズの中で最も繊細なスティーヴは、それを非常に悩んでしまい、結局、南ロンドンのプライオリークリニックに入院した。
目的は薬物乱用ではなく、精神的な気力を取り戻すことだ。
そのような状況で、1月のアルバート・ホールでの3回の公演は、彼にとって特に重要なものではなかったはずだが、彼は聖域から抜け出して公演に臨んだ。
予想通り、スティーヴは最高の状態ではなかった。
しかし、それにもかかわらず、ピアノの演奏が特に前面に出るある場面で、スティーヴの前に立って、エルヴィスは応援したり励ましたりなだめたりするのではなく、意地悪そうに対決するような視線を送っていた。


これは私の誤解だろうか?いや、そうではないと思う。
この出来事はこれまでに一度も話したことはないが、それは私に特に深い印象を与えた出来事であり、時が経った今でも鮮明に覚えている。
私がこのことに言及したことを、スティーヴが許してくれることを願っている。
だが、結局のところ、スティーヴは私よりもずっと前にエルヴィスを許すことになった。


アトラクションズの面々はまだ給料をもらっていたが、ジェイクの助言に従ってできるだけ多くのセッションを詰め込むことにしていた。

結果的には賢明な決断だった。アルバート・ホールのショーの後、数か月先の夏に迫った契約上の義務としては、グラストンベリーでの出演が待っているだけだったからだ。
エルヴィスはほとんどのセットをソロで行い、私たちはカーテンの後ろで集まってサプライズ出演をし、エルヴィスと一緒にショーを締めくくった。


その前年のクリスマスにバンドが「解雇」されたと、いろんな人が書いているが実際はそうではない。
実際には1987年の10月までの数ヶ月を経て、アトラクションズに存在が不要と告げる会議が開かれた。
衝動的な決断とは言い難い。


バンドはとうとう解散したのである。

10年もったなら、まあ長い方ではあると思う。

*1:Seven Day Weekend のこと

*2:Blood & Chocolateのタイトルの元ネタはビュエルが生理になるとキャンディが欲しくなるから、という説があるが、実はライブ録音で音が混ざり合って血なんだかチョコなんだか分からない、という説明の方が腑に落ちる気がする

*3:要するにスタジオライブだが、それにしても演奏が上手すぎる。さらに、ゲートリバーブ全盛の時代にこの生っぽい音像はこの録音方式だからこそ生まれたと言っても良い。コステロの80's後半のアルバムだとサウンド面で時代に耐えうるのはこのアルバムが一番だろう。

*4:ブルースの説だと、コステロとケイトは1997年頃に関係破綻していたということだが、多分合っていると思う

*5:エディ・メルクス https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9

*6:ドレッド・ツェッペリン https://en.wikipedia.org/wiki/Dread_Zeppelin 久しぶりに聞いたなこの名前・・・懐かしい

*7:発案者はデヴィッド・ボウイだが、それをコステロに伝えたのはブルース。ほぼブルースのファインプレー。

*8:アンシア・ターナー https://en.wikipedia.org/wiki/Anthea_Turner

*9:Big Wheel http://www.elviscostello.info/wiki/index.php/Time_Out,_December_17,_1986