俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

ブルース・トーマス自伝 11 Travel Day


1978年、ツアーに明け暮れていた頃の話。

CHAPTER 11 Travel Day

音楽業界において最も速いスピードで上昇を続けていた我々は、ヒップからポップへ、つまり知る人ぞ知るバンドから誰もが知っているバンドへと突然の転換期を迎えていた。
サタデー・ナイト・ライブは、ビートルズにとってのエド・サリバン・ショーのように機能していた。
もちろんビートルズと同じ規模ではないが、何千万人もの視聴者と、それを見た人たちが私たちについて語っていた、ということはそういうことだ。
あのたった10分間のテレビ出演は、半ダースのツアーと同じくらい、アメリカでのブレイクに貢献したのだ。
ただ、結局はツアーを行うことになったのだが、この容赦のないツアーは犠牲者を出すことになってしまう。


イギリスとアメリカは、ほぼ共通の言語を持っている。しかし、特に有名人や名声に対する考え方が異なる。
数回のツアーでその違いを実感することができた。
我々はすぐに、イギリス人とアメリカ人それぞれのペルソナ(人格)を確立する必要があったのだ。
アメリカ人は成功を好み、それをみんなで共有する。それで自分も特別な存在になったような気になる。


ジョン・ベルーシが、どんな人だったか思い出してほしい。


イギリス人は、気骨と他人より上に立つことを好む。
ピンクのジャケットを見ると、「お前、誰だ?お前なんか大したことないやつだ」と言われる。
なので、しばらくの間は、イギリスでは控えめにし、アメリカではそれよりも気合を入れていた。


* * *


78年1月末にはアメリカに戻り、まずはニューヨークで新しい機材を購入し、その後オースティンに戻ってきた。オースティンは、私たちにとってアメリカのホームタウンだった。
近年、オースティンと言えばランス・アームストロング*1と永久に関連付けられ、ITタワーで埋め尽くされ、音楽バーは徐々に「レガシーな」の音楽バーになっていったが、かつてのオースティンは、州会議事堂とドリスキルホテルという2つの主要なランドマークを中心に建設された、とてもファンキーで小さい町だった。アントワン、アルマジロ、そして6番街の他の多くのクラブなど、どれも素晴らしい雰囲気を持っていた。


私は南部、特にニューオリンズやメンフィスが好きで、ピーボディ・ホテルでは、黒焼きのキャットフィッシュ(ナマズ)を楽しみにしていた。
南部は、ロック、ブルース、ソウル、ジャズ、ファンクなど、あらゆる最高の音楽が生まれた場所であり、現代音楽の発祥の地と呼ぶにふさわしい。
しかし、アメリカはエルヴィス・プレスリーを去勢し、ナッシュビルイージーリスニング化させたように、偉大な文化を自分たちの得意とする方法で破壊してきた。アメリカは文化を吸収して均質化し、テーマパークのような形で売りつけてしまうのだ。


夕方、珍しく休みが取れたので、私は川沿いの橋のそばにあるバーへ行った。店には私たち数人しかいなかった。
私は飲み物を注文し、バンドの出番を待っていた。
ボロボロの古いストラトとつばの広い帽子をかぶっているギタリストとシンガーの3人組がステージに登場した瞬間、期待できる雰囲気に見えた。

彼らが「Texas Flood」を始めると、すぐにすべての約束は果たされた。ライブが終わると、私は歩いて行って低いステージに飛び乗った。

「ぜひ握手させてくれ、ここしばらく聴いた中では最高の演奏だよ」とそのギタリストに言った。
「いや、今夜は本調子じゃなかったんだ、マメが何個かできてしまってね」と彼は言って、指の先を私に見せてくれた。
「いや、それでも君の演奏は素晴らしいよ」と彼を励ました。
「じゃあ、僕の兄のジミーの演奏も聴くべきだと思うよ」と彼は言う。
「ところで、君の名前は何て言うんだ?」と尋ねた。
「スティーヴィー・・」
「スティーヴィー・・何?」
「 ...ヴォーン*2だ!」


* * *


Texas Flood - Stevie Ray Vaughan
www.youtube.com

私たちのバンドのバスには、後ろに4つのベッドがある部屋があった。
遅い時間のギグを終え、疲れを癒すためにホテルに荷物を持ち込んだ後(またはそのままの状態で)、奥の部屋が唯一眠れる場所だったことがよくあった。
遮光ブラインドを少し上げて、エバーグレーズやセントヘレンズ山の噴火など、素晴らしい景色を数秒間眺めた後、ブラインドをまた閉じて休んでいた。
この奥の部屋はいつもこういう状態の人間が使っていた。そのため、その年の暮れに「牧師」ジム・ジョーンズ*3が錯乱した信者たちに毒を飲ませて口を開けて仰向けになっているところを後で見つけたジャングルの屋敷にちなんで「ジョーンズタウン」と呼ばれるようになった。


真ん中の「娯楽室」には、読書やトランプができるテーブルとベンチシート、ビデオ鑑賞ができるソファとテレビがあった。最新の映画はすべて揃っていたが、何度も何度も繰り返し見て、アクションと一緒に台詞を全部暗唱できるようになったお気に入りもあった。「ネットワーク」「ドクター・ストレンジラブ」「時計じかけのオレンジ」などがその代表的なものだった。


我々が「時計じかけのオレンジ」を観ていることはすぐに知られるようになり、コンサートには主人公のアレックスとその仲間たちの格好をしたファンがやってくるようになった。
特に、車椅子に乗ってメイクもばっちりのフル装備の男がいた。
彼は毎回来場しコンサートの最前列に座ることを許されていた。
だが、車椅子のアームにマイクを内蔵し、座席の下には録音システムを設けて我々のコンサートをすべて盗聴していた男だと気づいたのは、それから数ヵ月後のことだった。


映画を観ていないときは、誰かが作ったミックステープを聴いていた。エルヴィス作成のテープはこの点では明らかにトップで最も回数が多い。
しかし、公平を期すために書くと、彼の選曲はそのとき私たちが取り組んでいたアルバムやプロジェクトに関連していることがほとんどだった。


バスには、二段ベッドのある寝室、トイレ、電子レンジのある小さなキッチン、そしてソファとテレビのセット、最後にドライバーズキャビンがあった。
シェファーズ・ブッシュ・グリーンの49号車よりはずっと豪華かもしれないが、エルトンのボーイング727にはまだ少し足りない。


ホテルでは、スティーヴとピートが同室、エルヴィスと私が同室だった。
彼が朝シャワーを浴びるとき、バスルームに響くザ・クラッシュサウンドで起こされることには慣れていた。


当然のことながら、ルームメイトのリストには、私たちの名前が書かれていない。
ある時は、スティーヴとピートがノーマン・ウィズダムとヴィンス・ポッシュだった。
一度、名前を作り始めると止まらなくなるのだ。
ジャック・ウジ、ノーマン・D・ランディング、ギデオン・シャンディ、アルバート・ロス、ジャスティン・ケース、などなど。
マイケル・グルームという男がいたが、彼は自分の息子にオーソンという名前をつけた。私たちのツアーの日程表で最高の名前は、同室になったロードクルーの2人の実際の名前だった。


この頃、私たちはツアーと宿泊の詳細が細かく記載されたスケジュール表が印刷されていた。

「おい、ジェイク」と私は言い、問題のページを指差した。
「6,000キロも運転するのに、なぜ "休み"と書いてあるんだ?」
「それは公演がない日だからな」と、彼はそう言って私を黙らせようとした。


それはないだろう。


「それで、その休みの日に何をするんだ?」と私は続けた。
「わかった、8時間バスに乗っているから旅行の日にしようか?」と言うので、
「休日の定義とは、目覚めた時と同じ場所で寝て、その間に何もしないことに他ならない」と、冗談半分に、弁護士らしい言葉で説明した。
その時の彼は、私に仕事を依頼する前の審査が果たして十分だったのか、後悔していたかもしれない。
このときは、彼が「失せろ」と捨てゼリフを吐いて黙ってしまった。


だが、実はその前のツアーの最後のニューヨークでは、ジェイク、エルヴィス、私の3人でバンドのアピール方法についての、これよりもさらに緊迫した議論があった。
ステージではエルヴィス・コステロのショーと宣伝していたが、私は「......アンド・ザ・アトラクションズ」を追加すべきだ主張した。
我々のファーストアルバムのレコーディングも控えていたし、ジャケットにもそれを反映させる必要があるじゃないか、と言った。

「人は4つの顔より1つの顔をよく覚えているものだ」とジェイクは言う。
その時、エルヴィスは立ち去ろうとした。
「おいどうしたんだ、お前はバンドの一員じゃないのか?」と私は彼を呼びとめた。
返事はなく、ただ、亡くなった名前の人が時々するように、少し唇を丸めていた。
この時、私のニューウェーブへの進出は終わってしまうかもしれない、私は少し自分の意見を押し付けすぎたかもしれない、と思った。

しかし、事態は逆に進んでいった。

ライブもアルバムも「エルヴィス・コステロ・アンド・ザ・アトラクションズ」となり、アルバムのスリーブには、表面がエルヴィス一人、裏には私たち4人の写真が載る、ということになった*4


* * *


私は詳細な日記はつけておらず、日付と場所のリストだけしかない。
なのでこのツアーで残っているのは、些細なものから際立ったものまで、バラバラな印象だ。

ニューオーリンズ: あるバーに入ったら、真っ赤なスーツに身を包んだミッドナイト・アワーのウィルソン・ピケットがステージにいた。

ヒューストン:ベッドヘッドの後ろに古いチューインガムが挟まっているのを発見した。

ダラス:ディーリープラザに行き、草むらに立ってみた。私たちは皆、「あの日*5」についての証言や説を聞いてきた。
しかし、私が何よりも不思議に思ったのは、なぜ大統領の車列が、あんなに長い直線のルートからヘアピンカーブを曲がり、速度を落として立ち止まらせる必要があったのかということだ。
完璧な仕込みだ。
しかし、他の多くの事件と同様、私たちは真実を知ることができない。
私はその場に立ち尽くしながら、イングランド北部の寒い灰色の11月の夜、劇場へ向かう興奮した子供たちの行列の中で一瞬立ち止まり、別の大陸の晴れた午後に起こった悲劇的な出来事を聞いたことを思い返した。
今、私は以前の自分とは正反対のつながりを感じている。あの時の「彼」は、ある日、自分が実際の場所に立つことになるとは思ってもみなかっただろう。


セントルイス:初めて行ったときは誰もがすることではあるが、大きな「マクドナルドのアーチ」を登ってみた。しばらくすると、いかがわしい場所に迷い込んでしまい、ソウルフードが食べられなくなってしまった。
予想外だったのは、その夜のサポートアクトが、同じくアメリカで足場を固めようとしていたビリー・コノリー*6だったことだ。
驚くなかれ、観客は彼のジョークをすべて理解できなかった。
たとえば、義母のお尻を地面から突き出して埋葬し、自転車を停める場所を確保するというジョークだ。彼はまるで水を得た魚のようだったが、我々はそれを楽しんでした。
我々は彼のセットに続いて、自分たちのセットもあっという間に終えてしまって、コンサートの契約予定時間に足りていなかった。
我々はステージを飛び出し、そのまま裏手に停まっていたバスに乗り込んだ。このショーは地元のラジオ局で生中継されており、ホテルに戻る時もまだ放送中だったのだ。

観客の怒号が飛び交う中、興奮した司会者が「大丈夫、もうすぐアンコールでステージに戻ってくるから」と叫んでいた。
「いやいや、それは無理でしょう」と、まるでいたずらっ子の小学生のように私たちは騒いでいた。
「あ、そろそろ、出てくるかもしれません」
「いやいや、出てこないよ」

カンザス:-
ボルダー:-
バークリー:-


カリフォルニア州デイビス:大学で演奏した後、『シャイニング』に出てくるようなリゾートホテルに泊まった。
その夜、ボールルームで演奏していたのはウェイン・コクレーンとCCライダーズだった。
コクランは白人版ジェームス・ブラウンで、元アル中だが更生していた。クライマックスになると、シャンパンボトルをステージに注ぎ、自分は悪魔の酒を使いこなせる人間だということをアピールしていた。
私たちは、彼の演奏が終わった後、カーペットの汚れを落とそうと思った。
後で知ったことだが、その時のベース奏者は「ジョッコ」パストリアスという男だった。

オレゴン州ユージーン:-

シアトル:レッド・ツェッペリンがバスタブに入った若い女性など過剰な行為をしたことで有名なマッド・シャーク事件*7があった、エッジウォーター・インに宿泊した。半日、海を眺めながらABBAの「Name of the Game」を何度も何度も聴いた。

新しいツアースケジュールの裏に、ジェイクからのメモがあった:


親愛なる仲間たちへ、
この旅程は、これまでで最も複雑なものである。しかし、それはあなたの心を念頭に置いて設計されたものだ。残念なことに、コンピュータが発達したこの時代には、やはりこの文章を読むことが必要なのです。注:休みの日には日付が追加されることがある。

その日のページには、「休日:ポートランドからミネアポリスまで1426マイルをドライブ」となっている。

結局、2日間(正確には44時間)のドライブで、窓から見えるのは白一色の雪道だった。私たちはうんざりするほど映画を見て、みんなのミックステープをうんざりするほど聴いた。そして、うんざりするほど酒を飲んだ。最後の手段として、私たちはいつもの座席を入れ替え、新しい視点が何かを変えるかどうかを確かめた。

このとき、バンド映画のシナリオを考え始めた。エルヴィスが考えたのは、ディストピア的なプロットで、最新鋭の監視装置を使って集合住宅に住む人々を監視する影の人物に自分を重ねるというものだった。ピートは、ジャングルの空き地で偶然見つけた謎の建物、インフィニット・プレジャードーム(Infinite Pleasure Dome)を登場させるというものであった。デボラ・ハリーがカメオ出演し、「ビキニを溶かす光線銃」を巧みに操るというのが、彼のオープニングの残りの部分である。

ベッドから起きたらトイレに行くのに左折するか右折するか、壁紙が赤か青か緑か(通常はベージュだが)だけが変化するような「グラウンドホッグデイ」の中で、私たちの心は雪の降る廊下を旅していたのである。
一日一都市として、ひとつの記憶に纏められてしまう。

ミネアポリスポートランドと同じく、寒くて外に出られなかった。
バッファロー:アーチのある赤レンガの建物があった。
ケープコッド:海辺の電話ボックスを探していた。
「 ...もう着いたのか?」
いや、まだ着かない。
バス・サーフィンはそうやって生まれた。立って、足を少し曲げ、何もつかまらずに、道路の凹凸をすべて吸収するのだ。

ミルウォーキー:-
ケント:-
ブロックポート:-

ピッツバーグ: 金属の橋が素敵だった。

シンシナティ:クラブで「Heart of the City」を演奏した時、最前列のテーブルに誰かが立っていた。たぶん、彼らはこれを覚えているだろう。間違いなく、毎晩毎晩、地名があやふやな間に、私たちは壊しては戻し、今まで見た中で最高のバンドとして多くの人が一生忘れないようなセットを演奏していたのだ。1週間後、1ヶ月後、その部屋はまだロックンロールの臭いがしていただろう。

アレンタウン:-
ニューブランズウィック:-
フィラデルフィア:-
オールバニ:-

ロードアイランド州プロビデンス:プロモーターのバンジーニ兄弟とパーティを開き、巨大なロブスターと50年物のクラレットを振る舞った。

ワシントン:-
アマースト:-
ハムデン:-
ロングアイランド:-

バッファロー:ナイアガラの滝でチョーキー・デイヴィスと写真撮影。滝が凍っている。-44°だった。数分間だけ外に出た。

トロント:1978年3月6日、El Mocamboでのその夜のライヴが録音された。Live at El Mocamboは、最初はブートレグ、後に公式リリースされ、当時の私たちが何をしていたかが分かるだろう。


ツアー最終日、新しいスケジュールが発表された。帰りの飛行機、ロンドンで4日間のオフ、つまりジョン・ピール・ショウ、トップ・オブ・ザ・ポップス2回、スティッフ・ツアーの映画の試写だ。そしてそのまま5週間のイギリスツアーに突入することが判明した。
その後は、フランス、スイス、ドイツ、オランダ、ドイツ、デンマークノルウェースウェーデンフィンランドを5週間かけて回ったあと、ニューアルバムのリハーサルとレコーディングを行い、その後はカナダ、日本、オーストラリアでツアーを行い、ティータイムに間に合うように帰国した。


イギリスでのツアーが始まって4週間目、我々はマンチェスターのクラブで演奏した。ステージの裏ではセット終了後、いつものように大騒ぎしていた。

その時、私はビール瓶を手に取り持ったまま割ってしまった。瓶を置き、右手の手のひらにできた深い傷に目をやった瞬間、血の気が引いて吐血してしまった。私はすぐに酔いが覚め、正気に戻った。


タオルを持って手に巻き、ツアーマネージャーに言った。
「気を失うまで1分ほどしかない、救急車を呼んでくれ!」
救急病院で、指から2つのリングを切り離し、18針縫って元の状態に戻した。
「第3指の感覚はもうないでしょう、神経を切断しています」と医師は言った。
彼は 「このくそったれめ!」と思ったに違いない。

もちろん、自ら意図的にキャリアを脅かすような怪我をしようとしたわけではないが、潜在意識の中にそういう思いがあったのかもしれない。結果として、2週間も休まなければならなくなった。
代役として、ニック・ロウが立てられ、イギリス・ツアーの残りのライブには一切顔を出すなと言われた。
その代わりにハーレーストリートの専門医に怪我の状態を診てもらうことになった。

「残念ですが、あなたのためにできることは何もありません」と医者は言う。
私の苦悶の表情を見ながら「そもそも、私は婦人科医です。上の階の医者を呼んでください。」とオチをつけた。


2週間後、私はシカゴでバンドに再会した。
ツアーのオープニング・ウィークで、ドキュメンタリー・クルーが私たちを追いかけていた。オープニング・アクトのロックパイルは、ニック・ロウのバンドにデイヴ・エドモンズ、ビリー・ブレムナー、テリー・ウィリアムズを加えたバンドだった。私たちは皆、同じバスで移動し、撮影クルーもスーパーマーケットに至るまで、私たちを追いかけ回していた。

司会者のジェラルド・リベラは、ある老婦人がレジを通ったときに呼び止め、「パンクロックをどう思いますか」と尋ねた。
「そうですね、いつも使っていますよ」と彼女は言った。


ダラスに着く頃には、洗濯をするのに必死になっていた。ピート・トーマスはその問題の回答を持ち合わせていた。
彼はステージで白いTシャツを着ていたが、これはトラックストップで大量に買ったもので、ライブが終わると捨てていたのだ。
彼は、パイントグラス2個に自分の汗を絞り出す儀式を楽しんでいた。パイントグラス2個に汗が入らないと「もうダメだ」と思うのだ。

他のメンバー用の洋服トランクもあったが、私たちのものも同じようにびしょびしょになってしまい、こうなってしまったスーツやシャツは、次に見たときにはカビだらけで捨てなければならないことがほとんどだった。


サンタモニカでは、45分のセットで終了した。プロモーターは、1時間分の契約だったので我々を呼び戻したが、演奏するレパートリーが残っていなかったので、10分かけて機材を壊した。
その夜、ピート・トーマスは "フライング・ベース "に入門したのだ。
私は、最高のクォーターバックファッションで、何もためらわずに、彼に向かってそれを投げつけた。
私が彼にベースを投げつけたのは初めてだったかもしれないが、これが最後ではないだろう。
彼は逃げ出したか、怪我をしたかのどちらかだ。あの夜、ピート・タウンゼントが紙吹雪のようにギターを投げつけているのを見た後では大した話ではない。


ロサンゼルスでは、ユニバーサル・アンフィシアターでボブ・ディランと彼のバンドのライブを観に行った。ショーの後にバックステージに行くと、2人のシンガーソングライターが握手をしていた。
「君のことはよく聞いているよ」とボブは言った。
「君のこと(曲)はたくさん聞いているよ」とエルヴィスが言った。


LA滞在中、私たちはハリウッド・ハイスクールに出演した。観客の中に、アメリカのモデルで、プレイボーイの中心人物であり、ロックンロール・キングの仲間で、スティーブン・タイラートッド・ラングレンジミー・ペイジミック・ジャガーロッド・スチュワートと関係を持ったべべ・ビュエル*8がいた。


ニック・ロウが言うように、彼女は「ぐずぐずしてせっかくのチャンスを逃す」ような人ではなかった。
そして今、私たちのエルは、ビュエルに「アーサー・ミラー*9のように」すっかり魅了されてしまっていたのだ。
彼女の想いは受け入れられた。
最初は「This Year's Model」をPRするための戦略だったかもしれないが、やがてこのことはかなり深刻な事態に陥った。


アーバスに戻ると、アトラクションズはエルヴィスに最高に邪悪なトリックを仕掛けていた。
誰かが「スピーク・アンド・スペル*10」という子供用の知育玩具を買ってきていた。

「スピーク・アンド・スペル」とは何か?

そのおもちゃは、例えば「cat」のスペルを聞かせる。
キーボードで「C-A-T」と入力し、「答え合わせ」のボタンを押すと、その結果を確認できる。
おもちゃは元の単語を繰り返し、答えを再生し、それが正しいか間違っているかを教えてくれる。
「Cat, C-A-T, that is correct」のように。

しかし、スペルを間違えてしまった場合は、こうも教えてくれる。
「Cat, D-O-G, that is wrong」のように。

また、数字を読んだり、簡単な足し算もできる。
「2+2=4, that is correct」

つまり「dog」のスペルを尋ねられたら、次の文字と数字を入力すればいいのである。

「E-C-I-C-U-R-4-B-B」

エルヴィスがミドルラウンジに来ると、「スピーク・アンド・スペル」はテーブルの上に無造作に置かれていた。
誰かが静かに指を伸ばし、「答え合わせ」のボタンを押すと、突然機械的な声が聞こえてきた。

「Dog, EC, I see you are for Bebe, That is Wrong! (Dog, E-C-I-C-U-R-4-B-B, that is wrong)」(エルヴィス、あなたはベベと付き合っているんだな、だがそれは間違いだ!*11

「ふざけやがって!」とエルヴィスが言った。

www.youtube.com