1999から2000年代前半。エンジニア期。
CHAPTER 25 Back to the Future
3年を経て、「いつかまた」*1が実現寸前のところまで行った。
エルヴィスとケイトを反対側の通りで見かけたのだ。
実際には、ケイトの後ろにエルヴィス、という順で、エルヴィスはケイトの後ろをゆっくりと歩いていた。
彼らは暗く着飾り、教会の入り口に向かって進んでいった。
私は彼らに先を越されゆっくりと中に入り、静かに後ろに並んだ。
もし彼らが私に気づいたのであれば、不快な瞬間が生じたかもしれないが、そうはならなかった。
我々はみな同じ理由でそこにいた。
最終的に病気に屈した「彼女」に敬意を示すために。
「彼女」の美しい庭のある家から数マイル離れた場所に、私はもっと控えめな場所を借りていた。
ヘンリーに歩いて行くときはいつも「彼女」の家の前を通り過ぎていた。
私はいつもドアをノックしてみようとは考えてはいたが、知り合いではないし、どんなに雄弁に、心から誠実に言ったとしても、それはやはり「あなたの命が尽きそうになっていることは分かっているが、あなたは素晴らしかった。今までありがとうございます。」としか言えないだろう。だから私はいつも通り過ぎ、歩き続けた。
式が終わると、私たちは「Goin' Back」の音に包まれながら教会を後にした。
外では、空さえも雨の中で泣いていた。2頭の馬が黒い馬車を引いて離れていった。
棺には5つの小さな花束が添えられており、そこには「DUSTY」という文字が白い花で表されていた。
ダスティ・スプリングフィールド*2は、私たちの海岸から生まれた最も偉大な歌手であり、最も魂のこもった声の持ち主だった。
* * *
イギリスに戻ることを余儀なくされた後、私はヘンリー・オン・テムズの遠くの郊外に小さなコテージを借りた。
そこは多くの音楽やテレビの関係者がたどり着く地域だった。
もちろん、ヘンリーの著名な住人はジョージ・ハリソンで、彼は町のメインストリートから少し丘を登った場所に豪邸を持っていた。
豪邸の周りにはゲートとセキュリティフェンスがあったが、それでもナイフを持った侵入者を防ぐことはできなかったのだ*3。
ジョージには一度だけ会ったことがある。彼は妻と息子と一緒にテンプル島の向かいの曳舟にいた。爽やかな秋の日、彼は息子のスカーフを整えるのに夢中で、私が近づいてくるのが聞こえなかったようだ。
彼は驚いて飛び上がり、怯えていた。
私は平和のために手を挙げ、『ハレ・クリシュナ』と言い、歩き続けた。
ジョージが重病になった後、彼は最後の逆転の瞬間を期待して、ネトルベッドに住むヒーラーの女性を訪ねた。
他の手段がすべて尽きた時、人々はこういったことを行う。
地下の洞窟やマクラーレンのスーパーカー、他のすべての雑多なものと引き換えに、もう1年健康でいられるなら自分の全財産を譲り渡すのだろう。
「ケイティ」と呼ばれる彼女は多くの人々の助言者であり、ダイアナ妃がかつて言及したファーギーの「魔女の女性」だった。
元王族の訪問が予告されると、私は退散しなければならない。
私がグリーンの角を回る頃には、黒い窓のついた2台のレンジローバーが反対方向から到着していた。
イングランドのサッカー監督であるグレン・ホドルがケイティの助言を受けることについて人々は笑っていたが、実はそれは彼一人ではないのだ。
信じてほしい。私はケイティの家を訪れる高位のプレミアリーグのマネージャーを複数見てきたのだ。
遠く離れたコテージで1年過ごした後、引っ越すことにした。
私にとっては孤独感を過度に感じていた場所であり、最寄りの道路や他の家から1マイル以上離れており、ほとんど人に会わず、テレビの受信もできない場所だった。
そして私は、ヘンリーの反対側にある村、パブの向かい側の家に引っ越した。
ある日、村で大騒ぎがあった。近くの畑を走る2人の男が目撃され、頭上を警察のヘリコプターが旋回しており、2人の逃亡者が必死の形相で私の方に向かってきたのだ。
人々は車に飛び乗って安全な場所に向かい始めた。その時私はパブの駐車場で映画撮影の準備をしているクルーに気づき、尋ねた。
彼らは『バーナビー警部(ミッドサマー・マーダーズ)*4』のエピソードを撮影していたのだ。
「近くに住んでいるんですか?」と監督が尋ねた。
「ちょうど道路向かい側に住んでいるよ」と私は指で示した。
「撮影のためにちょっと貸してもらえないでしょうか? 1日500ポンドくらいで・・・」
「・・・私には合理的な額のようだね」
監督とカメラマンは私と一緒に早速中を見るために入ってきたものの、家に入った途端、すぐに引き返して去ってしまった。
おそらく、ラガーの広告のように、スポーツ観戦用の椅子、冷たいラガーが入ったミニ冷蔵庫しかない部屋を期待していたのかもしれない。
私の家はそれに似ていたが、冷蔵庫はなかった。銅製のフライパンや更紗、ウィローパターンの皿など、彼らが求めていたものは確かになかった。
* * *
私の甥であるマーク・イーストはリーズを拠点とするDJで、イングランド全土だけでなくスペインやアメリカなど遠くまで活動していた。
私は彼を訪ねるために彼の元に行った時のことだ。ある日、私たち二人で雨の中をドライブしながら、Hybrid*5の曲を聴いていた時に気がついた。「なあ、聞いてみてよ、いまちょうどワイパーが曲と同期しているんだ」と私は言った。
「それが分かるなら、DJになれるよ」と彼は言う。
「DJって・・それほど難しいことなのか?」と私は皮肉ったように言った。
「レコードプレイヤーは今やギターの売り上げを上回っていることは知っているだろう?」と彼は辛辣に付け加えた。ここ数年、私はマークから定期的に電話で相談を受けていた。
「400ポンド貸してくれないか?新しいシンセがあるんだけど・・・」
結局、私からの借り入れで購入した機材をそのまま使わせてもらうことにし、マークは仕事をやめヘンリーへ移住し、私と一緒に仕事をすることになった。
私たちが村に戻ってきた時のことだ。
「それってバス停なのか!?」とマークが驚いて言う。
「ええ、なんで?」と私は言った。
「落書きがないじゃないか!」
おそらく、整然と清掃が行き届いた小さな建物は、オークの梁、瓦の屋根とともに、蒸気フェアや教会のコーヒーモーニングのための花々があるような、リーズではあまり見かけないバス停だったのだろう。
我々は小さなスタジオを設置し、お互いに勉強し始めた。
彼はハウス、ハードハウス、ディープハウス、ファンキーハウスの違いを教えてくれた。
EDMはとてもトライバルであり、テンポを10 bpm上げたり、追加のバスドラムを入れるだけで、完全に異なる聴衆がターゲットになる。
彼は私に「サイドチェイニング」というダンス音楽のテクニックを紹介してくれた。これにより、トラック全体の音量が音楽に合わせて上下に脈動するのだ*6。
私は彼に初めてバルサミコ・ロースト・ベジタブルを食べさせた。それは彼にとっても大いなる発見だったようだ。
我々は作業しながら、次にやらなければならないことのリストを作成した。
ただし、彼が総合学校の教育を受けたため、連結した字を書いたり、正しく綴ったりすることは絶望的だと感じた。
ロックとポップの黄金時代における音楽録音の変化について、1500-2000語のエッセイを書くことが要求された。きちんとした文章であることが評価される。
当初、演奏とボーカルはメガフォンのワイドエンド経由で機器に録音され、「ナローエンド」に届いた音の振動は回転するワックスシリンダー(蝋管)に刻まれた*7。
この録音をコピーし、同じような仕組みで逆方向にも再生することができた。このレコードシリンダーは、やがて78rpmで回転するシェラック盤(SP盤)*8に取って代わられた。
第二次世界大戦末期、アメリカ軍の侵攻部隊の一人、ジャック・マリンGIは、ベルリン・フィルによるドイツのプロパガンダ放送を聞いて、戦車の足を止めさせた。
なぜなら、レコードのポップ音やクラック音の代わりに、純粋でプリミティブな音楽だけが流れていたからだ。
マリンは、この放送がどのようにして実現されたかを調べることを仕事とし、最終的にその放送が行われたスタジオを突き止めた。
フランクフルト近郊のラジオ局の残骸の中から、その音楽がディスクではなく、磁気テープに録音されていることを発見したのである。
戦後、マリンはテープ再生装置とテープをアメリカに持ち帰り、この新しいメディアは瞬く間にアンペックス社に採用された*9。
当時、最も人気のあった歌手ビング・クロスビーは、ゴルフコースに出られるはずの午後をラジオの生放送に費やすことを嫌がっていた。
しかしながら、ラジオ会社が低品質のディスクに番組を事前録音することを許可しなかった。
クロスビーは、磁気テープ録音の鮮明さを聞いた後、この新しいメディアに投資し、ジャック・ミューリンを録音技師として契約した。
みんな喜んだのだ。
噂は広まり、やがてどのスタジオにもテープマシンが置かれるようになった。
やがて、録音された音楽は、45回転のシングル盤や33¼3回転のLPレコード*10といった小さなディスクにコピーされるようになった。
メンフィスのサン・スタジオでは、エンジニアのサム・フィリップスがアイク・ターナーなどの地元の歌手を使って録音していた。
彼は「Rocket 88*11」というレコードを作ったが、この曲は現在、最初の本格的なロックンロール・レコードと言われている。
1954年7月5日、フィリップスは同じく地元の歌手であるエルヴィス・プレスリーと「That's Alright Mama」を録音し、レコードで初めて聴かれたとされる演出効果、ショート・ディレイ(スラップ)・エコーを使用した。
もう一人のプロデューサー、フィル・スペクターは、この録音形態を究極の可能性にまで高め、有名な「ウォール・オブ・サウンド」を作った。ライチャス・ブラザーズの「You've Lost That Loving Feeling」やティナ・ターナーの「River Deep Mountain High」の録音が代表的である。
この「ウォール」は、レッキング・クルーと呼ばれる当時の一流セッション・プレーヤーが巨大なスタジオに集結し、スペクターは3人のドラマー、3人のピアノ、3人のベースなど、すべてのパートを最低3人ずつ使って同じ時間に演奏し、各人の演奏スタイルのわずかな変化と部屋の洞窟的な環境音によって、驚くべきハーモニーの質感を作り出したのだ。
次に登場したのが、マルチトラックテープ*12による録音である。演奏と録音を同時に行う必要がなくなり、オーバーダブ(後から追加する音楽の部分)を使って音楽を構成することができるようになったのだ。
たとえば、ある楽器を単独で追加し、その楽器の後ろにいるオーケストラよりも大きな音で鳴らすことができる。
また、テープのスピードアップやスローダウン、編集もできるようになった。
俳優がセリフを覚え、舞台で演技をするのが「リアルタイム」であったのが、「リールタイム」で撮影するようになり、何度でもリテイクが可能で、シーンを順番通りに撮影し、後で編集することができるようになったのである。
これらの新しい技術は、ビーチボーイズ(というよりブライアン・ウィルソン)の「Good Vibration」とビートルズの「A Day in the Life」という2つの画期的なレコーディングに代表されるように、ミュージシャンやプロデューサーのクリエイティブな武器となる。
* * *
エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズのレコーディングでは、グランドピアノ、アップライトピアノ、エレクトリックピアノを重ね、同じパートを演奏して「Oliver's Army」のジャンキーなキーボードサウンドを作るなど、かなりのオーバーダビングを行ったが、ほとんどはライブ演奏であり、必要なときだけ追加していた。
実際にテープ編集を行った記憶は一度だけだ。
「Chemistry Class」のテイクが2つあったのだが、片方の前半はずっと良く、もう片方の後半はもっと良くなっていた。
そこで、その2つのテイクを単純に繋ぎ合わせたのだ。
ところが、編集ポイントが「acci-dent」という単語だったために、2つのテイクを合わせたときに「accident」という単語が2回入ってしまうというミスがあった。
レコードには「もし、アクシデントがなかったら、ある人は決して学ぶことができないだろう」と書かれている。気の利いたことを言ってるように聞こえるけど、本当に事故だったのである。
エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズは、バッキングトラックで生演奏をしていた。
しかし、セッションワークをする際には、バンドで使っていた大きな「ピンクの」フェンダーではなく、ダンエレクトロというベースを使用した*13。
ダンエレクトロはほぼおもちゃのようなギターで、合板とハードボードで作られ、数百ドルで購入できるものだが、プロデューサーやエンジニアたちが録音に適していると愛用している。
私はベースパートを最後に追加していた。ベーシックトラックの録音中、他のメンバーをサポートするためにガイドパートを演奏することもあったが、オーバーダブやボーカルパートが完成してから、実際のベースパートを演奏するようにしていた。
私を担当したプロデューサーの大半は、このやり方が好きで、曲を支えるベースパートをとても重要視していた。
だから、「マスター」と呼ばれるベースパートを乗せるときは、コードとリズムを結びつけるのではなく、ボーカルとドラムを結びつけることに集中した。
ボーカルのメロディや抑揚からハーモニーのヒントを得て、ボイスとドラムを一体化させる、いわば曲のトップとボトムになるようにした。
その逆をやったのは、今年の春、アメリカのバンド、ウィーピーズ*14がベースのパートを追加するために生デモを送ったときくらいだ。
当然のことながら、「音楽に従う」ために他の楽器を加えたところ、私のオリジナルのベースは交換しなければならないことがわかった。
ジェフ・エメリックは、ビートルズのクリエイティブの全盛期にポール・マッカートニーがどのように仕事をしていたかを教えてくれたことがある。「サージェント・ペパーズ」を2台の同期した4トラック・テープ・マシンで録音する際も、最後に加えるベース・パートのために、1つの独立したトラックを空けておいたのである。
テープに録音したセッションをやっていた頃は、パートを短く区切って、1ビット1ビット正確に録音するために「パンチング」していたこともあった。
その後、デジタル・レコーディングの時代になると、好きなだけベースパートを弾くことができるようになり、フレーズや音符、タイミングのズレを修正しながら、何度もパスして「ベストオブ」コンポジットトラックを作ることができる。
しかし、そうであれば他の人にとっても同じことができるわけで、実際に演奏できることがあまり重要ではなくなってしまった。
デジタル・レコーディングでは、誰もが「完璧な」パートをこなすことができる。
* * *
3分間の曲がディスコで踊るダンサーにとって短すぎるようになった頃、ミュージシャンとプロデューサーに新たな創造的要素が加わった。
それがリミックス・エンジニアである。
そのパイオニアは元ファッションモデルのトム・モールトン*15で、彼はオリジナルの録音テープからコピーを取り、その一部を加えたり減らしたりし、それを20分間の12インチシングルとして再構築した。
このようにオリジナルレコードの一部分を切り取って再利用する方法、例えばシックのベースリフとジェームズ・ブラウンのドラムパターンをミックスすることができる「サンプリング」へとつながった。
実際、ジェームズ・ブラウンは史上最もサンプリングされたアーティストとなる。
彼の「Funky Drummer」からのサンプルが、今では初のヒップホップレコードとされるシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight*16」に使用された。
だが、その種のレコードはすべての人に喜ばれたわけではない。
エルヴィスとアトラクションズがフランスを横断中、私はそのレコードをかけた。
再生されるにつれ、ピート・トーマスは次第にイライラし始め、最後には車を止めてくれと要求した。
ガソリンスタンドの広場に停車した後、ピートは車から降り、一番近くの木に向かって走り、何度も強く蹴りつけ、ドラミングの単調な性質に苛立ってわいせつな言葉を叫んでいた*17。
さらに、グランドマスター・フラッシュなどのDJによって創造的な連鎖にさらなるリンクが加えられた。
ターンテーブル上でヴァイナルレコードを巧みに操作することで、同じビートや「ブレイク」を繰り返し、新しいリズムを作り出すことができた。
そして、それらを他の音楽を使い新しい組み合わせを作り出すことができた。
2つのデッキを使えば、一つの音楽を別の音楽にクロスフェードすることもできる。
そのため、ダンスフロアでは一切のブレイクがなくなったのだ。
初めて、楽器やミュージシャンを必要としない音楽を作ることができた。
サンプルはコンピュータを介して設定し、画面上で編集することもできる。
音楽はキーパッドを介してデータとして入力するだけである。
また、楽譜からソフトウェアを使ってシンセサイザーが読み取れるデータに変換することもできる。
90年代初頭、私がミッチェル・フルームと一緒にスザンヌ・ヴェガのアルバムに取り組んでいた頃、彼はチボ・マットというバンドと制作したばかりのレコードを聴かせてくれた。
チボ・マットは、さまざまなソースからサンプルを組み合わせて完全に新しい曲を作り出すため、一部を伸ばしたり短くしたりしてテンポに合わせ、ピッチを変えてキーに合わせるという手法を用いていた。
これは実質的にはサウンドの処理であり、ワードプロセッサで他の文書からコピー、切り取り、貼り付けを行ったり、フォントを変更して大きくしたり小さくしたりするのと同じことだ。
これは、誰かが「プランダーフォニックス」と呼んだ新しい作曲の形態だった。
さらに、これらの音を他の方法で操作できる新しいソフトウェアもあった。
おそらく最も便利で最も使われているものは「オートチューン」で、どんな歌手でも正確な音程で歌わせることができた、そう、ヴィクトリア・ベッカム*18でさえも。
私は、ハウスマーティンズの元ベースプレイヤーで、現在はファットボーイ・スリムとして活躍するノーマン・クックの足跡をたどるつもりだった。
彼は、古いノーザンソウルのインストルメンタル、「Sliced Tomatoes」に重ね、デュアン・エディとジョン・バリーのサンプルを追加し、さらにいくつかのプロダクション上の技巧を加えて彼のヒット曲「Rockerfella Skank*19」を作り出した。
直感的に「Pop Will Eat Itself」と名乗ったバンドでさえ、このような事態を予見していなかったに違いない。
一方、ローグ・トレーダー*20と呼ばれるオーストラリアのグループたちは、「Pump It Up」をサンプリングした数あるアーティストの中で最も有名だった。
彼らはシングル*21をヒットさせ、ECは私のリフをサンプリングしたことによる著作権使用料の分け前を正式に得たのである!
ただ、公平を期すために書くと、彼はナイキから「Pump It Up」の広告使用時の100万ドルの支払いを断ったこともある。
本当にそれは私にとっても大きな出来事だった。
Voodoo Child - Rogue Traders (2005)
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マークと私は、タスミン・アーチャーの「Sleeping Satellite」のガレージバージョンを1週間かけて制作したが、結果として彼女がクリスティーナ・アギレラのように聞こえるだけだった。
私たちはそのトラックをミニストリー・オブ・サウンドのジェームズ・パルンボに持って行ったが、彼のアシスタントであるマリアンヌまでしか進むことができなかった。
彼の大好きなダックスフンドの写真が掲示された彼のオフィスが見えたが、どうやら彼は人間との接触を警戒していたようだ。
ハワード・ヒューズのように、彼は細菌について少し悩みを抱えていたようだ。
結局、彼にトラックを聴いてもらえたが、オリジナルとあまりにも似ていると感じていた。
また、タスミンのパートナーであるジョン・ヒューズもそれには機嫌を損ねたようだ。
マークは一緒に仕事をするのが簡単な人ではなかった。
同様に、以前に指摘されたように、私も簡単な人間ではない。
彼を動かすのにはかなりの手間がかかった。
彼が買い物に出かけなければ、仕事を始めることはできなかった。
歯磨き粉、アフターシェーブ、あるいは何かの新しい音楽雑誌の最新号などがなくなったという理由で、街に出かける必要があった。
ランチまでにスタートできれば良いと言っても、その頃にはランチの時間になっている。
なので、午後に数時間作業できるかもしれない。
その間に、どういうわけか私が払っていた自動車教習所の授業が中断もあった。そして、彼は「耳を休めたい」といってウィルトシャーまで行って、ミステリーサークルに座って1日過ごすという休日もあったのだ。
リーズを訪れた際、タスミンの新しいアルバム「On」のベースパートを担当した。
バース近郊のピーター・ゲイブリエル所有のリアルワールド・スタジオで制作された前作とは異なり、今回はヘルススパもコルドンブルーシェフもいない状態だった。
巨大なレコーディング・デスクを備えたジョンのホーム・スタジオもなくなり、私たちと同じように、空き部屋でコンピュータ(強力な最新鋭のものではあるが)を使って作業していた。
私は彼らと一緒に働いていないときでも、ジョンとタスミンのところで過ごしていた。
なぜなら、マークがスタジオを一部のケタミン中毒者に貸し出し、彼らがドラムンベースのトラックをミックスするためにやってくるからである。
その打楽器は編み物工場のようであり、ベースは嘔吐するようなセイウチのようだった。
そしてジョンがスカイ・スポーツを持っていたからでもあった。
* * *
マークと私は、トラックのためのシンガーが必要になった。
そこで有望な声を持つペニーという女性を見つけた。
彼女のロンドンからの往復航空券を支払って、駅で彼女に会い、良いレストランにディナーに連れて行き、そして市内中心部に予約したホテルに案内した。
翌朝、私たちは彼女を迎えに行って家に連れて行き、彼女にお茶を入れ、ボーカルマイクの前でセットアップした。
私たちはトラックをいじくり回し、彼女は自分で持ち込んだ歌詞で歌った。
私たちはその歌詞を彼女から購入しており、仮に大ヒットした場合であってもロイヤルティに関する追加の請求はなかったはずである。しかし、彼女が帰りの電車に乗り、私たちがボーカルパートを交換し始めたときに、私は気付いた・・・
「I'd be so good for you, love you like you want me to」とペニーが歌っていたのだ。
「これは絶対に使えない!」と私は言った。
「大丈夫だよ、後で音程を直せばいいじゃん?」とマークは言った。
「そうじゃない、歌詞のことだ!」
「何が問題なんだ?」と彼は言った。
「聞いてみろよ!」
「どういうこと?」
「彼女はただの『マインダー*22』のテーマ曲を売りつけてきたんだよ!」
別のトラックは、モービー*23と一緒に歌ったダイアン・シャーラメイン*24に送られた。
モービーは、古いアメリカ議会図書館の伝統的な録音から声をサンプリングし、『プレイ*25』を作り、世界的な大ヒットとなった。「Oh, Lordy, troubled so hard.」
私たちはダイアンに会ったことはなかった。ただバッキングトラックを彼女に送り、ボーカルトラックを書き、歌い、バッキングボーカルといくつかのアドリブを追加するように指示した。
数日後、返送されたものを受け取った。
彼女は素晴らしい仕事をしてくれた。
私たちは彼女に電話して感謝の意を伝えた。彼女はとても親切だったが、ある瞬間、少し切なくなったようだ。
「信じられない、昔はたった一つのトラックで1000ドルもらえたのに!」
「ああ、みんなそうだったよ、愛しい人よ」と私は言った。
マークが朝のシャワーを浴びている間、私はMTV Danceでビデオを見ていた。
そこであるパターンを見つけた。
『Owner of a Lonely Heart』のビデオ(イエスのリフをサンプリングしていた)には、ビキニで踊る女の子をオーディションするための架空のタレントエージェンシーを立ち上げた2人の学生が登場していた。
『Call on Me』(スティーヴィー・ウィンウッドをサンプルしていた)には、デンタルフロスのレオタードを着た女性でいっぱいのフィットネススタジオがあった。
『Weekend』では、下着姿でコピー機の周りで踊る「秘書たち」の集団が登場していた。
「マーク!」と私は階段の上に向かって叫んだ。「そろそろビデオを作ることを考える時期じゃないか?」
私のコメントを無視して、彼は下から叫び返した。
「ねえ、知ってる?クラフティ・カッツが昨夜、イビサでビンタをくらったんだって!」
「何が起こったんだ?」
「ハウスが強すぎたんだって!」と彼は説明が必要ないかのように叫んだ。
私は笑って、マークが生まれる10年も前に、アーサー・コンリーがレディングで「ビンタをくらった」ことを思い出した。
みんなが突然アーサー・ブラウンを求めた時の話だ。
結局、我々は自分の居場所を見つけることができた。
デジタル革命の問題点は、自分の作品をデジタル化にした時点で、それを手放したことになるということだ。
テレビが音楽ホールを消滅させたように、デジタル録音は音楽業界、少なくとも従来のレコード会社のビジネスモデルを、否応なく破壊し始めていた。
やがてウィルトシャーのそれぞれの村にも、古い酪農場、古いパン屋、古い鍛冶屋と一緒に「古いレコーディング・スタジオ」ができるだろう。
電子メールがバイク便を絶滅させ、オルガンを回す人やパンチカードのオペレーターも今では需要がなくなったのと同じことだ。
しかし、ディスクジョッキーがクラブで古いフォーマットのレコードを再生するために、ヴァイナル盤を売るニッチな市場が存在した。
なぜなら、それらはCDよりも「スクラッチ」やクロスフェードが容易だったからである。
私たちは現行のヒット曲のブレイクビートリミックスを行い始めた。
ケミカル・ブラザーズやゴリラズのような多くのバンドは、このために、自分たちの曲のボーカルトラックのみを独立させてインターネットに載せていたほどだ。
つまり、あるグループに属するバンドが、別のグループに属するメンバーに聴かれる可能性がある。
もしも新たに投稿されたサンプルボーカルを最初に手に入れ、その後実際のCDから他のサンプルを取り、それらを1日以内にトラックに組み込んだ場合、チャンスが訪れることだろう。レコードをプレスし、カットの割合で配布してくれる会社もあった。
2、3千枚の売上であればOKで、それ以上だと怒られる、という不文律があった。
ニルヴァーナをサンプリングして10万枚売った有名なグラムロック歌手の息子は問題になった。
我々の場合は念のため、同じ名前でシングルを2度出すことはなかった。
ある時はブルースとマークの略で「BAM!」だった。
もう1回は「TGB」、つまり(とてもPCではない)泥棒ジプシー野郎(Thieving Gypsy Bastards)の略だった。
最初の小切手が届いたとき、私たちは成熟した大人なら誰でもすることをした。
外に出て新しいバイクを買ったのだ。そして、何年もの間、私たちは何度か「ヒット」した。
* * *
日本から最初のCDプレーヤーを持って帰ってきた当時、がっかりしたものだ!
確かにCDはクリアな音が出るが、暖かみがなかった。
結局、便利さのためにすべてのレコードをCDに置き換えたけれど、後悔した。
やがてCDはMP3プレーヤーに取って代わられ、持ち運ぶものは小さなプレーヤーだけになった。
私はMP3ファイルを聴くことができない。
音の情報の90%が欠落していて、その大部分は低音域にあるからである。
これらのすべては進歩と見なされていたが、私を含む多くの人々はそれについては疑問を持っていた。
なぜなら、もし技術が進歩と同義語であるなら、人食い人種に電子レンジを与えることも「進歩」になるはずだからである。
その昔、「アイパッド(eye-pad)」がまだ結膜炎の治療用という意味だった頃、我々は音楽をヴァイナルレコードで聴いていた。
最初のレコード会社からの前借り金を手に入れたとき、それをすべて高級なステレオシステムと良いヘッドフォンに費やした。
レコードをジャケットから取り出す儀式を楽しんでいた。ジャケット自体が芸術作品だったのだ。
レコードをターンテーブルに置き、軽くブラシで拭いてからレコード針を慎重に降ろすさまが好きだった。
今の若者たちは、我々が木曜日にテレビの前に集まってチャートを聴いていたことを笑う。
それは私が同じ年齢の頃、オルゴールを見て笑ったのと同じように滑稽なことなのだろう。
オンデマンドとストリーミングがチャートの時代を凌駕した。
しかし、iPadでクリップを検索する際に、映像と音声が最初の古い白黒テレビで見たものと変わらないことに笑わずにはいられない。
そこではすべてのミュージシャンが3インチの小さな存在で、音は金属っぽい小さなスピーカーから聞こえていたのだ。
* * *
そして突然、我々は事業を停止せざるを得なくなった。
ある日、通常通り新しいトラックを送ったのだが、何の返事もなかった。
ディストリビューション会社(自分たちの仕事をする唯一の会社)が倒産してしまったのだ。
私たちの市場は、クラブで遊ぶことよりも、仕事を見つけて家を買い、家族を作ろうとすることに突然興味を持ったのだ。
「ジェイソン・ディストーションは今何をしているんだろう?」と私はマークに尋ねた。
「コールセンターで働いていると思うよ」
「トム・オートボットは?」
「分からないな」
ビヨンセが突然ハルフォーズで仕事をしなければならなくなったとは言わないが、私はいつの間にかマークの結婚式で案内係をやっていた。
* * *
しかし、それは一時的な中断に過ぎなかった。
数年後、私たちの同世代の多くが、当時の新しいポップヒットの作詞やプロデュースを手がけるようになった。
トム・オートボットはYouTubeで150万回再生され、マークはDJのキャリアを再開したが、「レトロ」アーティストとして扱われることに関しては、少し不満を抱いていた。
*1:1999年3月のこと
*2:ダスティ・スプリングフィールド https://en.wikipedia.org/wiki/Dusty_Springfield
*3:ジョージ・ハリソン強盗事件のこと 1999年12月30日 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%B3#1990%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%80%9C%E6%99%A9%E5%B9%B4
*4:バーナビー警部 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%93%E3%83%BC%E8%AD%A6%E9%83%A8
*5:Hybrid https://en.wikipedia.org/wiki/Hybrid_(British_band)
*6:Night Tempoがよくやっているアレだが、個人的には苦手
*7:いわゆるエジソンが作った最初期の蓄音機のこと https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%8B%E7%AE%A1
*8:最初期のレコード https://ja.wikipedia.org/wiki/SP%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89
*9:つまり磁気テープはナチス政権下のドイツで作られたということだ
*10:所謂、現代で一般的に普及しているヴィニール盤
*11:https://en.wikipedia.org/wiki/Rocket_88
*12:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC
*13:ダンエレクトロ https://www.brucethomas.co.uk/?p=2512
*14:ウィーピーズ https://en.wikipedia.org/wiki/The_Weepies
*15:トム・モールトン https://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Moulton
*16:https://en.wikipedia.org/wiki/Rapper%27s_Delight
*17:気性が荒すぎる
*18:https://en.wikipedia.org/wiki/Spice_Girls
*19:https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rockafeller_Skank
*20:https://en.wikipedia.org/wiki/Rogue_Traders
*21:https://en.wikipedia.org/wiki/Voodoo_Child_(Rogue_Traders_song)
*22:マインダー https://en.wikipedia.org/wiki/Minder_(TV_series)
*23:モービー https://en.wikipedia.org/wiki/Moby
*24:ダイアン・シャーラメイン https://en.wikipedia.org/wiki/Diane_Charlemagne