俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 2 On the Road - Part 1


1966〜1967年頃の話。ブルース・トーマスは18〜19歳の頃。

CHAPTER 2 On the Road - Part 1

イブニング・ガゼット紙の美術部で働いていた私の秘密の目的は、エリック・クラプトン*1をできる限り多くの広告に登場させることだった。
「春の花嫁」特集があれば、花婿はエリック・クラプトン。地元のヘアサロンの広告があれば、クラプトンを使って読者が楽しみにしているヘアカットを紹介する。


ガゼットの新しいメッセンジャーボーイの一人は、どことなく見覚えのあるモッズヘアの若者だった。彼は、BEAのフライトバッグを肩にかけ、まるで休暇やスパイ活動やツアーに出かけるかのように、「飛行機に乗る前にこのメッセージを置いていこうかな」と言いたげな雰囲気で冷静にメッセージを届けた。
彼はその日もポール・バターフィールド・ブルース・バンド*2のアルバムを小脇に抱えて歩いていた。その日の昼休み、私は会社の食堂で彼に話しかけられた。
彼は「パープル・オニオンとウィチェリーズで君を見たことがある」と言ったが、私も彼を見たことがあった。
彼は、ローカルバンド、ロードランナー*3のギタリストのミッキー・ムーディ*4*5だった。


私はここ数週間、毎晩のようにウィチェリーのレコードショップに電話をかけていた。ザ・フー*6の1枚目のLPを予約しており、届くのを待っていたのだ。毎晩、仕事を終えて駅に向かう途中に立ち寄っていた。
ディーン・ウィチェリーは、諦めたような笑みを浮かべながら、「悪いな、オールドボーイ」と言う。

「パープル・オニオン」は、地元のクラブ「ミスター・マッコイズ」の上にあるコーヒー・バーで、そこではバンドが演奏していた。ジョン・マッコイ*7はこの2つのクラブを所有しており、町の南側にあるカークレヴィントン・カントリー・クラブも所有していた。直近でマッコイズで演奏したバンドはザ・フーで、70ポンドというギャラの通例を破り、300ポンドものギャラを得たと噂されている。


その夜のクラブは、通常の、そしておそらく法律で定められた定員を超える大混雑だった。
ステージに登場したザ・フーは2時間遅れだったが、楽屋で口論していたのためだと誰かが言っていた。
モノクロで3インチTVのスピーカーで聴くことしかできなかった彼らが、ターゲットTシャツのキース・ムーンユニオンジャックのブレザーを着たピート・タウンゼント、ジョン・エントウィスルとロジャー・ダルトリーとともに、ステージに飛び込んできた。
ステージの後ろの壁全体が、大きなマーシャル・アンプの壁で完全に覆われていて、文字通り音の壁になっていた。タウンゼントがプラグをリッケンバッカーのソケットに差し込んだとき、半分身をよじって反り返った。それはすぐに、ものすごい音のウネリとなりぶつかってきた・・「グリーン・オニオン」だ。
しかし、ここは私がよく知っているブッカー・Tのタイトなクラブのグルーヴではなく、戦場のようなバージョンだった。

しばらく経つと、音と一緒に粉々の破片が飛んできた。彼らは機材をぶっ壊していたのだ!まだ1曲目なのに、機材を破壊している!
そして、彼らがいなくなった後、ロードクルーがアンプのスイッチを切り、瓦礫の撤去に取り掛かった。


私はどうにかして2階の小さな楽屋にたどり着き、タオルを肩にかけたピート・タウンゼントの隣に腰を下ろした。空気はまだパチパチしていた。
私は、彼が私のほうをちらりと見て「おい、お前は何を求めているんだ?」と言うのを待った。
「ピート、新進気鋭のミュージシャンに何かアドバイスはないかな?」
彼はタオルの片方を顔に当てて拭きながら言った。「ドラッグを目一杯飲めばいいぞ!」

私はその頃、まだザ・フーの新曲を聴いていなかったが、3日後にようやく聴くことができた。新しいアルバムが届いたとき、私はあの晩のステージで聞いたようなアナーキーさを期待していたのだけれど、それが「The Kids Are Alright」のような、よくできたポップソングばかりであることが判明したときには拍子抜けしてしまった。

(「おい、お前は何を求めているんだ?」)

ああ!もしかしたら、私はもう準備万端だったのかもしれないな。


ザ・フーは一時期ハイ・ナンバーズというバンド名だったことがあるがその頃だろうか(1965年頃)
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すぐにマッコイズとカークから、同じバンドが演奏していたのにも関わらず、さらに遠くのクラブ、ニューカッスルのクラブ・ア・ゴーゴー、マンチェスターのツイステッド・ホイール、そしてシェフィールドにあるモジョ(ピーター・ストリングフェローというプロモーターが運営)へ旅行する私たちのグループができた。ロンドンのマーキー・アンド・ザ・ウィスキーやウィンザーのリッキー・ティックなどのクラブについては知ってたのだが、それが私たちが行った最も遠いところだった。


次にミッキー・ムーディに会った時には彼は自分のバンドで演奏したいレパートリーについて話し始めた。それは、グラハム・ボンド・オーガニゼーションがジャック・ブルースジンジャー・ベイカーリズムセクションでやっていたような曲だという。
ロードランナーズのベース・プレイヤーだったポール・ロジャース*8は、歌に専念するためにベースをやめたいと言っていたそうだ。

要するに、僕はロードランナーズのベーシストになりたかったのか?

ブルース・トーマス本人のYoutubeチャンネルでロードランナーズの当時の音源がアップされている。
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ピンキー・グラヴのベースギターはトレマーズ解散時に返却したので、当面はポール・ロジャースのVox(市場で最も安い楽器の1つ)のベースギターを使うことにした。
ミッキーは少し高級なハーモニー・ギターを持っていたが、ハーモニーの支払いが終わり次第、フェンダーテレキャスターを手に入れる予定だと私に知らせてくれた。彼は、私が彼と同じように野心的であることを確かめたかったのだ。ミッキー・ムーディーがプロミュージシャンを視野に入れているのは明らかだった。

私がロードランナーズでベースを担当して間もなく、ジョン・マッコイがインタビューで「ポール・ロジャースはロック界で最も偉大な声の一人になるだろう」と明言していた。

私はまだプレミアリーグに所属していなかった。しかし、昇格を目指すバンドに所属はしていた。

奇しくも完璧な比喩がすでに用意されていたのだ。実はポール・ロジャースのバレーロードの隣人はブライアン・クラフ*9だった。彼はいずれ、地方の弱小サッカークラブ、ノッティンガム・フォレストをヨーロッパカップ2連覇に導くという驚異的な偉業を成し遂げる人物だったのだ。


ポール・ロジャース、ミッキー・ムーディと私の3人はモッズヘアだったが、ロードランナーズのドラマー、デイヴ・アッシャーは赤毛のモップだったので、すこし気になっていた。彼はジンジャー・ベイカーに敬意を表してレッド・アッシャーに改名しようと考えていたようだ。
また、キーボード奏者のコリン・ブラッドレーは、トラック運転手のマネージャー、ジョー・ブラッドレーの息子だった。コリンはまだ古風な髪型をしていて、ルックスや機材のアップグレードにそれほど真剣に取り組んでいなかった。
さらに、コリンは仕事を離れ家を出てロンドンに向かうということには興味がなく、他のメンバーほど覚悟ができていないことがわかった。
昔のバンドの写真には、モッズヘアのデイヴやクイフのコリンなど、すっきりとした若者たちが写っていた。
しかし、私が加入したことで、音だけでなく見た目も気にする人が多数派になった。スチュワートでツートンのモヘアスーツを15ポンドでオーダーメイドした。フィッシュテール・カフス、5インチポケットフラップ、ベントの代わりにインバーテッドプリーツなど、何でも思い通りにしてくれた。ソフトロールカラーのヘリンボーンシャツとボウリングシューズを合わせれば、パーフェクト。


しかし、一夜にして変化が起きたというわけではない。私はまだVoxのベースを使っていることが恥ずかしかった。そこで、ある日、ベースギターを分解してボディの形を整え、ブルーチェックのビニールシートで覆って、再び組み立ててみた。残念なことに、その過程でネジ穴が大きくなってしまい、ネジがしっかりと固定されなくなってしまった。次のライブの最中に、ネックが徐々にボディに向かって折れ始めてしまった。
そうすると、弦がたるんで、音が低くなってしまう。スキッフル(ジャグバンド)のベーシストが、茶箪笥の上にほうきの柄と弦を置き、ほうきの柄を前後に傾けてテンションを変えるのと同じように、私はネックを引いて弦のテンションを適正に保つようにして演奏していた。ところが......ハミルトンの楽器店の中古のウィンドウに、赤いフェンダー・ベースが現れたのだ。少し前まで自転車で見に行っていたのと同じものだった。とにかく、そのベースは50ポンドで売られていた。

私はベース・プレイヤーになっていた。

ブルース・トーマスの赤いフェンダーベースはこの時がルーツのようだ
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ある日、ポール・ロジャースの家の前まで迎えに行った。
彼はバンに乗り込んだが、しばらく経ってから彼が何も話していないことに気づいた。

「どうしたんだ?」とミッキー・ムーディが言った。
「ああ」
「あまりしゃべってないね」
「何を言っていいかわからない...。ギタリストを見たばかりなんだ...」。
僕らがバンで彼の家に行っている間、彼は『Ready Steady Go』を見ていた。
ミッキーと僕は顔を見合わせた。
「ギタリストを見ただけで?」と。

ポールからは返事がない。
「彼は上手かったのか?」
「あんなの見たことない」
「それで、彼は何をしたんだ?」
「わからない、説明できない、ただ凄かったんだ」
「んー、名前は?」
ジミ・ヘンドリックス*10

1966年のジミヘン
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ギターヒーローの時代が到来した。
それから間もなく、ミッキー・ムーディとポール・ロジャースと私はカークに向かい、私が作った「Curl Up and Dye」の広告の主役だったエリック・クラプトンを擁する新生クリーム*11を観に行った。
その後、私たちは楽屋に行った。ミッキーは少し敬虔な気持ちで、クラプトンのレスポールを手に取った。
「それを触る許可は得たのか」と汗だくのジンジャー・ベイカーが言った。
「ああ」とミッキーが言ったが、本当だった。
「それならいいんだ」
その夜、クリームを立ち見で見ていた。キーボード奏者がいなくても何の不足も感じさせないギターベースのトリオだった。我々はお互い目が合って軽くうなずいた。
その数週間後、キーボード奏者のコリンは、脱退を余儀なくされたのだ。

私はすぐに、レコードプレーヤーのアームを持ち上げて、「フレッシュ・クリーム」のベースパートを覚えたい場所に針を落とし、何度も何度も練習した。

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ロードランナーズは徐々に大きな会場に移り、学校ではなく、大きなダンスホールで演奏するようになった。リハーサルを古いテープマシンで録音して振り返り、上達に役立てていた。
クラブに入るのにお金を払う必要はなくなり、楽屋にも普通に入れるようになった。ロッド・スチュワートのライブが終わった後、カークの舞台裏にいた。
そこにはチェックのスーツを着たモッズのロッド・スチュワート*12がいた。
その日は彼の21歳の誕生日で、私たちはテーブルでグループになって座り、ジョン・マッコイがロッドにネクタイをプレゼントした光景を見ていたのだが、その時、我々は業界の外ではなく、内側から見ているような気がしていたのだ。


音楽界ではすでに新しい変化が起きていた。


エリック・クラプトンレスポールからギブソンSGに持ち替えていた。このギブソンSGは、ビートルズがベイカー・ストリートにオープンした新店舗の壁画を手がけたチームによって、サイケデリックなイメージで塗り替えられた。この頃のスターたちは、インドのカフタンや古いミリタリージャケットなど、さまざまなエキゾチカを身にまとっていた。ある晩、私が金色の編み込みが施された真っ赤なジャケットを着てマッコイズに現れたとき、周囲はまだキラキラ光る青いモヘアの海だったので、大騒ぎになった。
南アフリカ戦争を描いたマイケル・ケインの映画はその2年前に公開されていたが、隊列を乱した私を殴る者は誰もいなかった。その代わり、それ以来私は単に「ファッキン・ズールー」と呼ばれるようになった!


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運命の一週間はすぐにやってきた。

私は親に仕事を辞めたことを告げず、バンドと一緒にロンドンへ行くことになった。しかし、ガゼット紙の誰かが私たちの動きを察知し、出発の数日前に「地元のバンド、名声と富を求め出発」という記事が掲載された。
私はそのページを削除するために、我が家の新聞を事前に手に入れたものの、それは避けられない事態を遅らせただけだった。
翌日、その話は村の話題となった。私は母の顔を見たとき、そのことを知っていると察した。

ハードな数日間だったが、私は絶対に行くつもりだった。
私を監禁しない限り、それを止めることはできない。
私は、「軽装で出かける(イギリスの慣用句)」というほどではなかったが、スーツケース、ギター、8ポンド強の持分などで出発した。


フォード・テムズ・バン(元ベーカリーのバン)は、側面に「マザーズ・プライド」の文字がかすかに残っていたが、私たちとわずかな機材には十分すぎるほどの大きさだった。私たちは、ロンドン北部の郊外にあるパブの駐車場で、機材の上に寝泊まりして、名声と幸運への道を歩む最初の夜を過ごした。翌朝、ポールは妹のティナに電話をかけ、ロンドンにあるティナの家の床で寝られるように手配してくれた。

私たちは『イブニング・スタンダード』紙の広告を見て回り、フィンズベリー・パークの一軒家、週7ポンドの部屋を見つけた。その家の他の部屋と隣の部屋は、スコットランドのバンドだけが住んでいることがわかった。その時は、将来マーマレードやアベレージ・ホワイト・バンドのメンバーになる人たちと一緒に住むことになるとは思ってもみなかった。


北部を離れる前に、いろいろなエージェンシーに手紙を書き、ブッキング・エージェントの面接を受けることに成功した。また、ダンスタブルのカリフォルニア・ボールルームで、ライド・ユア・ポニーと炭鉱労働のスター、リー・ドーシーをサポートするライブを実現させた。彼は素晴らしかったが、近年の音楽シーンの移り変わりにより、リー・ドーシーのスター性はすでに衰えつつあった。

その週の終わりに開催されたフェスティバルで、アーサー・コンリーは観客を煽るためにステージに駆け上がり、ヒット曲「Sweet Soul Music」の冒頭を叫んだ。
「いい音楽は好きか?」
それに対する返事は、今までのほとんどは「イエー!」だった。
しかし今、彼の問いかけには「ノー!」の声が上がり、その後に缶入り飲料の雨が降り注いだ。


民衆はマントとマスク、そして頭の上には火のついたライター燃料の皿を乗せた地獄の神、アーサー・ブラウンを求めていたのだ。

だから、カフタンは着ていないけれども、シャツはまっさらな無地ではなく、花柄のはだけたものになった。
デイブ・アッシャーは、脇の下の金属糸が錆びているシルバーのルレックス・シャツに、背中に「Tarmac」とステンシルされたロバ・ジャケットを羽織っており、少々勘違いしていたようだ。彼の本当の野望は、バンドで十分なお金を稼いでローリーを買い、自分の運送業を始めることだった。

カナ・バラエティ・エージェンシーは、メイフェアの迷路のようなビルにある事務所で、ガラガラの古いワイヤーケージのエレベーターで辿り着くことができる。その事務所が私たちと契約してくれた。当時の平均週給の2倍、1人あたり週40ポンド(約8万円)の収入が得られることになった。当時の平均的な週給の2倍だ。それを受け入れなければ、エージェントに落とされるか、もっと悪いことに、エージェントに2階の窓から落とされるのがオチだろう。シャロン・オズボーンは、父親であるエージェントのドン・アーデン*13がそのような暴力の加害者であったことは、常に激しく否定している。


ロードランナーズは、スコットランドの北の果てに1週間のツアーに駆り出された。燃料費、宿泊費、その他の経費を織り込んでいなかったので、週40ポンドの収入があったとしても、そのほとんどを差し引かれることになる。アバディーンでの最初のライブでは、女の子たちはみんなボールルームの中央に身を寄せ、男の子たちはその周りをゆっくりと円を描くように徘徊し、適切な繁殖力のある仲間を選ぶという奇妙な部族式の儀式を行っていた。エルギンでは、教会のホールで演奏したが、バルコニーで演奏しなければならず、観客からはまったく見えない。その週の間、私たちはエルギンのマクビーン夫人の下宿を拠点としていた。静かな村の教会堂で、墓石の間にあるベンチに座り、ジミ・ヘンドリックスがステージ上でギターに火をつけたというメロディーメーカーの記事を読んだ。


私たちが行った1年前には、ストックトン出身の別グループ、パンサーズがプロ転向し、まさにこの同じ週のライブに派遣されていた。それは新人の彼らにとっては前人未到のことで、茨の道だ。ただ、事態は彼らの思う通りに進まなかった。
結局、1週間後に彼らは荷物をまとめて帰ってしまった。しかし、我々の場合は、少なくとも当分の間においては、彼らよりももっとタフだった。


ギグがない時は、デイヴはトラックの運転手にヘッドライトで挨拶をする日々だったが、私たちは家にこもっていた。4つのベッドは、すべて1つの部屋にあった。ポール・ロジャースのベッドは窓の下、ミッキー・ムーディのベッドは反対側の壁、私とデイヴのベッドは暖炉の反対側の長い壁にあった。暖炉には電気ストーブがあり、ラジオ・キャロラインのノンストップ・ポップスを聴きながら、パンを焼いていた。暖炉の横のミッキー・ムーディのベッドの隣にはレコードプレーヤーがあり、私たちが集めたシングルが山積みになっていた。レーベルは、赤と黄色のインターナショナルR&Bと、黒と金のチェスが多かった。

部屋の真ん中にはデイヴのドラムセットがあり、完璧にセットアップされていたので、我々はそれにぶつからないように注意しながら歩かなければならなかった。もし、デイヴが自分のテリトリーを主張しようものなら、足を上げてカーペットの上におしっこをしたほうが、みんなにとってよほど楽だっただろう。
しかし、彼の不安はそれだけにとどまらず、私のことを「坊や」と呼ぶようになった。「オウ、坊や、ドラムの近くで咳をしたら、殴るぞ」と威嚇するように言う。
数週間後、彼が真っ先に北へ帰されたのは、驚くにはあたらない。


* * *


私たち3人はゴールダーズ・グリーンにある大きな家に移った。この家には代わりのドラマー、アンディという温厚な眼鏡をかけた男の子がいて、彼のお母さんは私たちが家の一部を占領することを楽しんでいるようだった。彼女はきちんとした食事を作ってくれるし、みんなおそろいの服も買ってくれた・・・ありがたいことだ。

家の奥の部屋はリハーサル室になっていた。アンディの友人で、数軒先に住んでいるギタリストが、時々顔を出していた。彼はレスポールを持っていて、ブラック・キャット・ボーンズ*14というブルース・グループで演奏していた。


ポール・ロジャースがハムステッド・ヒースまで歩いて行って、人気のない場所を探していたことがあった。
そこで、ポールは文字通り大声で叫んでいた。そして彼はまるでひどい喉頭炎になったかのような声で帰ってきた。

若い男性には当たり前のことだが、変声期には声が枯れて突然低音域に落ちてしまう。しかし、彼は今、自分の声をさらにもう一段低くしようと試みていたのだ。
やがて彼の声は、年配の男性のもののように聞こえ、ハスキーな質感を持つようになった。
そして、目を閉じれば黒人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドの声を聴いているのかと思うようなヴォーカル・フレージングを身につけ始めていた。


ある週末、ミッキー・ムーディとポール・ロジャースがいないとき、アンディと私はその週の『メロディ・メーカー』に掲載されたばかりの広告に反応した。詳しいことは書かれていなかったが、行間を読むと、ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ*15エリック・クラプトンの後任となったピーター・グリーン*16が掲載したものだと思われた。ロンドン中の落書きが「クラプトンは神だ」と宣言していた時代、ピーター・グリーンは密かに受け入れられていたのである。
だがブルース・プレイヤーとしての彼には、クラプトンと同等かそれ以上に、絶妙なタッチと素晴らしい音色を持っていた。その頃、見習い期間を終えたピーター・グリーンは、自分のバンドを結成しようとしていたのだ。ミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーは、契約上フリーになれば、いずれメイオールのバンドを離れて彼に参加すると考えられていた。その間、短期的にはリズム・セクションに空きがあった。

私は広告の連絡先に電話してみた。ピーター・グリーンには、すでに演奏のための準備が整っているため、アンディの家に来るように勧めてみた。数時間後、彼はジェレミー・スペンサー*17と名乗るもう一人の男とともに現れた。


ああ、主よ!ピーター・グリーンが歌いながらギターを弾き、時にはハーモニカに持ち替え、ジェレミー・スペンサーが歌いながらボトルネックを弾くという、このセッションの2時間のテープが残っていれば良かったのだが。

オーディションの最後、ピーター・グリーンはとても親切だった。
「君はすべての音を持っている」と彼は言う。
「...すべての音を持っている...が、しかし、君はそれをまとめることができていない」
(数年後、エリック・モリカムがアンドレ・プレヴィンに「私は正しい音をすべて弾いているが、必ずしも正しい順序で弾いているわけではない」と言うコメディスケッチと同じだった)

そして、彼は私が持っていたBBキングの『Live at the Regal』と『Blues is King』を指さしながら、「...そして、君はいいレコードを持っているね...だから、頑張れば、きっとうまくいくよ」と付け加えた。
この日は忘れられない一日となったが、将来的にピーター・グリーンと私が一緒に演奏することになるような手がかりは、まったくなさそうだった。

アンディのところで長居をすることをせず、ポール・ロジャースとミッキー・ムーディと私はウェスト・ハムステッドの部屋に引っ越したが、その地下の部屋には有名なジャズベーシストのジェフ・クライン*18夫婦が住んでいた。

時々、彼を訪ねて会いに行ったが、彼の音楽理論の理解度は、私をはるかに上回っていて、彼は私を指導するために最善を尽くしてくれた。

「ナインス(9th)を弾いたことがあるか?」と聞いてきた。
「それは一旦何なんだ?」と私が返す。
「下の弦の音を弾くと同時に上の弦の音を弾くんだ、その音は下の弦から9音離れているんだ」
「ああ、なるほどね。だからコードを6thとか7thとか言うんだな?」
「その通りだ」


そして、「早く自分の居場所を見つけたい」と密かに思っていたのは、私だけではなかったことがすぐにわかった。

ポール・ロジャースは突然脱退し、前に私たちが出会ったブラック・キャット・ボーンズのギタリスト、ポール・コゾフと一緒にフリーという新しいバンドを結成してしまったのだ。

私は負けてしまった。

ミッキー・ムーディも北に戻ってしまった。ただ、それは音楽を諦めたからではない。ジョン・マッコイがクローダディーズを解散して4人組のトラムライン*19を結成し、そこにミッキー・ムーディがギタリストとして参加することになったためだ。

クリスマスが近づくにつれ、他のみんなは新しいバンドを結成していったが、私は一人になり余剰人員となってしまったのだ。

All Right Now - Free (1970)
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ボーカル:ポール・ロジャース

Lie Down - Whitesnake (1978)
www.youtube.com
一番右の、ハットを被りレスポールを弾いているのがミッキー・ムーディー

*1:エリック・クラプトン https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-c/eric-clapton/

*2:ポール・バターフィールド https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Butterfield

*3:ロードランナーズ(1963-1967) https://british-rock.salmon-news.com/top/group-r/roadrunners/

*4:ミッキー・ムーディー - ホワイトスネイクへの参加で有名になったギタリスト https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-m/micky-moody/

*5:ホワイトスネイク ディープ・パープルを脱退したデヴィッド・カヴァーデイルのリーダーバンド https://british-rock.salmon-news.com/top/group-w/whitesnake/

*6:ザ・フー(1964-1982) https://british-rock.salmon-news.com/top/group-w/the-who/

*7:ジョン・マッコイ https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-m/john-mccoy/

*8:ポール・ロジャース ボーカリスト、フリー、バッド・カンパニー、フレディ死後のクイーンと共演などで有名 https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-r/paul-rodgers/

*9:ブライアン・クラフ サッカー選手https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%95

*10:ジミ・ヘンドリックス https://en.wikipedia.org/wiki/Jimi_Hendrix

*11:クリーム https://british-rock.salmon-news.com/top/group-c/cream/

*12:ロッド・スチュワート21歳の誕生日は、1966年1月10日

*13:ドン・アーデン https://en.wikipedia.org/wiki/Don_Arden シャロン・オズボーンの実父、シャロン・オズボーンはブラック・サバスオジー・オズボーンの妻かつマネージャー

*14:ブラック・キャット・ボーンズ 後にフリーを結成するポール・コゾフとサイモン・カークが在籍 http://british-rock.salmon-news.com/top/group-b/black-cat-bones/

*15:ョン・メイオール&ブルースブレイカーズ https://british-rock.salmon-news.com/top/group-m/john-mayalls-bluesbreakers/

*16:ピーター・グリーン https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-g/peter-green/

*17:ジェレミー・スペンサー https://british-rock.salmon-news.com/top/musician-s/jeremy-spencer/

*18:ジェフ・クライン https://en.wikipedia.org/wiki/Jeff_Clyne

*19:トラムライン https://british-rock.salmon-news.com/top/group-t/tramline/