俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 12 Dead or Alive(生か死か)


1978年後半。「Armed Forces」前後。

CHAPTER 12 Dead or Alive(生か死か)

ボブ・ディランの物まねをする人たちがいつもやっている例の滑舌で、当の本人が話し出した。

'Heyyy... I ain't gonna beee the ...wurr-ne... ta'eeat this ...laass peesa ...peee-zza'
(ピザの最後の一枚を取るのは嫌だ)

まるで自分の歌の一節を真似たかのような口調で言っていた。


我々はちょうどベルリンで彼とバンドに再会したところだったが、皮肉なことに、ボブ・ディランロンメルの戦時中の鉄道車両をドイツ公演の移動に使っていた。

彼のショーを見た後、両バンドはホテルのプールエリアにある大きなテーブルを囲んで座っていた。
ボブは大きなピザを注文し、数分後にはスライスされたピザが運ばれてきた。

ボブ・ディランはシンガーソングライターというよりも、少なくとも私の世代にとっては精神的な指導者のようなものだ。
しかし、今では新世代が台頭していた。
ボブの隣に座っていたのはスティーヴ・ナイーヴで、彼は過去わずか1年間にたった2つのバンド、アリス・クーパーカーペンターズを見ただけの人間だった。

ボブが自分だけのおやつとしてピザを注文したとは知らない人達が、四方八方からピザに飛びついた。
数秒後には1枚しか残っていなかった。
ボブは「最後の1枚を取るのは嫌だ」と言った。
ナイーヴは「じゃあ、私がもらうよ」と言って、皿からピザを取り、自分の顔の前にぶら下げてまるでカモメが空中で魚を捕らえるように優雅な弧を描いてピザを頬張っていた*1


* * *


7月中旬、我々はスウェーデンに行った。ホテルに着いてすぐ、その日の午後に、車で行くと多少離れた場所で開催されるフォーク・フェスティバルの話を聞いた。
ABBAの何人かがそこに来るかもしれない」とツアーマネージャーが言う。

それだけで私たちは興奮し、車に飛び乗って出発した*2
バックステージを特に歩き回ることなく、ベニーとフリーダにばったり会った。
素敵なフリーダと会話をするために「一体ここで何してるんですか?」と聞いた。
フリーダは「ここにいることはそんなに目新しいことではないわ、私たちはみんな以前はフォークバンドだったのよ」と言う。

ベニーとフリーダは、我々と一緒に即興で出演することにそれほど乗り気ではなかったようだったので、代わりに「トリビュート」ナンバーを演奏することにした。
アコースティック・ギターを4本借りて、ホテルに帰ってリハーサルをして、数時間後、エルヴィス&アトラクションズはスウェーデンの野原でステージに立ち、離婚賛歌「Knowing Me, Knowing You」のアコースティックバージョンを演奏した。
その演奏は、少し雑に聞こえたが、それにはちゃんと意味がある。私がリードギターを弾くことになったが、私たちは皆、「ああ、そうだったのか」と思ったのだ。


スカンジナビアから帰国して2日後、私はスザンヌランサローテ島に結婚前のハネムーンに行った。
もともと結婚式は8月の第1週に予約してあり、その後1週間ほど休暇を取る予定だった。しかし、ライブのリスケにより、予定がすべて狂ってしまったのだ。
登記所は予約通りでなければならないが、自由な時間は結婚式の前だけになった。なので、私たちはまずハネムーンに行き、それから結婚式を挙げたのだ*3


その1週間後、バンドはロンドン郊外のリトル・チャルフォントの農場でリハーサルを行い、次のアルバム「Armed Forces」のための曲を作っていた。当初アンセムになると思われていた曲は、最終的にそうはならなかった。
その代わり「Oliver's Army」のようにB面として用意した曲は、スティーヴ・ナイーヴが、ABBAの「Dancing Queen」でやったような、グランドピアノ、アップライトピアノエレクトリックピアノと、キーボードを何層にも重ねることで、ヒット曲になったのだ。

「Armed Forces」は、「This Year's Model」の時のようなビート・コンボのアプローチとは異なるアプローチをとっていた。「Accidents Will Happen」は、バッハが胎内にいるときに口ずさんでいたような曲だが、この曲のベースラインは自分でも気に入っている。


リハーサルも半ばに差し掛かった頃、思いがけない電話がかかってきた。
「数週間後、ポール・マッカートニーとレコーディング・セッションをやらないか?」


10月3日、アビーロードの前の横断歩道で日本人観光客の写真を撮ってあげた後、アビーロード・スタジオのスタジオ2に行くと、ポールとリンダの姿をすぐに見つけることができた。

「うわぁ、これは一体何をやっているんだ?」と周りを見渡した。

どうやら「ロック・オーケストラ」というものがあるようで、かつてフィル・スペクターがライチャス・ブラザーズやティナ・ターナーなどのために行ったレコーディング・セッションと同じように、各パート3人1組で演奏し、それがすべて生演奏だったのだ。
マルチトラック以前の時代に、大きな音圧を得るためのスペクターの手法であり、スペクターはそれを「ウォール・オブ・サウンド音の壁)」と呼んでいたのだ*4


スタジオはまるで中世の城のようだった。
各コーナーには、フィルムカメラの「隠れ家」として、細い窓のついた木の塔が建てられている。
奥の壁には、3人のドラマーとパーカッションのための土台が作られている。その片側には、3台のベースが設置され、ドラムの反対側にはホーンセクション。真ん中にはキーボードがいて、リンダがオルガンを、ポールがピアノとヴォーカルを担当することになった。
ポールは私にコード表を何枚かくれたが、簡単そうな譜面だったので良かった。
私はポールに「私は君からかなり多くのアイデアを盗んだんだよ」と伝えた。

彼は周りを見回したあと、ベースを手に取り、「それはお互い様だよ」と言わんばかりに「Chelsea」のベースラインを数小節弾いてくれた。


人々が続々と到着し始めた。私の他に誰が来るのかがだんだん分かってきた。
ドラマーには、レッド・ツェッペリンジョン・ボーナムがいた。あんなに激しくドラムを叩く人を見たことがない。
もう一人のドラマーはウィングスのスティーブ・ホーリーで、ここだけの話だが、彼は私のロータスロードランナーズのシングルで演奏していた人だ。
キース・ムーンも、その日ドラムを叩いていたはずだったが、このつい先日亡くなったばかりだった。


ポールが後援していた映画『バディ・ホリー・ストーリー』のプレミアに出席したときにキース・ムーンを見かけたことがあった。
ホリー役を演じていたのは、ピート・トーマスがLAで知り合ったゲイリー・ビュジーだったが、ピートは彼のホリー評に異を唱えだした。劇場の後方で彼と一緒に立っていると、ピートがだんだん興奮してくるのがわかった。「くだらない!」とピートは叫んだ。

警備員がすぐに駆けつけ、ピートを追い出し、ついでに私も追い出された。
私たち2人がソーホーを歩いてベイカーストリートのアパートに戻ると、スイス料理店の外で鉢植えの植物をめぐる事件が起きていた。
「あなた方は非常に愚かな連中だ」とマイスターが叫び、私たちはオックスフォード・ストリートの方に追いやられた。

私が帰宅するころには、ピートは南海岸に住んでいたころに知ったレオ・セイヤーに怒りの矛先を向けていた。
玄関から入ってきた私の新しい配偶者スザンヌは、"for better or worse "というシンプルで深い言葉の意味を考えていたに違いない。
この映画での出来事がポール・マッカートニーに伝わらなくてよかった。
もし伝わっていたとしたら、その後、ロック・オーケストラの一員になるという誘いはなかったかもしれない。


スタジオには、すでに会ったことのあるギタリストも何人かいた。デヴィッド・ギルモアとは、以前に彼から仕事の依頼を断ったことがあるが、それは思い出させないようにした。
ピート・タウンゼントもいた。エルヴィス&アトラクションズは重要なバンドだと思うよ、と挨拶してくれた。
マッコイズでのピートとのちょっとした出会いや、クイーヴァーとのツアーのことを覚えていないことを確信し、彼にも思い出させないことにした。
もう一人のギタリストはシャドウズのハンク・マーヴィンで、私が初めて見たギター・ヒーローだ。
その日、糸は確かに紡ぎ合わされていた。

他のベーシストは、レッド・ツェッペリンジョン・ポール・ジョーンズフェイセズのロニー・レインだった。

通しリハーサルを終て、「俺たちはたくさんいるから、君に全部任せるよ」とロニーが言った。
スモール・フェイセズや、後にロッド・スチュワートフェイセズで良い仕事をしていたのに、なぜだろう?と思いながら「ああ、分かりました」と私は答えた。
彼が多発性硬化症の発症に苦しみ、常に弱音を吐いていたことを知ったのは、それからしばらく経ってからのことだ。


ポール・マッカートニーの事務所から、請求書を送って欲しいと言われた。
私は、みんなと同じように、面白半分でやってみようかと思った。
しかし関係者を見渡すと、ジプシーキャラバンや養鱒場、広大な邸宅が目に浮かび、自分はまだその仲間に属していないのだと思うようになった。
結局、誰一人として請求書は出さなかった。
が、私はまだ現役のミュージシャンで、家も車もまだ買っていない。
もちろん、彼の事務所はすぐ、とても寛大な小切手を送ってくれ、他の参加者全員が手に入れたグッズや記念品も、とにかくお礼の意味で送ってくれた。
数年分のクリスマスカード、シャンパンのボトル、そして2曲が収録されたウィングスのアルバム名「Back to the Egg」が刻まれた金色のブレスレット。
そして、このアルバムに参加したミュージシャンのために限られた数だけプレスされた、アルバムのピクチャーディスクがあった。
これはコレクターズアイテムの中でも最も収集しやすいもののひとつとなり、数千ドルの価値があったものだ。


それからしばらく経って、あるコレクターが私の蔵書の査定に来た。その後「Back to Egg」が私の家から消えて無くなった。

それはつまり、翌日、ミセス・トーマスがサンビーム・タイガーV8コンバーチブルに乗り、ヘッドスカーフを巻いてジュリー・クリスティーのようなポーズで現れることを意味する*5

彼女は「for better or worse」のB面を発見したのだった。
しかし、何度かのドライブの後、タイガーは文字通り、ただ運転可能なだけの野獣であることに気がついたようだ。
それを知った彼女は、フィアット・パンダに乗り換えた。


* * *


「Armed Forces」のミキシング・セッションと、カナダ、ハワイ、日本、オーストラリアへのツアーの合間にビデオを撮影し、トップ・オブ・ザ・ポップスへもう一度出演した。
本来なら、トップ・オブ・ザ・ポップスには2日間、つまりバッキング・トラックの再録音に1日、そして本番の生放送の日に1日を費やす必要がある。
本番では、歌だけが生演奏になる。アンプの電源は入れず、ギターも接続しない。ピートは、ドラムの皮の上に発泡スチロールの円盤を敷いて音をミュートし、金属製のシンバルをプラスチック製に変えて、ドラムを強く叩かないように努めなければならなかった。
しかし、すぐにオリジナル・レコードのバージョンからボーカルだけを除外して新しく録音したバッキング・トラックと見せかけるという、お互いに都合の良いシステムが出来上がった。
BBCの担当者はジェイクやレコード・プラガーに連れられて楽しいランチに行き、バンドはその反対方向のパブに引っ込んでいる間に、そのトラックは完成していたと思われる*6


トップ・オブ・ザ・ポップスは、バックス・フィズやノーランズのようなアーティストと交わる唯一の機会だった。
カイリー・ミノーグデッド・オア・アライブといったストック・エイトキン・ウォーターマン*7のアーティストと同じ番組に出演したのもこのときだけだ。

ピート・ウォーターマンの安定したレコーディング芸術は、その時代のポップスのサクセスストーリーとなる。彼は、パッヘルベルのカノンのコードを使いリズムトラックをプログラムし、音楽を演奏するのではなく構成するという新しい方法で、カイリー・ミノーグの「I Should Be So Lucky」を作り出した。


1977年、音楽がプロフェッショナルでなく、ラフになりつつあると思われていた時、実は逆の方向に向かっていた。
ある日、ベルリンでブライアン・イーノデヴィッド・ボウイに「今、未来の音を聞いたよ」と駆け込んできたという話がある。
彼はドナ・サマーの「I Feel Love」のレコードをかけた。それを実現したのはプロデューサーのジョルジオ・モロダーだった。
「これだ、これ以上探す必要はない、このシングルのサウンドはこれから15年間(fifteen)のスタンダードになる」とブライアン・イーノは言った。
しかしそれは間違っていた。「15年(fifteen)」ではなく「50年(fifty)」と言うべきだったのだ。


* * *


バンクーバーでは、「Peace Love & Understanding」のビデオ撮影を行った。
ホテルの廊下の壁で私たちが跳ね返るというシーケンスがあったが、夜中に起こされて撮影したため、見た目よりもずっと作為的な内容になっている。
ハワイでは、「Oliver's Army」のロケハンで、エルヴィスと私はホノルルのストリップクラブを探し回り、立ち寄るたびに日本酒のボトルを何本も飲み干した。
海岸でのシーケンスを撮影するとき、彼が打ち寄せる波をかわしながらドクターマーチンで水しぶきを上げるのを見て、私は静かに笑っていた。



日本に来てくれてありがとう、あなたのコンサートに行きましたが、とても楽しくて興奮しました。心のこもった歌声とクラシカルなフレーズ、語り尽くせないほど素敵でした。あなたの重厚でメロディアスな演奏は、とてもしっかりとしたもので、温和で華やかなものであったと思います。どうか健康に留意してください。あなたの髪はなんと美しいのでしょう。
もしこの手紙に間違いがあれば教えてくれたら嬉しいです。私は英語を勉強しています。幸運を祈ります。


日本では、ビートルズがシェイスタジアムで着ていたようなスクールボーイのジャケット(学生服)を持参した。

我々はチケットの販売を促進するために、平台のトラックの荷台に乗って東京を回り、ライブを行った。
トラックの横には「Live in Tokyo」と書かれた幕が張られていたが、日本にはそのような表現はなく「Alive in Tokyo」という表現が精一杯だった*8


1週間後にはオーストラリアに到着し、タブロイド紙が仕組んだ「事件」に巻き込まれてしまった。
飛行機から降りた私たちを出迎えるファンにサクラが仕組まれていた。我々はなんとか彼女をかわしたのだが、タブロイド誌には、傷ついた少女を冷たくあしらったかのような卑劣な行為に書き換えられてしまった。

シドニーでの初日公演では、アンコールをやらなかったために、シートがもぎ取られてステージに投げ込まれるという大混乱が発生した*9

このようなことが2週間あまりに渡って続いたので、英国に帰ることにした。実は、ちょっと横になりたいという気持ちもあった。
だが、それは無理だった。ロンドンのドミニオンでは、7日連続のイブニング・ショーが待ち構えていたのだ。

ある評論家は「ショー全体がコカインの臭いがした」と、ドミニオンのショーのあとに書いていた。
あるいは、その前日までオーストラリアで演奏していたため、続けるためにできることは何でもしていたという事実の臭いがしたのかもしれない。
いずれにせよ、私たちはクリスマスに休暇を取り、英国ツアーに出発した。


その後の1ヶ月間、私を支えてくれたのは、いわゆる「パンク詩人」と呼ばれるジョン・クーパー・クラークだった。
オープニングアクトを務めたジョン・クーパー・クラークとは、すぐに打ち解けることができた。
クラークは、噛み砕くように話す滑らかなマンチェスター訛りと、止めどないユーモアの持ち主だった。
彼には、どんな状況においても絶え間なく、気の利いた言葉や洞察、ウィットに富んだ言葉がある。

彼はすぐに私を「バンガー」、あるいは「バングッグアー」と名付けることにした。ビグルスの物語に登場するバンガー・トーマスというキャラクターにちなんだものである。私は彼をロード・ビロと呼んでいた。
そのツアーで私たちはよく遊んでいたのだ。

ある夜、私たちはアムステルダムの街で、クラークの「エレクトリック・ディラン」風のルックスに文句を言ってきたチンピラに追いかけられた。
「あそこにいる連中が見えるか」と彼はつぶやいた。
「あれを見るな!ただ歩き続けるんだ、というか、すごく速く歩け、もとい、走れ!」。

エジンバラのホテルで真夜中に火災報知器が鳴ったことがある。宿泊客は全員避難して冷たい夜空の下、集合して点呼を取っていた。
私はすぐにクラークを見つけたが、他の客はまだガウンや着替えのまま出てきていたのに、彼だけが荷物を持ったまま完全な格好で立っていた。
「すごいな、早すぎないか?」と私は言った。
「我が家の家紋には黄色い筋に白い羽が4本あるからな」と彼は言った。


ある晩、いたずらでクラークの部屋にあるガラス張りのコーヒーテーブルを破壊してしまった。
「まずい、バレたら弁償させられてしまう。だが、ガラスを隠せば、誰も気づかない」
私とクラークは慎重に割れたガラスの破片を拾い集めて枕カバーに入れ、戸棚に隠した。
しかし、その枕カバーには注意書きのラベルを貼っておいた方がいいと思った。

この注意書きの文言をどうするかで盛り上がった。
「警告: 割れたガラス」は、内容物の危険なトゲトゲしさが伝わらないとして却下された。

「割れたガラスのカケラか?トゲのあるガラスのカケラをシャードと呼ぶ」とクラークは言った。
「そうだな、だが『割れたガラスの破片』だと、トートロジー(反復表現)になる。ガラスは、破片になる前にすでに割れていなければならない。『濡れた水』みたいなものだな」と私は言った。
「そりゃそうだ」と彼は言った。
そこで私たちは、ドラマチックで文法的に正しい表現にたどり着くまで熟考を重ねたのだ。
最終的に『シャードに気をつけろ』になった。



新年を迎え、1月だけで26回のライブと5回のテレビ番組を行った。
月末にオランダで行われたTVショーの頃には、私はもう普通の状態ではなくなっていた。
他のバンドと一緒に楽屋に並び、出番を待っていると、ベースを持った男がヴァイオリンを持った女の子の隣に立っていた。
「やあ」と彼は言った。
「やあ、なんていうバンド名なんだ?」と私は聞いた。
「シック」
「なんだって?」
「シック、 シック」と彼は繰り返した。
「知らないなぁ」


ついこの間まで、ボブ・ディランABBAのメンバー、元ビートルズと交流できることに喜びを感じていたのに。
しかし、そんな「だからどうした」という心境で、2月にはシアトルでさらに61回の全米公演を行うことになった。

「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」誌では、チャーリー・マーレイが次のように書いていた。


エルヴィスとその仲間たちは、完全に足が止まっている。
疲弊し...消耗し...躍動しようとするが...スターターが始動しない

*1:かなりのサイコパスっぷりである

*2:コステロとアトラクションズはABBAの大ファンだった

*3:離婚賛歌「Knowing Me, Knowing You」の演奏がテキトーだったのはパラドックス、つまり我々がこれから結婚するからそういう演奏になった、という意味なのか?

*4:ほぼ同時期に大滝詠一もウォール・オブ・サウンドを試行していて、不思議なシンクロを感じる

*5:コレクターズアイテムを売ったということ

*6:このあたりの話はコステロの自伝にも書かれている

*7:ストック・エイトキン・ウォーターマン https://en.wikipedia.org/wiki/Stock_Aitken_Waterman

*8:このころはそういう表現が浸透してなかったのかなぁ?ディープ・パープルの1972年のライブ盤は「Live in Japan」なので普通に理解できると思ったのだけれど。まあ、コンサート、とかリサイタルとかショーって言うのが一般的だったのかな?この頃は。

*9:オージーよ・・・