俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 22 Rough Mix


1995〜1996年、「All This Useless Beauty」の頃。

CHAPTER 22 Rough Mix

私はその頃、アメリカの住人であるはずなのに、あちらこちらで多くの時間を過ごし、もはや自分の「家」がどこにあるのかわからなくなっていた。
その年は、両親の家に行き、ヨークシャー・デールを1週間ドライブした後、しばらくスコットランドに行き、西海岸から高地や島々を巡り、野生の広々とした空間を堪能した。
ブルース・リーの本のプロモーションのためにサンフランシスコに飛び、インタビューに答え、その後LAでピート・トーマスと合流し、タスミン・アーチャー*1のためにいくつかのトラックをレコーディングした。


その後、ロンドンでマイケル・ハッチェンス*2とアルバムを作ることになったが、5分ごとに電話がかかってきて中断されるため、曲作りにほとんど時間を割くことができなかった。
「今はどこから電話してるんだ?ミラノで一体何してるんだ」と。
それは数日間続いた。
コーヒーブレイク中、マイケルが私たちに説明した。
「知ってるかい?私とポーラの噂は全部でっち上げのくだらない話だよ」
翌日、私たちがセッションのために現れたとき、マイケル・ハッチェンスは現れなかった。
やがて全てが暴露され、その日のサン紙の一面に広まった。私たちは彼を二度と見ることはなかった*3


* * *


エルヴィス&アトラクションズは、この年(1995年)の半ばに再集結し、ラインアップに2人のミュージシャンを加えた。
ジェームス・バートンは、私がラスベガスで見た昔の「エルヴィス」のバックバンドのギタリストであり、マーク・リボーはトム・ウェイツのバンドにいた人である*4
リボーがエッジの効いた斬新なプレイをするのに対し、バートンは古典的なカントリーピッカーの一人であった。


パリのホテルのロビーで、ジェームズ・バートンが現れ、夕食に一緒に来ないかと誘ってくれた。
友好的なジェスチャーだと思った。パリでは魅力的なレストランを見つけることは難しいが、私たちは閉鎖的な広場を数ブロックを歩き回って見つけた。

夕食の間、バートンは自分の車やギター(それらはいつも赤くなければならなかった)について話すのが好きだった。
しかし、私がラスベガスでエルヴィス・プレスリーと一緒にジェームズ・バートンを見たこと、そしてウェイターに良い席にするためにチップを渡したことを言った瞬間、彼は急に黙り込んだ。

「あのウェイター、きっと大金持ちになったね」と私が言ったが、それは明らかに触れてはいけない話題だったようで、他の会話も徐々に途切れていき、ついにはチェックアウトの時間がやってきた。
「1人25ドルだね」と言うと、「ちょっと、それ見せてみろ、・・・いや、オレはサラダを頼んでないぞ」とバートンが言った。
「そうだね、昔の冗談は最高だね」と笑いながら私は言った。
「いや、そうじゃないんだ、ここではサラダは2ドル75セントなんだぞ」
なるほど、彼は本気で言っていたのだ。

ホテルに戻ると、他の人たちがロビーでニヤニヤしながら待っていた。
「ジェームズに会ったのか?」と彼らは言った。
「忘れるなよ、ジェームズはカントリーボーイなんだ。お金は節約するようにママに言われているからな」


その年の私たちの仕事は、いくつかのヨーロッパでのフェスティバル、ロンドンでのジュールズ・ホランドのショーだった。
他の出演者の一人がリトル・リチャードで、私はその声(あの声!)を間近で見て聞くことができた。
続いてニューヨークでのレターマン、ビーコン・シアターでの1週間では新曲を演奏した。
このライブは「公開リハーサル」として宣伝されたほどだ。


しばらくの間、我々は別々の道を歩んだ。エルヴィスはストリングカルテットと一緒に仕事をしていた。
私とピートはギタリストのスティーブ・ドネリーに会って、まだニューヨークにいる間にスザンヌ・ヴェガとの新しいアルバム*5を制作していた。

私たちがある1曲を制作している最中、テンポについての議論があった。
「だいたい90BPMだろう?」と私が言った。
「いや、違う、86だ」とドネリーが言う。
「だから、ほぼ90ってことだろ?」と私が返した。
「だから、86ジャストだって言ってんだよ、俺はこれを仕事にしているんだ、分かるだろ?」とドネリーが辛らつに言う。

私も音楽を生業としていたが、ティーブ・ドネリーは、映画やテレビの挿入曲として、さまざまなジャンルの音楽を具体的なテンポでレコーディングする人物の一人だった。
彼はそれらのトラックを一括料金で版権管理会社に売り、番組制作者はロイヤリティフリーでそれを使用できるというわけだ。


その晩、私の部屋にドネリーから電話があった。
「ポルノチャンネルをつけてくれ、俺が出てる」と言う。
「これは面白そうだな」と思い、彼の言う通り見てみたが彼を見つけることはできなかった。
「なあ、どれが君なんだ?カメラにケツを向けている男か?」と私が言った。
「いや、お前バカなのかよ。今流れている曲のことだよ!」


* * *


エルヴィスはその頃ダブリン市外に住んでいたので、我々はそこに行って、後に「All This Useless Beauty」となるアルバムのレコーディングを行った。
ウィンドミル・レーン・スタジオは、一部が解体された街の中心に位置しており、片側には市バスのデポ、もう一方には疑わしいほど緑色の水の盆地があった。

再び、ジェフ・エメリックがエルヴィスと一緒にアルバムの共同プロデュースをすることになった。
しかし、エルヴィスが「60年代の手法」でレコーディングをすると告げたとき、最悪の事態を心配した。
言い換えれば、彼はボーカルを前面に押し出し、音楽は均質な一塊となるようにするつもりだったのだ。

アトラクションズのメンバーたちは、それぞれのタイプに応じた一通りの反応をした。
ティーヴはいくつかのトリルを考え出し、それに合わせて演奏した。
ピートは「俺たちはただのクソみたいなカラオケマシンになるんだな」と腹を立てていた。
私は「もし彼が調子よく屁が出せるなら、マイクをお尻にくくりつけてバンドを完全に追い出すだろうな*6」と揶揄した。


結局、1曲は良い感じになっていた。それは「Complicated Shadows」で、特に、ヴィンテージ・ローリング・ストーンズのようなライブ録音の一部が継ぎ足された部分だ。
全てのトラックが完成した後、私はジェフ・エメリックに言った。「今、それのラフミックスをくれないか。なぜなら、一度完成したら、すべて彼のものになってしまうからね」
「いや、いや!そんなことはさせないよ」とジェフは言った。
私は最終的なアルバムを聴くことなく、彼に疑いの目を向けていた。


しかし、ダブリンでの次のツアーのリハーサルはうまくいった。
エルヴィスに、私が過去数年間に渡って使用していた小さなスタジオ用のベースギター*7を使うのをやめ、古く大きなフェンダーベースに戻すと告げたとき、肩に腕を回してくれた。


彼はそのベースギターを私が演奏するには「あまりにも簡単すぎる」と思っていたのだ。
冗談で「Pump It Up」を1本の弦で必死にネックを上下に動かして音符を見つけるようなジャグバンドのアレンジにした時、彼はそのバージョンをセットリストに入れることを強く主張した。

*1:タスミン・アーチャー https://en.wikipedia.org/wiki/Tasmin_Archer

*2:マイケル・ハッチェンス https://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Hutchence

*3:ボブ・ゲルドフと婚姻関係にあったポーラ・イェーツと不倫していたがそれが暴かれたという話のことだろう

*4:時期的にはこの辺 http://www.elviscostello.info/wiki/index.php/Concert_1995-07-02_Roskilde

*5:Nine Objects of Desire https://en.wikipedia.org/wiki/Nine_Objects_of_Desire

*6:・・・下品

*7:ダンエレクトロ?