俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 14 A Walk along the Sand(砂浜を歩く)


1980年頃。「Trust」期。

CHAPTER 14 A Walk along the Sand(砂浜を歩く)

1979年の大晦日から1980年へと移り変わる際、私たちはパーティーを開くかどうか分かっていなかった。なので、ギリギリになってスザンヌと私はパーティーを開くことにした。
戦略的な電話をいくつかかけただけで、1時間以内に私達のアパートはカーペットに落ちたカナッペを踏みつけようとするいつもの面々でいっぱいになった。


この日のサウンドトラックは、もちろん「Get Happy!!」だ。
20曲のうち、いくつかは2分弱の長さで、ワンテイクで作られたもの、あるいはオーバーダビングをほとんどせずに即興で作られたもので、夜が更けるにつれ、ますます良い音に感じられた。
・・・だが実は、"大失態 "を犯していた。
翌朝になって、ステレオの片側が接続されていないことに気がついたのだ。
しかし、そんなことは別にどうでもよくなるくらい、このレコードのベーシックで「アンプラグド」な特徴が証明されたということだ。
「Get Happy!!」は決して巧みなアルバムではなかったが、再びエネルギーと開放感で満たされていた。
私たちは再び表舞台に立つ。私はそう願っていた。


年が明けてすぐに、私たちはシンガポール行きの出発ラウンジでコンコルドに乗る準備をしていた。
大きなフェスティバル*1の出演が決まっていたニュージーランド行きの最初の行程だ。
エルヴィスは、このフェスティバルをバンドで楽しんで、往復2週間の旅費の中から残ったお金を分けようと決めた。
旅に出るのは私たち4人と、ツアーマネージャー、看護師、後見人、会計士、保釈交渉人として採用されたエージェントのナイジェルだけだった。
ナイジェルはゴールキーパーで、何度か一緒に5人制のサッカーをしたことがある。ある試合の後、私は彼のプレースタイルが「古代の水夫(エンシェント・マリナー)」にインスパイアされているに違いないと言った。
「どういう意味だ?」
私はコールリッジの叙事詩の最初の行を引用した「それは古代の水夫であり、彼は3つのうちの1つを止める」


コンコルドのキャビンは細長く、窓は港の穴のようだった。まるでロケットに座っているような気分だ。
何度飛んでも窓際の席が好きで、離陸の瞬間、眼下に広がるモザイクのような田園風景を飽きることなく眺めた。
本土から離れると、機長が「皆さん、これから超音速になります」と告げた!
機内前方のデジタルのスピードメーターは、背中に当たるシートの圧力で感じられる加速を記録している。
やがて、空は銀色の斑点が入った深い藍色となり、地球の曲面や水色の帯が見え、わずか8マイルの高さで人間たちが彷徨っているのが見えた。


シンガポールでは、ラッフルズ・ホテルにチェックインし、芝生の上に置かれたテーブルで夕食をとった後、外に出て、必然的に路面にあったバーに行き着いた。
背が高く、上品なシースドレスの女性がやってきて、ピートの膝に座った。
こんなエキゾチックな場所に来たのは初めてだったので、みんなはじめはピンと来ていなかった。
「質屋の前で彼女に会えば、彼女のタマを握ることができるぞ」と、彼女のエキゾチックな側面を教えてくれるようにナイジェルは言った。
それが私たちのレディボーイとの最初の出会いだった。
「ここで一番格好いい女性は男性だと言われている」とナイジェルが言った。
その通りだと思った。
が、その通りでもなかった。タマはテープでしっかり固定されていたからだ。


ニュージーランドオークランドに到着すると、ピートが持っていたシンガポール土産、コブラと格闘しているマングースのぬいぐるみが押収され、入国審査で口論になった。
ピートは、「これは子供が遊ぶためのものだ」と言った。
結局、私たちは入国審査を通った。


ヘリコプターで会場まで行くことになっていたが、エルヴィスは乗り気でなかったので、車で行くことになった。
そのあと、ステージ衣装に着替えて、ゴルフバギーに乗り込み、キャラバンからバックステージまで移動した。90分、さらにアンコールも2回あり、今までの中で一番長いセットになった。
私たちはそのまま、新しいラインナップになったトーキング・ヘッズを観て、閉会式の花火を見た後、キャンピングカーのワゴン・トレインに乗って帰路についた。


次の目的地はペルーだったが、エルヴィスはそのフライトがDC10であることを知った。DC10はエンジントラブルで悪名高く、操縦士にとっては常に緊張を強いられる。
そこで、10,000マイル遠くなるが、ロサンゼルス経由に変更し、ボーイング747で行くことにした。
ロサンゼルスでは、サンセットから少し離れた丘の中腹に建つ巨大なウェディングケーキのようなホテル、シャトー・マーモント*2に宿泊した。
窓からは、映画、歯磨き粉、たばこの広告の看板に描かれた顔が、にやけているばかの列のように続き、やがて消え行くように見えた。


このホテルには、アメリカのパワー・ポップ・コンボであるザ・ナック*3というバンドもチェックインしていた。
私がバーに行ったとき、エルヴィスはすでにボーカルのダグ・フィーガーと話をしていた。
ナックのヒット曲「My Sharona」が「Pump It Up」に似ていることを、どちらが先に口にするだろうかと思った。
彼らはリフを少しストレートにし、少しだけポップにして6週間のNo.1ヒットを記録していた。
私はエルヴィスに「相手を小馬鹿にしたようなことを言うなよ・・・前に何があったか思い出せよ」と思っていた。
その気になれば我々は容赦しないが、そのせいで深刻なトラブルに巻き込まれたことも一度や二度ではないのだ。
だが、仮にもしそうなったとしてもしょうがないことではある。自転車から転げ落ちたらまた乗ればいいだけだ。


リマに向かうヴァリグ航空のフライトは、素晴らしいものだった。
ランチにはキジ肉かフィレステーキが用意され、ジュヴレ・シャンベルタンが用意されていた。
私は座席の背もたれからナイジェルの座っているところを見た。

「今の財政状態はどうなっている、ナイジェル?」
彼は顔を上げなかった。
「ナイジェル?お金の方は大丈夫なのか?」
「ああ・・・ちょっと曖昧で分からないなぁ・・」
そこでチーフパーサーに遮られ、「すみません、ワインのオーダーはこれ以上受けかねます」と言う。
ナイジェルは「何を言ってるんだ?まだ酔っていないぞ」と言った。
「はい、分かってます。しかし、このままではこのフライトで利益は出ないことになります」と彼は残念そうな笑みを浮かべて付け加えた。冗談ではないのかもしれない。


午後遅くにはリマ・シェラトンにチェックインし、私は散歩に出かけた。
街の交通はまるでスクラップ置き場のようだった。ドアにぶら下がり、翼を失った錆の山が通り過ぎ、暗い煙を吐きながら疲れ切った車が走っていた。
その夜、私たちは「街で一番いいレストラン」に行った。そのレストランの客は、軍隊、警察、ギャングが自由に交わっているように見えた。
特に安くもなく、美味しくもない。
そこでスコットランド人に出会った。スコッチを1本持ってくればパーティーに招待したところだが、スコッチは本国より10倍も高いらしい。
私はタクシーの中で「ペルーで何をしてるんだ?」と会話を弾ませるために彼に聞いた。
「あなたこそ、ペルーで一体何してるんですか?」と返された。


リオのベッドでは、「ヴァリグ・エアラインでのフライトはあれで終わりだ」とエルヴィスがうめき声をあげていた。
「なぜだ?どういうことだ?どうしたんだ?」と私は聞いた。
「具合が悪い、昨日食べた魚にあたったんだと思う」

私もそれほど元気ではなかったのだが、やがて立ち上がって散歩に行けるほど元気になったとき、ホテルを出てカーニバルのフィーバーに突入した。
数秒おきに、ポリリズムの即興演奏に没頭するパーカッショニストの群れが通り過ぎていった。


私は大きな波が押し寄せる海岸の端まで歩いた。ビーチはゴールポストの海だった。
サッカーのピッチは100個あった。そのどれもが、貧困の生活から逃れたがっている痩せた茶褐色の11人1組の子供たちの集まりで使用されていた。
砂が深すぎてボールがうまく転がらないところでは、チップを入れたり(下から掬い上げる)、プレーヤーからプレーヤーへ正確にヘディングしなければならない。
彼らのテクニックがどこから来たのかを知ることができたのだ。
イングランドはサッカーを世界に広めたかもしれないが、そのやり方を教えてくれたのはブラジル人だった。


ビーチ沿いをさらに歩き丘の上まで行くと、次第にみすぼらしい通りの貧民街へと変わっていった。
二人組の子供が裸足で、ボロボロの格好でゴミ捨て場の端に座っていた。
そこにもう一人、水面から茶色くやせ細った、体を濡らした子供が顔を出し彼らに加わった。
ここは、私の持っていた観光用の地図には載っていない場所だった。
洗いざらしのシャツを着て、新しい時計とカメラを持っていた自分の姿に違和感を覚えた。
私は間違った場所に来てしまったのだ。
ビーチから戻ってきた若い男が2組いた。全員痩せこけた体型でシャツも着ず、靴もはかずにカットオフ・ジーンズをだけを履いていた。
彼らに少しだけ絡まれそうになったが、私を襲うことはしなかった。
仮にもし襲われたとしても彼らを責めることはできないだろう。


翌日、私たちは再びコンコルドに乗り込み、シャルル・ド・ゴール空港の巨大なハムスター飼育場のようなチューブやトンネルを抜け、パリへと向かった。
最後の仕上げとしてナイジェルは、ヒースロー空港に白いロールス・ロイスを手配してくれた。
私たちは腰を屈めてその車に乗り込んだ。しかし、休日の疲れを癒すための休日はなかった。


今月の旅程はこうだった。
ロンドン、シンガポールオークランド、リマ、リオ、パリ、ロンドン、リバプール、ブラッドフォード。
おそらく、ジェイクが私たちを現実に引き戻そうとしたのだろう。
このタイミングでついにナイジェルの口座が明らかになった。70,000ポンドの予算のうち、わずか1,100ポンドしか残っていなかったのだ。


世界一周の旅は贅沢だったが、1月末にはイギリスで「Get Happy!!」のプロモーションをするために「トイレット・ツアー」と名付けたツアーが始まった。
「ケツの穴の宇宙ツアー」と呼ぶのはやめておこうと思ったのは、ただ通り過ぎるだけなのかと聞かれたからだ。
このツアーは普段バンドが来ないような場末の会場で演奏するというアイデアの元に行われた。
つまり、普段郊外に住んでいる人たちがライブを観に都会へ行くのとは逆で、都会に住んでいる人たちが何もないところへ出向かなければならない。
数千人規模の会場ではなく、数百人規模の小さな会場でやるが、それが果たしてアルバムの売り上げにつながるのかどうか。


コーンウォールでは、輸入車であるアメリカン・シルバー・イーグル・バスが小さな橋を乗り越えられず、断念せざるを得なかった。
別の場所では、狭い道路がきつく曲がっていたため、同じようなことが起こった。
フィッシュガードでは、楽屋もバックステージもなかった。ライブが終わって汗びっしょりになると非常口からステージを出て、駐車場で毛布を一枚ずつかけて身を寄せた。
風邪をひくには絶好の方法だ。実際風邪をひいた。
そして、ホテルも似たような状況だった。
真夜中の人里離れた地方のホテルでは、ルームサービスもなく、ナイトポーターを見つけられたらラッキーという程度だ。


「サンドイッチなら出来ますが、何人分必要ですか?」
「8から10人分くらいかな、できるだけたくさん作ってほしい」
「チーズかハムのいずれか、またはチーズとハムの両方が用意できます。ところで、バーは11時に閉まってしまいます。6階にドリンクの自販機がありますが、それを動かすには350ペンスが必要です。自販機からはおつりは出ません!」
「もしくは・・・温かい食べ物は何かできないのか?」
「チーズかハムのトーストなら・・・」


ヘイスティングス埠頭でのライブを控えた午後、リマで出会ったスコットランド人が100プルーフのネイビー・ラムを2本ほど持ってホテルに現れた。
「試してみるか?」
数時間後のライブでは、エルヴィスが「Watching the Detectives」の歌詞をすっかり忘れていた。

一体この後どうしただろうか?
答え:何らかの危機を装ってステージを去り、ライブを中止するかもしれないと脅かし、そして、しばらく経ってから戻り、一応のセットを終える。


この大失敗は私たちを立ち直らせるほど十分であり、ツアーはドクター・フィールグッドの本拠地であるキャンヴィー島でのショー*4で終えた。
ショーの後、私たちはシンガーのリー・ブリロー*5の家に行った。
前室全体がパブラウンジに改造され、テーブルと椅子が並び、バーにはスツール、ボトルやグラスの入った棚、そして蒸留酒のための適切な光学式ディスペンサーまで設置されていた。
不思議なことに、またしてもエイプリルフールの日にすべてが完了してしまった。


「Oliver's Army」を初めてステージで演奏したのは、デンマークのフェスティバル*6だった。
ビーチ・ボーイズの「Don't Worry Baby」に酷似したこの曲は、当初特別な曲とは思っておらず、エルヴィス自身も将来のB面としてストックしていた。
しかし、この曲がイギリスでチャートインした瞬間に私たちは正真正銘のポップスターになった。
そしてそれは単純なシンガロング(みんなで一緒に歌うような楽曲)ではなかった。
その頃、私たちのライブに来ている観客のほとんどは、私たちの他の以前の曲や、それまでのライブのやり方を知らない人たちで溢れかえるようになった。
私たちが "ヒット曲 "を演奏するまで、困惑しているように見えた人もいた。
そして、その人たちはヒット曲で満足して帰っていくのだが、我々はいつもそれに悔しい思いをしていた。


エルヴィスは、これを受けて、「本当にもうたくさんだ、本当に引退する」と宣言してしまった。
しかし、またしても純粋な衝動がメロドラマに転換してしまった。


ティーヴ・ナイーヴがエルヴィスの引退宣言を信じ、2週間後にヨーロッパ・ツアーを開始する予定だったにもかかわらず、アメリカへ向かったのだ。
そして、イースターの週末、スティーヴはロサンゼルスで交通事故に巻き込まれ、友人の1人が死亡してしまったのである。
ティーヴ自身はそれほど大きな怪我はしていなかったが、かなりショックを受けており、しばらくは彼を欠くことになってしまった。


ティーヴ抜きでの最初のギグはガーンジー島だった。
しかし、私たちには悲劇から喜劇へと一挙に移行するためにふざけた計画があった。

私たちは「ホレス・バーロウ・エクスペリエンス」と名付けられたトリオで演奏することにしたのだ。
この少し前にストレイ・キャッツを観たので、セットの前半はロカビリー・スタイルで、私がウッドベースを担当することにした。
以前、北部のフォーククラブで1週間、ウッドベースを弾いたことがあるが、その時は一本調子で突っ走るような演奏しかできなかった。
ウッドベースエレキベースのように弾くのは不可能だということがすぐにわかったのだ。

そして、前半のセットで私が手も足も出なかったとしたら、後半はエルヴィスの番だ。
この後半のセットには、ありとあらゆるエフェクターを買い込んだ新しいギターヒーローが登場するのである。
しかし、30分もしないうちに、彼がヘンドリックスではないことがすぐに明らかになった。
スイッチの押し間違いでエフェクトがどんどん暴走し、アナーキーサウンドになった。

私たちは早めにセットを終えて、まるで「以上です、みなさん」とでも言うように、ニヤニヤしながらステージを降りた。
ステージに戻ったら「ちゃんとした歌を歌わないと、生きて島を出られないぞ!」と言われてしまった。
ホレス・バーロウ・エクスペリエンスの出演はこの一回きりで終わった*7


翌日からオランダで4週間のヨーロッパ・ツアーが始まるため、できるだけ早く何とかしなければならなかった。
そこで、よりオーソドックスな解決策が考案された。
ティーヴが戻ってくるまでの間、ルーモアのギタリストのマーティン・ベルモント*8が参加してくれることになったのだ。
マーティンはすぐにニックネームを手に入れた。
「ベル」と「モント」はフランス語で「素敵な」「山」と訳されるので、彼はすぐにミスター・ナイスマウンテンと呼ばれるようになった。
というのも、彼はちょっとした巨人で、すぐに笑顔を見せ、ユーモアのセンスに溢れていたからだ。
彼は、BBキングのように、自分もギターをしゃべらせることができると冗談を言っていた。
彼はすぐに物事のコツをつかんだ。


マーティンは「まったく理解できないよ、このバンドの曲はすべてのヴァースでコードが微妙に違うんだ」と言った。
「そのとおり、アトラクションズへようこそ」と私は言った。

ちょうどその時、ツアーマネージャーが私たちに日当(30ポンド)を渡すために近づいてきた。
「ありがとう、ところで、これってどのくらいの頻度でもらえるの?」とマーティンが言った。
ピートは真顔で「20分おきだな」と言った。

ローマに着く頃にはマーティンはルーモアに戻り、その後の数日間はスクイーズからジュールズ・ホランドを借りた。
その月の終わりには、スティーヴは復帰する準備ができていた。



2年半の間に4枚のアルバムを作ったにもかかわらず、さらにもう1枚のアルバム「Taking Liberties」がリリースされた。
このアルバムは主にアメリカ市場向けに作られたもので、B面曲やオルタナティヴ・トラック、アウトテイクを集めたものだ。
UKタイトルの「Ten Bloody Marys」と「Ten How's Your Fathers」はアメリカでは少し非PCかもしれないと考えられていた。
そして、5枚目のオリジナル・アルバムの制作に取り掛かった。


ジェイクの計らいで、デヴォンにある彼の弁護士の農家を使わせてもらい、次のアルバムのための素材を作り上げた。
構造化された「Armed Forces」と、自由奔放な「Get Happy!!」の間でバランスを取るような曲を揃えた。
しかし、実際にレコーディングが始まると、順風満帆とはいかないことがすぐにわかった。

エルヴィスは、私たちを快適な環境から引き離すためにスタジオを変える必要があると判断し、フルハム通りから離れた窓のないバンカーで厳しい一日を過ごし、街の中心部にあるDJMに移った。
トロッグス*9が伝説的な議論を交わしたスタジオにいるということ自体はいいことだったが、しかしそこはあまり良い場所ではなかった。


レコーディングにはミスター・ナイスマウンテンも加わった。
彼と私は長時間にわたって抑えきれないほどの笑いに襲われ、2日目の仕事はすべて水の泡になってしまった。
私たちと同じように、マーティン・ベルモントも『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove)』の脚本の、核兵器による大虐殺の後、ピーター・セラー演じるドクターが「ナチス」なまりで話しながら、「動物は繁殖され飼育できるのでしょうか?」と喜んでいるところをよく覚えていた。
残念ながら、「Big Sister's Clothes」は「Sheep to the slaughter...」というセリフで始まる曲だった。
私はマーティンの視線を避けようとしたが無駄だった。
「Scheep to the schlloorrrter!」を私たちは大合唱し、涙が流れ笑いすぎで引きつるくらいまで爆笑し続けた。
そして、ようやく元に戻ったと思ったら、また始まってしまうのだ。
「Scheep to the schlloorrrter!」


やがて、慣れ親しんだエデン・スタジオに戻ると、新しいレコードが形になってきた。
ティーヴは「Get Happy!!」では、よりファンシーな役割を果たしていたが、今回はピアノとヴォーカルの「Shot With His Own Gun」で再びミックスに加わっている。
また「Watch Your Step」などの曲は、ミドルテンポのエレガントな曲として生まれ変わっていた。
「Clubland」「New Lace Sleeves」「You'll Never Be A Man」などの曲とともに、よりメロディックなベースラインを入れることができ、ノートベンディングも入れることができた。
「Lovers Walk」や「Luxembourg」のようなアップテンポな曲もあったが、アルバムの大半を占めるものではない。
その中でも、マーヴィン・ゲイの「Ain't That Peculiar」からバブリーなベースラインを拝借した「From a Whisper to a Scream」は最高だった。
エルヴィスが声を休めている間、スクイーズのグレン・ティルブルックがガイド・ボーカルを務めたのだが、この録音はテープに残され、最終的にデュエットとなった。


エルヴィスがアルバムタイトルを「ルッキング・イタリアン」にしたいと言い出したことだけが、私たちが乗り越えなければならない課題だった。
提案されたジャケットは、タバコの煙の中でバーカウンターに座り、フェドラをかぶってレインコートを肩にかけたもので、本当にひどいフランク・シナトラのパクリだったので、私はただそれを「解決する」必要があったのである。
ピート・トーマスが「他のアルバム・タイトルが思いつかないなら、それに預ける(Trust)しかないな」と言った。


「Trust」のセッションが終わった2日後、ミセス・トーマスとナイロビ行きの飛行機に乗った。
私が世界中を飛び回って "お出かけ "している間、彼女は落ち着きをなくしていた。
私が休みの日に、彼女が一番したくなかったことは、一日中テレビでジミー・ホワイトを見ている私を見ることだった。

もし私たちが白い砂のビーチに行って、ドイツ人よりも先に日光浴用のタオルを広げられたのであれば、私にとっての旅行はうまくいったかもしれない。
だが、スザンヌは新しいカーキ色のショートパンツを買っており、彼女の中の人類学者の設定を最大限に盛り上げていた。
それから3週間、私はザンジバルの心地よい風を浴びることもなく、ケニアのあらゆる轍のある道をくたびれた古いフォルクスワーゲンのキャンピングカーで走り回り、特に興味深いシロアリの丘を見るために70マイルも遠回りすることになった。


帰国した翌日、バンドはジャージーに行き、バーニー・バブルスの監督の元、私はマサイの槍を持ち「Clubland」「New Lace Sleeves」のビデオを撮影した。


ジェイクは私の焼けた肌を見て驚いていた。
「それを何とかするまでは何も撮れないぞ!」と言い、白い化粧で日焼けを消した。
その後、4週間のスカンジナビアツアーがあり、12月の最初の2週間をスザンヌと私はフロリダ州セントピーターズバーグのスティーヴ・ナイーヴの家で過ごすことになった。
ジェイクは「休暇がクソみたいに多い」と言っていた。


最初の数日は、スティーヴのタンデムで街中を回ったりビーチに行ったりと、定番の過ごし方をしていた。
しかし、ある夜に突然、階下から聞こえてくる大音量の音楽で目が覚めた。
一体何をやっているんだろう?と思いながら階下に降りると、そこには涙を流しながら震えるスティーヴが座っていた。
私は一気に何かが起きていることに気づき、ただ座って彼と一緒にジョン・レノンを聴くべきだと思った。
ティーヴはジョン・レノンが大好きで、レノンが新しいアルバムをレコーディングしているときにニューヨークで彼を探し出して、無償で演奏することを申し出たこともあった。
それなのに、友人の死に加えて、こんなこと*10になってしまったのだ。

スザンヌと私は海辺のホテルに移り、ダコタ・ビルの外で起きた銃撃事件の新聞記事を何度も何度も読み返した。
それからまた砂浜を長く歩き、すべてを受け止めようとしていた。