俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 1 Early Tremors


青少年期のブルース・トーマスの話。

なお、ブルース・トーマスはイングランド北部のストックトン=オン=ティーズに住んでいた。
goo.gl
ロンドンまでは246マイル、400kmほどある。東京〜名古屋間より少し遠い。


CHAPTER 1 Early Tremors

グローブ座のチケット売り場の前の舗道で、毛布にくるまって一晩中待ちぼうけを食らった。翌日のイブニング・ガゼット*1には、まさにそんな私の写真が掲載されていた。
後に史上最高のバンドになるであろうこのバンドのチケットは、6/6d(昔のお金で6シリングと6ペンス、現在は32½ペンス、約50セント*2、私が毎週新聞配達で稼ぐ金額の半分)だった。


ビートルズが与えたインパクトは、彼らの前にステージに立っていた人たちを見れば、なんとなくわかると思う。


サポートアクト達はみんな、1950年代にしっかり根ざしていたグループたちだった。
バーノンズ・ガールズ*3は、かつてリバプールのサッカー・プール会社で一緒に働いていた仲間たちだった。ホットパンツにフィッシュネット、ピンクのギンガムブラウスをウエストで結び、ポップ・グラマーを目指していたが、オクラホマ的な雰囲気も十分あった。彼女たちの多くは、マーティ・ワイルド(娘のキム・ワイルドは後にポップシンガーになる)やジョー・ブラウン(同じく、娘のサム・ブラウンもポップシンガーになる)のように、当時のポップシンガーの一人や二人と結婚することになった。
ケストラルズ*4は、4人組のドゥーワップバンド。
ピーター・ジェイ&ジェイウォーカーズ*5は、ドラマーのピーター・ジェイが統率し、彼のソロでクライマックスを迎える。ステージが暗転すると、ツインバスドラムの中のスポットライトがフットペダルによって点滅していた。


バーノンズ・ガールズ
www.youtube.com

ケストラルズ
www.youtube.com

※ピーター・ジェイ&ジェイウォーカーズ
www.youtube.com

ビートルズが登場したとき、彼らは火星からやってきたのではないかと思ったのだ。それまでのものから飛躍的に進歩した。彼らの髪はアップではなくダウンで、テカテカの脂ぎったものではなく、洗いざらしのサラリとしたものだった。そして、スーツの代わりにピエール・カルダンのノーカラージャケットを着用し、キューバンヒールのアネーロ&ダヴィデのブーツを履いていた。彼らの外見も、音楽も、身のこなしも異なっていた。しかし、それ以上に、まるで世界中の空気感が突然変わったかのようだった。


私は確かにビートルズを観に行った。しかし、彼らの声はあまり聞こえなかった。彼らがステージに立つと、2台のVox AC30ギターアンプと15インチのベーススピーカーは、2千人の思春期の女の子のヒステリックな声には敵わなかった。しかしそれでも、そこにいられただけで十分だった。たとえ、私の後ろの列の女の子がコンサート中、彼女の痙攣にシンクロしてずっと私の髪を鷲掴みにし、上下左右に引っ張ったとしてもだ。
「ポールのギターに目がくらんだわ」と彼女たちは叫んでいた。


ビートルズの登場がもたらした大きな変化を言い表すことはできない。それまでは、テレビと同じように、この国全体がまだモノクロで存在していた。
MTVやYouTubeが普及した今から見れば、テレビやラジオから流れてくるポップスやロックがいかに少なかったかがよくわかる。
平日、ラジオで流れる音楽は、ミセスのための選曲に限られていた。ミセスたちが家事の手を休めて、足を上げ一息つきながら、夫がパンを買いに行っている間に聴くものだった。
日曜日には、家族でローストビーフを囲んで「ファミリー・フェイバリット」を聴いていた。グレン・ミラーやヴェラ・リンのほか、軍歌のサウンドトラックのような、じきに消えゆく響きがその頃はまだ流れていた。


ラジオ番組は、2つしかなかった。サタデー・クラブは土曜日の朝、2時間にわたってモダン・ミュージックを流し、新進気鋭のバンドがライブで登場するのが特徴だった。週半ばの「ジョー・ロス・バンド・ショー」も同じように現役のバンドが出演していたが、バンドの専属ボーカリストロス・マクマナス(後で知ったが、彼は幼い息子のデクラン*6を連れてきていた)が歌うグレン・ミラー風のポップスのカバーを主に取り上げていた。
それ以外はラジオ・ルクセンブルクだ。ベッドのシーツの下でスピーカーを耳に近づけて低音を響かせながら聞いていた。キャバーンから生中継される番組で、マージービーツ*7というバンドの一人にジョニー・グスタフソン*8という優秀なベース奏者がいた。ラジオ・ルクセンブルクは、音楽を中断して「こんにちは、こちらはホレス・バチェラー、サッカープールの有名なインフラドロー法の発明家です」と告げる声でよく知られていた。


マージービーツ
www.youtube.com

テレビで最初に放送されたロック番組は『シックス・ファイブ・スペシャル』で、クリフ・リチャードなどの歌手や、髪を派手な色に染めたパンクの原型であるウィー・ウィリー・ハリスなどの奇術師が登場した。この番組には、どこにでもいるようなバーノンズ・ガールズ、マーティ・ワイルド、ジョー・ブラウンといった、次世代を担うロック・ジェネレーションも出演していた。
『ジューク・ボックス・ジュリー』や『サンキュー・ユア・ラッキー・スターズ』といった新番組もあったが、プレゼンターは、旧態依然とした元RAFの男性で、教養のある母音で、本当は外交問題のような重要な番組を担当したかったが、目新しい番組を頼まれたことに若干の恥ずかしさを感じていた都会的な物腰の人ばかりだった。


しかし、すぐに革命が起こり『レディ・ステディ・ゴー』のような本格的なロック番組が登場した。
当時の最高の新人バンド、ザ・フーキンクス、ムーディ・ブルース、ビーチボーイズモータウンのスターなどの来英公演がすべてライブ演奏され、ポップシンガーのようなキャシー・マクゴワンといった司会者が登場した。サンディ・サージャント率いるRSGダンサーは、その尾羽を振る姿がギターのことをすべて忘れさせてくれた。


* * *


私がまだ半ズボンをはいていた頃、初めて見たバンドがクリフ・リチャードとシャドウズで、『Babes in the Wood』のグローブ座に出演していた。シャドウズは、滞在中に『Stars Fell on Stockton』というインストゥルメンタルのヒット曲の一つを書いたこともある。彼らは当時、バンドとしては最高で、ハンク・マーヴィンはバンドの中心的存在だった。分厚い黒眼鏡と赤いフェンダーストラトキャスター、そしてそのトレモロ・アームの使い方が印象的だった。
しかし、私の視線はベース・プレイヤーのジェット・ハリス*9に引き寄せられ続けた。この男は、頬がこけ、ブロンドの髪、小柄な体型で、お似合いのフェンダープレシジョン・ベースを実際よりも大きく見せていた。
その後、ハミルトンの楽器店に同じようなベースギターが入荷すると、私は自宅から4マイルを自転車で走り、窓からそれをジッと見つめたものだ。平均賃金が年間1000ポンドにも満たなかった時代に、216ポンドという値段だった。これを手に入れるには相当の時間がかかりそうだった。


しかし、新聞配達をすることで、隔週で開催されるパッケージ・ショーのチケットを買うだけの収入はあった。あるショーの翌日、私はシャツもネクタイもないクルーネックジャンパーで現れたため、学校から帰されてしまった。
ホリーズヤードバーズ、その他のブリティッシュ・ビート、そしてソロモン・バークウィルソン・ピケットといったアメリカン・ソウルも登場した。キンクスのホワイトジーンズと赤いハンティングジャケットはとても印象的で、私がすぐに参加することになるバンドもこのスタイルを真似することになる。彼らのシングル「You Really Got Me」を購入し、3日間ノンストップで聴き続けたが、次第に歪んでボロボロになってしまった。


私は庭の物置で初めてベース・ギターを作った。ほぼバイオリンのような形をしていたが、音楽の初歩を全く理解していなかったため、ネックのポジションドットを飾り程度に適当に配置し、12フレットではなく11フレットで作った。自作のピックアップは、地元の電話ボックスの受話器から磁気コイルを取り出したものだった(・・・という説がある)。


毎日、毎晩、8~9時間、そのベースを弾き、ソファに座ってテレビを見ながら、どんな小さな曲で音を拾った。家族がよく我慢してくれたものだと、今になって感心している。そのベース・ギターは、私のウィリー*10を除けば、その日の夜の最後に、また朝起きて最初に触れるものだった。


練習を重ねると、ブッカー・Tのアルバム『Green Onions』でのドナルド・ダック・ダンの演奏のように、レコードで聴いたシンプルなリフのほとんどをコピーできるようになった。でも、ポール・マッカートニーのメロディラインは、コードチェンジがかなり多い。ポールのベース・パートは一音一音を完全にコピーして弾くことはできたが、それがどのように生み出されたかまでは理解できなかった。また、マッカートニーがメロディーの達人なら、ジェームス・ジャマーソンはシンコペーションと対位法の達人である。私はその違いを認識していて、それぞれの分野における達人を見つけていた。


私はベースを、シンプルかつ、タイム感とグルーヴ感を持って、器用かつスムーズに弾くことができた。それは天性のものだったようだ。
私の友人にデイヴ・ポープ*11という上手いギタリストがいた。彼はどこかのバンドに入ってプロになることもできたのだが、彼の目標はセインズベリーの見習いマネージャーになることだった。
ある日、彼に「Roll Over Beethoven」のベースラインを見せてほしいと頼み弾いてもらった。そして彼は私にベースを渡し「3弦、4フレット」などと声でレクチャーしようとしたのだが、私は彼が弾いたものを、すぐにそのまま弾いたことがあった。


彼は真剣な顔で言った。
「予言しておくけど・・・君は本当にいいプレイヤーになると思うよ」
とまあ、少しは印象に残ったかもしれない。
しかし、若き日のモーツァルトが、交響曲を一度だけ聴いただけで、すべての楽器に対応するすべての楽譜を書き上げたことよりは、印象的なことではなかったかもしれない。


ベースを弾いている時間は長かったが、同時にハーモニカの練習もしていた。ブルースマンが使うハーモニカであるエコー・スーパー・ヴァンパを何本か持っていて、シリル・デイヴィス&リズム・アンド・ブルース・オールスターズの『カントリー・ライン・スペシャル』という曲を演奏できるようになった。
私が初めてミュージシャンとしてステージに立ったのは、ベースプレイヤーとしてではなく、トレマーズのゲスト・ハーモニカ奏者としてだった。彼らは、シンガーを除けば全員私と同じ学校に通っていた。
ある週末、トレマーズイーグルスクリフ・アッセンブリー・ルームに出演したとき、私は彼らと3曲演奏した: マディ・ウォーターズの『ガット・マイ・モジョ・ワーキング』、ウィリー・ディクソンの『リトル・レッド・ルースター』、そして『カントリー・ライン・スペシャル』。


当時から、ポップやロックと呼ばれるものの間には、すでに溝があった。レコードを購入する際にも、すでに少しエリート主義的な要素があった。大半の「子供たち」がビートルズストーンズを好んでいたのに対し、グラマースクールの男子は、すでに自分たちのルーツや影響に関心が行っていて、マディ・ウォーターズチャック・ベリーのアルバムを買っていた。
我々は、後に著名なラジオ司会者や音楽評論家になるチャーリー・ジレット校長が主宰する音楽協会にいた。


トレマーズは、私にフルタイムのハーモニカ奏者として加入するよう要請した。ライブの前に地元の電気屋に寄ってマイクを借りてから出かけていた。
時にはノースアラートンやセッジフィールドまで遠征し20ポンド稼いでいた。古いベッドフォードバンに全員詰め込まれ、目眩がするほど熱いエンジンカバーに押し付けられて移動していた。リードギタリストのトニー・アトキン(息子)の父親がバンを運転していたが、ときどき彼が陸軍時代に知ったキワどい歌を歌って、自分がまだ若者の一人であることに気付かされた。


ブルースは、「Get Happy!!」の「I Stand Accused」でハーモニカを披露しているが、なぜ上手いか理由がわかった。
www.youtube.com

労働者クラブのサーキット、ダンスホール、学校でのダンス、パブでのライブなど、競争は激しかったが、望めば仕事はあるものだ。
だが多くの会場では電気系が良くなく、ヒューズが飛ぶこともしばしばだった。高速道路もなく、ダラムのような近くの町まで行くのに2、3時間かかった。フェンダーギブソンのギターが簡単に手に入るようになる前のことで、ロゼッティ、ホフナー、ヴォックスといったギターでやりくりしなければならない。


エフェクトといえば、ワトキンスのコピーキャットや高価なビンソンのような最初のテープエコーユニットや、ヴォックスAC30やワトキンスのドミネイターといったアンプに内蔵されたトレモロユニットだけ。学校ではピアノ、バイオリン、リコーダー以外の楽器を習うことは禁止されており、ギタリスト向けのチュートリアルDVDはなく、バート・ウィードンのマニュアル『Play in a Day』のみ。北東部のレコーディング・スタジオはニューカッスルモートン・サウンズしかなく、レンタル料が高い上、すべてライブかつモノラルで録音しなければならなかった。


そんなプリミティブなバックグラウンドの中、トレマーズに加入して間もない頃に「バンドの方向性に納得がいかない」症候群に初めて遭遇したのだ。
まだ演奏の拙い少年でもそのような感性はあるのだ。とにかく、トレマーズのシンガーはよりフォーク的でトラディショナルなスタイルを求めて、フェトラーズに入った。それから間もなく経ったある晩、トレマーズのベーシスト「ピンキー」グレイが体調を崩し、ライブに出られなくなった。
しかし、バンドの他のメンバーはライブをキャンセルしたくなかったので、私がベースを弾けばいいのでは?と提案してきたのだ。


1時間後には、私は「ハイヒール・スニーカー」を演奏していた。
アンディ・トムソンがタムにティータオルを被せたのは、タムタムの音が鈍くなるようにするためだとわかった。
次に覚えたのはサーファリス*12のインスト曲「ワイプアウト」だ。
特に難しいことは何もない。3コードでタイミングを合わせるだけだ。そして夜が更ける頃には、自分がベースを弾けないことを忘れていた。


ピンキーのベースは、200ポンド以上するエピフォンのマトモなものだった。彼は、私が週1ポンドのレンタル料を払い続ければ、使わせてくれると言ってくれた。そして、すぐにアンプと、2×2インチの長さの合板を組み合わせて作ったスピーカー・キャビネットを手に入れた。このアンプが揺れないようにするには、ある程度の「音響ダンピング」が必要だったので、グラスファイバーのロフト用断熱材を接着して裏打ちした。しかし、この素材からガラスの針が抜けてラウドスピーカーにダメージを与えるのを防がなければならない。なので、そこにヘア・ラッカーを大量に吹き付けてファイバーグラスを密閉していた。


想像してみて欲しい: 大きな箱の中にしゃがんで、ヘアラッカーを吹き付けているところを。一体何が起こったんだろう?


ストックトンブランズウィック・アームズで行われた5ポンドのライブでは、水玉模様のドレスを着た若い女の子が、スピーカー・キャビネットの中に使ったラッカーよりもさらに多いラッカーで髪を固めて、私のところにやってきてこう言った。

「あなた、良い演奏するわね」

私は、改めて私の演奏に何かを感じてもらえたことが嬉しかっただけでなく、グループでの演奏がもたらすもう一つの可能性に出会った。


ただ、第三者による全然違う証言もある。


ティーズサイド ディスカッション フォーラム, May 1, 2000, 4:51 PM: 'ティーズサイドのバンドについて'.


クリフ・ソーントン:パンサーズ*13、ブルーキャップ、1-2-3-4-5などと同じ文脈でトレマーズが言及されているのを見て驚いた。トレマーズは彼らとは同じリーグに所属しておらず、マイナーな会場で演奏していた。トレマーズブランズウィック・アームズの2階で演奏していたとき、彼らの音楽のレベルに不満を持っていた酔狂な客が、曲の途中で立ち上がり、バスドラムの皮に足を突っ込んで立ち去ったという有名な事件があった。哀れなこのグループは、ただ演奏を続けるだけしかできなかったのだ。


ティムモ:その通りだ、クリフ。トレマーズは間違いなくプレミアシップの対象外だった。彼らはグランジフィールド・グラマー・スクールのダンスでクローダディーズの前座を務めていた。彼らが演奏している間にパブに行き、クローダディーズの最初のセットに顔を出していたものだ。


彼らの言う通りだ。トレマーズは決してプレミアシップのような存在ではなかったが、15歳の若者の集まりとしてはスタートラインに立てたと言えるのではないだろうか*14
しかし、当時のティーズサイドで最高のバンドは誰かということについては、2人とも間違っている。それはザ・デンメン(The Denmen)*15だ。
一応書いておくが、その頃の最高のベーシストはバック・ドア*16のコリン・ホッジキンソン*17だ。


トレマーズが解散したのは、大学や仕事の都合でいろいろなことが重なったからだ。私は大学に行く気はなかった。早く学校を卒業したかったのだ。

『人生で最も素晴らしい日々だ』と人々は言う。
『くそったれ』と私は返答する。



私は学ぶことには興味があったが、学校教育にはあまり興味がなかった。しかし、戦後のグラマースクールで教育を受けたことは、お金では買えない最高の教育であったと、後になって幸運だったと思った。
1960年代、グラマースクール制度がもたらした真の実力主義と社会的流動性の結果、英国の文学、演劇、映画製作、テクノロジー、ファッション、音楽において大きなルネッサンスが起こったのは偶然ではない。
アンソニー・クロスランド*18という思想的な愚か者が、誰もが平等に貧しい教育を受けるように「総合」制度を導入し、平等という名のもとにすべてを破壊してしまうまで存在した短い期間だった。


当時、私は学生最後の年のほとんどを、学校ではなく受験に合格した時にもらった自転車で、田舎を走り回ることに費やした。
そして、学校を卒業するはるか以前に、すでに面接を受け、ミドルズブラの広告代理店でコマーシャル・アーティスト(今でいうグラフィック・デザイナー)として仕事をしていた。

しかし、四六時中グループで遊んでいたことがバレて、すぐにクビになってしまった。
しかし、その後すぐに、私の「学校教育」対「学習」の理論が実証されたのだ。

北東部における、唯一のコマーシャル・アーティストとしてのキャリア・チャンスであるイブニング・ガゼット社のアート部門に103人が応募してきたが、そのうちの1人が私だった。
私以外の残りの102人はその年の美術大学の卒業生だったが、私には前職のキャリアがあったのでこの仕事に就くことができたわけだ。

*1:イブニング・ガゼット新聞社 今はティーズサイドライブと改名している https://en.wikipedia.org/wiki/TeessideLive

*2:日本円だと1$130円だとして、75円くらい?

*3:バーノンズ・ガールズ https://en.wikipedia.org/wiki/The_Vernons_Girls

*4:ケストラルズ https://en.wikipedia.org/wiki/The_Kestrels

*5:ピーター・ジェイ&ジェイウォーカーズ https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Jay_and_the_Jaywalkers

*6:デクラン・マクマナス、つまりエルヴィス・コステロ

*7:マージービーツ(1961-) https://en.wikipedia.org/wiki/The_Merseybeats

*8:ジョニー・グスタフソン マージービーツ脱退後、イアン・ギランとロジャー・グローヴァーがディープ・パープル加入前にいたバンドであるエピソード・シックスや、Black Sheep of the Familyで知られるクォーターマスへ在籍し、ロキシー・ミュージックのサポートを経て、イアン・ギラン・バンドに在籍、2014年死去 https://en.wikipedia.org/wiki/John_Gustafson_(musician)

*9:ジェット・ハリス https://en.wikipedia.org/wiki/Jet_Harris

*10:下ネタ

*11:デイブ・ポープ https://www.discogs.com/ja/artist/2558022-Dave-Pope

*12:サーファリス https://en.wikipedia.org/wiki/The_Surfaris

*13:パンサーズ https://www.discogs.com/ja/artist/2084789-The-Panthers-3?anv=Panthers&filter_anv=1

*14:トレマーズ」はプロと言えるレベルになく、学生ノリのアマチュアバンドだった、ということだ

*15:ザ・デンメンを検索してみたが詳細不明だった

*16:バック・ドア(1971-1977) https://british-rock.salmon-news.com/top/group-b/back-door/

*17:コリン・ホッジキンソン 後にホワイトスネイク、スペンサー・デイヴィス・グループ、テン・イヤーズ・アフター等にも在籍していたテクニシャンなベーシスト http://british-rock.salmon-news.com/top/musician-h/colin-hodgkinson/

*18:アンソニー・クロスランド 英労働党の政治家 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Crosland