俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 16 前編

第16章「メジャー・デビュー (There's a Girl in a Window)」。16章で4合目くらいですかね。まだまだ先は長い。

1stアルバムがリリースされたあと、アムステルダムで宣材写真を撮る。撮影したのはアントン・コービンという写真家。
Anton Corbijn - Wikipedia

これがアントン・コービンが撮ったコステロの宣材写真。

この本の表紙ですね。

翌日別の写真家に撮ってもらったのがこれ。

ロンドンに戻ってからレコード会社に行ってインタビューやら記者会見やらが待っていたが、目眩が酷く(メニエール?)、アルコールでなんとか堪えながら乗り切った。
記者会見には何やら意味ありげな質問をしてくる人がいたが、実は父ロス・マクマナスが「デイ・コステロ」という名前で、「Long And Winding Road」をリリースしていたことがある。

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記者はこれがエルヴィス・コステロ本人だと思っていたようだ。

New Musical Express, September 17, 1977 - The Elvis Costello Wiki

Ever wondered what Elvis Costello might have looked like when he was 15 years old? When NME reader Thomas Gjurup sent from Denmark a photo of someone called Day Costello, dating from 1970, the curious similarity in name and visage to Stiff's wonderboy Declan — er, sorry — Elvis was as striking to him as it was to us.

Of course, it's nothing more than an extraordinary coincidence, since Stiff's Paul Conroy — after speaking to his Costello — categorically denied that Day was Dec, if you follow. Like us, he'd never heard of Day Costello and neither had Spark Records, who released his version of "The Long And Winding Road" seven years ago (when Elvis would have been 15).

Said Conroy, "It's definitely not Elvis. You can put MI5 on to it, if you like."

If Stiff aren't forthcoming with a sizeable backhander, we might just do that. Alternatively, we might just print a photo of Nick Lowe with a beard.

— Monty Smith
(but it's not really, 'cos I don't want to get into Elvis' little black book)

エルヴィス・コステロの15歳の時の写真が見たいか?
7年前に「デイ・コステロ」という名前で「エルヴィス・コステロ」と同じ顔のヤツがレコード出してるぞ、と。23歳の7年前だから15歳、年齢詐称か?黒歴史に触れてしまったかな?
ニューウェーブ界の寵児だかなんだか知らないが年齢詐称して再デビュー組じゃねーか!
という内容。さすがゴシップ誌

とにかく、この時の記者会見の記者側の質の低さと、コステロ側の体調の悪さからくるぶっきらぼうなやり取りで彼のパブリック・イメージが固まった、ということだ。
つまり「インテリ眼鏡ブチギレ兄さん」のイメージはここから始まり、しばらく続く。
まあ、今でもたまにアホなインタビューでキレているのを見るので僕はずっとこのイメージですけど。

デビュー時の話が続く。

この頃交流のあった人たちの話。ピストルズのスティーブ・ジョーンズとポール・クックは他人の楽屋によく出没していた。ジョニー・ロットンは走る車の中から呼ばれたことがあったらしいがそれほど交流はなかった。
ジョニー・ロットンとまともに絡んだのは随分あとで、MTVのレポーターとしてのジョニー・ロットンと喋ったらしい。昆虫ドキュメンタリーに出始める前の話・・・とここまで読んでてジョニー・ロットンってそんな感じなの?と驚いた。ピストルズに殆ど興味がないのでそんなことになっていたとは知らなかった。
さすがパンクの申し子だなぁと。こっちが期待するパンクロッカー像のまま振る舞うのはもはやパンクではないと常日頃から思っているので、やっぱりジョニー・ロットンはパンクだなと。

ボブ・ゲルドフとフィル・ライノットもよく見かけたらしい。二人は仲が良かったようだ。
同じブームタウン・ラッツのジョニー・フィンガーズはコステロと仲が良かったようだ。

フィル・ライノットというのは不思議な人で、ハードロックをかじった人間からすると、フィル・ライノットはハードロックの文脈で出てくる人なのだけれど、実はジャンルを超越した交流がある。
同じアイルランド人とはいえ、シン・リジーブームタウン・ラッツU2とは全く違う音楽性だが交流があった。
1977年にはグレアム・パーカー&ザ・ルーモアやクローヴァーをシン・リジーの前座に抜擢している。

そういえば1972年頃にリッチー・ブラックモアイアン・ペイスとフィル・ライノットでバンド(Babyface)を組もうとしたことがあるらしい。
ディープ・パープルとシン・リジーのハードロックはベクトルが全然違う気がしたからこれも不思議だった。
結局フィル・ライノットのベースが下手で上手くいかなかったようだが。

フィル・ライノットはコステロのライブに飛び入り参加したこともあるし、この人、どこにでも出没するなぁと思ったものだ。

この頃のシン・リジーは既にメジャーで有名な曲だと「Boys Are Back In Town」「Jailbreak」が1976年、「Dancing in the Moonlight」は1977年にリリースされている。「Waiting for an Alibi」は1979年なのでこの後。


さて、ここからはアトラクションズの結成までのストーリー。

まず話に出てくるのはドラムのピート・トーマス。

ピートは、チリ・ウィリ・アンド・ザ・レッド・チリ・ペッパーズという(レッド・ホット・チリ・ペッパーズとは何の関係もないが、以下レッチリと略すことにする)パブ・ロックバンドでドラムを叩いていて、レコードデビューもしていたが、実は当時からほぼ無一文に近い状態で生活には困窮していたらしい。

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ピートがレッチリ時代にパブで演奏しているのをコステロは見たことがあるし、コステロもピートの前で演奏したことがあるがピートは数曲で席を立ったらしい。

ピートはモンキーズの「Day Dream Believer」の作者、ジョン・スチュワートの仕事でカリフォルニアに2年間いたらしい。
で、レッチリのマネージャーだったジェイク・リヴィエラに、クローヴァーを紹介したのも彼らしい(クローヴァーはカリフォルニアのバンド)。
インポスターズのディヴィ・ファラガーが在籍していたファラガー・ブラザーズもカリフォルニアなのでこの頃の人脈なのだろうか(1976年デビュー)。

ジェイク・リヴィエラは、1976年に燻っていたミュージシャンを大量にかき集めてスティッフ・レコードを立ち上げる。昔のSMA NEET Projectのようだ。
コステロはスティッフが営業開始してから初めてドアを潜ったソングライターだった。
当時はエリザベス・アーデンの社員だったので病欠ということにしてスティッフにデモテープを届けに来たが、デモテープを手渡した受付、一人しかいない受付の女性はおそらく後にアトラクションズのベーシスト、ブルース・トーマスの妻になる人だろうと思う。

shintaness.hatenablog.com

デモテープを渡して帰ろうとした時、なんとニック・ロウと遭遇して立ち話をし「またここに来てくれ」と言われる。ニックとコステロはキャバーン・クラブで出会っており顔見知りではあったが、当時は一般人と著名ミュージシャンという関係であり、ここでの出会いはかなり運命的だろう。

スティッフと言えばよく名前が出てくるデイヴ・ロビンソンだが、彼は元々はブリンズリー・シュワルツのマネージャーだった。スティッフ設立の前にロビンソンの勧めでデモテープを作ったことがあるようだ。
この頃はまだフリップ・シティ解散前で、フリップ・シティのブートレグでよく見る「Hope & Anchor Demo」はこの時に作られたようだ。結局演奏がショボくてオクラになる。

ジェイク・リヴィエラは攻撃的な人だ、とコステロは書いているがこの人、初期のバイオグラフィーでよく出てくる名前なのでその後袂を分かったのかと思ったら実はかなり長くコステロのマネージャーを務めており1993年まで一緒に仕事をしていた。

コステロは見てくれが良いわけではないので、リヴィエラとロビンソンは作家として雇うつもりだったようだが、一応レコーディングさせてくれた。その時のドラムとギターがアメリカから出稼ぎに来ていたクローヴァーのメンバー、ジョン・マクフィーとミッキー・シャインだった。ベースはニック・ロウ

ちなみにヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの前身と言われるクローヴァーだが、実はメンバーはかなり変わっている。
クローヴァーの当時のラインナップは以下。

Alex Call - vocals
John McFee - guitar
Johnny Ciambotti - bass
Sean Hopper - keyboards
Mickey Shine - drums
Huey Lewis - harmonica

ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースの結成時(1979年)のラインナップ。

Huey Lewis - vocal, harmonica
Chris Hayes – lead guitar
Johnny Colla – rhythm guitar, saxophone, percussion
Mario Cipollina – bass
Sean Hopper - keyboards
Bill Gibson - drums

つまりヒューイ・ルイスとショーン・ホッパーしか残ってない。ヒューイ・ルイスは参加していないので、レコーディングには参加していないので、結局コステロのアルバムに参加していたのはショーン・ホッパーのみだった。
ニュース結成時に他のメンバーはどうなったかというと、一番有名になったのがジョン・マクフィーでドゥービー・ブラザーズの後、矢沢永吉バンドのバンマス。ヴォーカルのアレックス・コールはソロになったがそれほど売れてない。
ベースのジョニー・シアンポッティはセッションミュージシャン兼マネージャーでカイロプラクター(既に他界)、ドラムのミッキー・シャインはちょっと活動した後引退したようで消息不明になった(既に他界)。

コステロとしての1stレコーディングはパスウェイ・スタジオという、楽器の分離が出来ないくらい狭いスタジオで、「Radio Sweetheart」と「Mystery Dance」の2曲。
「Radio Sweetheart」はボーカルが入るタイミングをドラムとベースで示してくれた。ちょっとプログレッシブな序盤の演奏は単にメトロノームとしての役割だったようだ。
ジョン・マクフィーがパンクの世界では有名な楽器、ペダルスティールギターを入れてくれた、と書いているがシャレですよね?カントリーでしか聞いたことない。
「Mystery Dance」はオールドスタイルのロックンロールだが、あえてスウィングしない演奏にしたようだ。50年代のロックンロール/ロカビリーは確かに演奏はジャズ的でありスウィングしている。

これがちょっとパンクっぽい感じになっている。こういう曲、ポール・マッカートニーがやろうとするとやっぱりスウィングしちゃうと思う。ポールは先人に倣ってそういうアレンジをしたがる。
ジョンだともっとアバンギャルドになりそうな気がする。

この2曲を録った後にスティッフから、あと何曲かクローヴァーを使って録ってもいいよ、と言われる。
ちなみに最初の2曲は1976年の9月17日に録音、「My Aim Is True」のその他の曲は1976年の年末から1977年の年始あたりに録音されている。
ただ、この時はEPで出すのか、スティッフに在籍していたレックレス・エリックと抱合せでアルバムにするのかは判然としていなかった。

ということで歴史的な名盤と言われる「My Aim Is True」だが、結構不安定な状態で録音されていた。
狭いスタジオ、リリースされるかどうかも分からない楽曲たち、サラリーマンと音楽家業の狭間で揺れていたデクラン・マクマナス、鳴かず飛ばずでイギリスに出稼ぎに来ていたクローヴァー、ブリンズリー・シュワルツが解散してロックパイルを結成するもレーベルで揉めていたニック・ロウがプロデューサー、どこの誰だか分からない人をかき集めて会社を作ったジェイク・リヴィエラとデイヴ・ロビンソン(しかも後に決裂)。

これがレコード・コレクターズでも常時トップ100入りするような歴史的名盤になるとはとても思えない環境で録られました。
シュガー・ベイブの「SONGS」もあまりにもスタジオ環境や金銭面でも酷かったのでせめて曲でも聴いてほしいと「SONGS」と名付けたらしいですが、今やそれも歴史的名盤になるという。

良い楽曲さえあれば録音したスタジオがどうあれ、名盤になり得るという見本なのかなという気がする。

さて、クローヴァーには専任ボーカリストがいたため、そのままエルヴィス・コステロのバックバンドになるわけにはいかない。パーマネントなバンドが必要になった。
というか、クローヴァーのカントリー/スワンプな感じの演奏はそもそも英国パンク/ニューウェーブの音では無かった。

ドクター・フィールグッドは当時ユナイテッド・アーティスツUA)に所属していたが、ちょうどドクター・フィールグッドを脱退するウィルコ・ジョンソンの新しいバンドメンバーとしてピート・トーマスに白羽の矢が立つ。
そのころピート・トーマスはカリフォルニアにいたが、イギリスに戻る費用をUAに持ってもらうのだが、ドクター・フィールグッドのツアーマネージャーだったジェイク・リヴィエラが暗躍してピート・トーマスをアトラクションズに引き抜いてしまう。

この辺はウィルコ・ジョンソンWikipedia日本語版に名前を出さずに書かれているが、ドラマーはピート・トーマス、パブ・ロック界のある人物、とあるのはジェイク・リヴィエラですね。
ヤフー知恵袋に誰ですか?と質問があって、ピート・トーマスとコステロでしょう、コステロ酷い!みたいなこと書かれてますがジェイク・リヴィエラだと思いますよ。

ブルース・トーマスはオーディションでやってきた。この本には書いていないがスティッキー・ヴァレンタインというバンド名にしたかったコステロをアトラクションズにしようと提案したのがブルース・トーマスだった。
ブルース・トーマスは1963年から1967年にかけて「Roadrunners」というバンドで活動していて、ここにポール・ロジャースとミッキー・ムーディー(ホワイトスネイク)がいた。
Bruce Thomasの公式Youtubeがあり、そこで音源がいろいろ公開されている。
「Getting Mighty Crowded」はアトラクションズでもカバーしている。
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ブルース・トーマスはデクラン・マクマナスがお父さんが持ってくるビートルズアセテート盤に喜んでいた頃、既にバンド活動をしていたことになる。
ブルース・トーマスは1948年生まれなので15歳くらいから活動していて、アトラクションズに加入した時は既に29歳。
実はキャリアが長いけどニューウェーブの寵児は、ブルース・トーマスのことだったかもしれない。
ちなみにポリスのアンディー・サマーズもキャリアが長く、1968年にはアニマルズに加入している。実はポール・マッカートニーと同じ年で、今80歳。

ティーヴ・ナイーブは緊張をほぐすためにシェリー酒片手にオーディション。この頃19歳。
バンドにキーボードが必要かそうでないか、というのは永遠のテーマだが、自分は必要だと思っている。例外もあるが好きなバンドには大抵キーボードがいる。
パンクっぽいかニューウェーブっぽいかの境目はキーボードがあるか否かだと思っている。
ストラングラーズが5大パンクバンドと言われているけどちょっとニューウェーブっぽいのはキーボードのせいかな、と。
スクイーズXTCにもキーボードがある。ポリスはないけど、アンディ・サマーズの空間系エフェクトの多用がキーボードの代わりになっている感じがする。


オーディションにはルーモアのアンドリュー・ボドナーとスティーヴ・ゴールディングに手伝ってもらったが、このメンツで「Watching The Detectives」を録音している。
「Watching The Detectives」は、1977年の5〜6月にかけての録音で、1stは1977年の7月リリースなので収録しようと思えば収録できた気もするが、最初のLPには未収録。
www.youtube.com

その後のリイシューにはラストトラックとして鎮座することになる。
1993年のリイシューでこのアルバムを初めて聴いた時にこの曲だけ何か違うなという感じがしていたが、演奏者がまず違うし、サウンドも違うし、アレンジも他の曲と明らかに違う。
1stのようなアメリカっぽいノリではなく、レゲエ。音も太い、演奏も上手い。クローヴァーの演奏が悪いわけじゃないが、ドラムとベースに迫力が欠けている気がする。
1stは歴史的な名盤とされているけど、やっぱりそこが気になってしまう。曲は良いが演奏はそうでもない。
ルーモア組や、アトラクションズの方が格段に上手い。

有名な話だが、「Watching The Detectives」はインスタントコーヒーを飲みながらクラッシュの「ポリスとコソ泥」を聴きながら作った。
ちなみにポリスもこの曲からレゲエビートを思いついて「Roxanne」を書く。
アルバム「The Clash」は1977年4月リリース。「Watching The Detectives」は1977年10月リリース、「Roxanne」は1978年の4月リリース。
「Watching The Detectives」はその後のアレンジの方向性のとっかかりとなる曲になったとのこと。

こうしてアトラクションズが結成されて、まずは郊外都市で練習がてらステージに立つ。レパートリーは1stの曲と「Chelsea」「Lipstick Vogue」等など。

イギリスの首都ロンドンでライブをする前に一つ事件があった。
コロムビア・レコードの幹部にアピールするために、幹部がいたホテルの前で演奏して逮捕される事件。
なんとその時の写真があった。

Wikiにはセトリも書かれていた(笑)誰がメモってたんだよ・・。
Concert 1977-07-26 CBS - The Elvis Costello Wiki

その後すぐに釈放されロンドンデビューライブには出れたが、記憶にないらしい。
翌朝は裁判所で5ポンド払うことになった。
その日は馴染みの「Hope & Ancher」でライブ。

この一連の事件でメロディ・メーカー誌の一面に載ることになった。以下にリンクがあるが長い文章だ。

Melody Maker, August 6, 1977 - The Elvis Costello Wiki

エリザベス・アーデンの社員はこの記事を読んだだろうか?ということが気になっていたようだ。
コステロはこれをキッカケにアメリカでの契約が纏まり、スターダムにのし上がることになる。


後編では、クローヴァーで録音した曲がアトラクションズでどうなったかを書いてみる。