俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 5

第5章は「Beyond Belief」で、もちろんインペリアル・ベッドルームの1曲目のことです。
この章は長い。36ページある。しかも2段組なので、通常の装丁の本だと72ページほどだろうか。
ただ、半分ほどは、歌詞についての説明だったり補足のための物語に割かれている。

冒頭はリンダ・マッカートニーの追悼コンサート(コンサート・フォー・リンダ)の話題から。
リンダ・マッカートニーは1998年に56歳で亡くなっているが、実は年齢はポールのひとつ上でジョン・レノンのひとつ下。
ちなみに自分の父とリンダは同じ年である。

Concert 1999-04-10 London - The Elvis Costello Wiki

リハーサルで「Run Devil Run」収録のリッキー・ネルソンの「Ronsom Town」をポールとハモってみないかと言われ、良いのかなと思いながらハモリ、その後の曲もハモってくれと頼まれた。
それが「All My Loving」で、コステロは幼少期に何度もハモっていたと書いてある。
ちなみに自分も高校生の頃にギターを始めた頃にこの曲を3連符のストロークで弾きながら、1コーラス目は普通に歌って、ジョージのカントリー風のギターソロを弾いた後に、2コーラス目からジョンのハモリパートを歌う、ということをやっていたのを思い出した。

で、本当は「All My Loving」のボーカルはポールとコステロだけで歌うはずが、裏側の手違いで大勢出てきてしまい、めちゃくちゃになった、というお話。

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ちなみに「Run Devil Run」といえば、1999年の12月にキャバーン・クラブでポールがライブを行ったが、そこでのライブのラインナップにスタジオ同様、ディープ・パープルのイアン・ペイスが入っていて、当時大層驚いたのを思い出した。ポール・マッカートニーまでパープルファミリーのツリーに入ってしまうのかな・・とか。

時代は遡り1979年、コステロが初めてポールに会った時の話。場所はハマースミス・オデオン。カンボジア救済コンサートの時。
珍しいロバート・プラントとのエピソードが書かれている。ロックパイルのステージのゲストがロバート・プラントだった。
デイヴ・エドモンズがこの頃、スワンソングのレーベルで、レッド・ツェッペリンとはレーベルメイトだったからだろう。

ロバート・プラントがステージに上がる時にコステロが「天国への階段だな」と言ったらしい。それを聞いてプラントが殴ろうかと思ったが、デイヴ・エドモンズに諭されて思いとどまったらしい。
2010年代にコステロロバート・プラントに再会した時にこの話を聞いたそうで、コステロは覚えていなかったようだが、まあ言いそうだなという気はする。

この日のプラントはいつものキンキン声ではなく、低い声でプレスリーのナンバーを歌ってそれが見事だったのでコステロは辱めを受けた、とのこと。
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確かに、これ動画で見ているからロバート・プラントだと分かるが、ラジオで聴いてたら誰が歌っているんだか分からない。

その日は「The Imposter」から始まるセットリストだった。
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動画を見ていたらコステロが言うような悪い演奏では決してないと思うが。


Concert 1979-12-29 London - The Elvis Costello Wiki

ちなみに、ここでもポールは珍しい人と共演していて、それがこの日からおよそ10ヶ月後に亡くなってしまうジョン・ボーナム。ロケストラの演奏だった。
この時にステージ裏では全員同じ衣装を着ようと言ったポールとピート・タウンゼントが揉めていたらしい。みんなが白いジャケットを来ているのにピート・タウンゼントだけ黒いジャケットなのはそのためのようだ。

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ちなみに、このイベントはクイーン、ザ・フーイアン・デューリー、クラッシュ、ロックパイル、プリテンダーズ、スペシャルズ、ウイングス等が出演していた。コステロの口からクイーンの名前が出るのは新鮮だ。
ウイングスはこのライブが最後のライブになってしまった。ザ・フーは既にキース・ムーン死去後で、ドラムはケニー・ジョーンズ。個人的にキース・ムーンでないとフーではないと思っている。


次にポールに会ったのが1981年。AIRスタジオ。AIRスタジオは正式にはアソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング・スタジオで、ジョージ・マーティンが設立したスタジオ。
単純にAIRスタジオと言っても3箇所存在する。

ちなみに、私の住んでいる札幌の郊外にある芸森スタジオもジョージ・マーティンの監修で、はAIRモントセラトで使っていた機材がそのまま渡ってきて使われているらしい。教授(坂本龍一)と大貫妙子のアルバムもここ。
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教授は札幌国際芸術祭 2014のディレクターをやったりと、札幌と結びつきは強め。
全然関係ないが、私が10年以上前に仕事を一緒にした人が教授のレコーディングエンジニアだった、ということもあった。おそらく80年代中期だと思う。


ちょうどインペリアル・ベッドルームとポールのタッグ・オブ・ウォーのレコーディングが被っていたらしい。ついでにジャムの「Town Called Malice」もミキシングの最中だった。

この章は少しコステロと毛色の違う人がたくさん出てくる。
アリス・クーパーもその一人で、その頃にアリス・クーパーにばったり会って、スティーブ・ナイーブの為にシングル盤にサインをもらったそうだ。スティーブ・ナイーブはアトラクションズ加入前はロックに疎く、アリス・クーパーしか知らなかったらしい。

「インペリアル・ベッドルーム」はスタジオを12週間押さえたらしい。1stは24時間、2ndは11日。「インペリアル・ベッドルーム」は12週間=84日である。
このアルバムはジェフ・エメリックがエンジニアだったが、この時ジェフは35歳くらいで意外と若い。この時のレコーディングではアトラクションズとコステロは演奏を同録していたらしいが、この後からバラバラに取るようになったという。

さらに、演奏だけを先に録音して歌は後から載せる、という方法もこの頃に行っていた。コステロは歌詞のためにメロディや譜割りを変えることが多いのだが(この話は他の章でも出てくるがポール・マッカートニーバート・バカラックはそれを絶対にしないとのころ)、この方法により、容易に変更できなくなったため、より自由になった、と書いてある。なんか不自由になったのでは?という気もするのだが、そう書いてある。

この方法は、80年代後半では普通の方法になったが、この1981年に行っていたのが画期的だと書いてあるが、実は同じ80年代序盤の頃の日本でも同じようなことをやっている。

大瀧詠一の「ア・ロング・バケーション」はバッキング・トラックを先に完成させて、歌メロは後から考えて載せている。なので大滝の脳内にはその頃試行錯誤した数パターンのメロディが残っていて、バッキング・トラックを聴くといろいろ思い出すのだと言っていた。
山下達郎もこの頃、「Ride On Time」や「For You」などは、ドラマーの青山純、ベースの伊藤広規と3人でスタジオに入り、ひたすらジャム・セッションを行い、曲の骨格を作り、バッキング・トラックを完成させてから、歌メロを考えて載せて作っていた。

さらに、「Beyond Belief」では囁くように歌っているがこれも革命的で、通常のロックはバックの大音量に負けないくらいの大声で歌うものだが、マイクに限りなく近づいて小声で歌っている。
クルーナー唱法の進化版みたいな感じでしょうか。
マイクロフォンが音楽シーンで使われ始めたのが1920年代で、それから囁くように歌う唱法が世に出てきた、と言います。

この頃のアトラクションズの演奏は最高潮でコステロも褒めちぎっています。ただ、それは1978年頃の勢いのある演奏ではなく、ガチで上手い、といった類の演奏ですね。
そう、アトラクションズは演奏が上手い。同世代のバンドでもポリスと肩を並べるのではないでしょうか。ポリスの方がテクニカル(特にギター)ですが、ベースはどうしてもスティングが弾きながら歌っている以上、アトラクションズのブルース・トーマスの方が上だと思います。

「..And In Every Home」は、リーズの街を歌ったもの。リーズは産業革命で繊維産業が盛んだったが、80年代は寂れていた(その後、持ち直したようだ)。
「インペリアル・ベッドルーム」は嘘や欺瞞が歌詞のテーマで、それは「トラスト」と同じとのことだが、「インペリアル」は夜の闇の中がテーマ、というのが違いとのこと。

ここで、この長い自伝でほとんど語られていないアルバム「トラスト」の歌詞の話が出てくる。ちなみに「トラスト」「パンチ・ザ・クロック」「グッバイ・クルーエル・ワールド」に割いた文章はかなり少ない。おそらく本人があまり気に入っていないのだろうと思う。なんせ「グッバイ」は、1995年のライコディスクのリイシューの際に「Congratulations! You've just purchased our worst album.」と本人が書いているくらい。

ちなみに、「エルヴィス・コステロ 歌の世界」というデイビット・グールドストーンという人が1991年に書いた本だと、この著者が最も気に入っているのが「トラスト」だというし、
エルヴィス・コステロ歌の世界:中古本・書籍:デヴィッドグールドストーン【著】,野間けい子【訳】:ブックオフオンライン
「パンチ・ザ・クロック」「グッバイ・クルーエル・ワールド」もリアルタイムで聴いていた人には評価が高い。自分は後追いで聴いてしまった上に、「時代」の音がしすぎてそこまで手を伸ばさないアルバムではある。

この章は中盤から後半にかけて歌詞の話が延々と続く。それだけ「インペリアル・ベッドルーム」に思い入れが深いのだろう。
現にコステロは2017年、この本を2015年に上梓した後、「Imperial Bedroom & Other Chambers Tour 2017」というタイトルのツアーを行っている。

2018年にリリースされた「Look Now」の一部の曲は「インペリアル・ベッドルーム」的なアレンジの曲があった。この本を書いたことでいろいろ思い出したのかもしれない。

ところで「インペリアル・ベッドルーム」はこの当時のコステロのアルバムにしては長いという印象があったが、まるでCD時代のような15曲という多さがそうさせていたのかもしれない。
1曲1曲としては短い曲がほとんど。5分を超えるのは「Man Out of Time」だけだった。4分の曲も「Shabby Doll」「Long Honeymoon」「Town Cryer」だけ。冒頭の5曲に長めの曲が多いのもそういう印象になっていた一因かもしれない。

こういう、スタジオコラージュを駆使したアルバムはライブでの再現性が問題になる。
ビートルズも「リボルバー」の頃の曲はライブでやっていない。クイーンの「Bohemian Rhapsody」のオペラパートはテープ。山下達郎のクリスマス・イブのカノンパートもテープ。
コステロがこのアルバムの曲を演る時は「イミュレーター」というサンプリング・キーボードでオーケストラ・パートを再現していたとのこと。
その後、いろんなバンドがイミュレーターを使いだしてどのバンドも同じような音を出すようになった、と。

1982年の頃のライブテイクも結構少ない。1983はドイツのロックパラストの映像が有名でブートでかなり出回っているが1982はあまりない。
YouTubeで見つけたこのフィラデルフィアのプレイリストは貴重かもしれない。

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「..And In Every Home」はギターを持たずにハンドマイクで歌っている。ギターなしで音が薄くないのかなと思ったがそうでもない。


章の最後にはボブ・ディランとの出会いについて書かれている。1982.8.7 のミネアポリスでのライブのあとの話。
Concert 1982-08-07 Minneapolis - The Elvis Costello Wiki

「ディランが君に会いたがっているからステージが終わっても待っててくれ」と頼まれて待っていたが梨の礫。もういいか、と帰ろうとしたところで白いミニバンに乗ったディランが登場して、車に招き入れられる。
この日、実はディランとコステロは同じパーティに出席することが判明し、一旦別れてからパーティ会場でまた再会。
コステロはディランに、歌詞の題材として第三者の会話をモチーフにする場合、ディランに聞かれているということを悟られては不自然な会話になってしまうので、できるだけバレないようにするにはどうするか、という質問を聞きたかったようだが、この話を周囲に聞かれないように小声で話していたら自分たちの声も聞こえなくなり、結局答えが分からなかった、という話(なんだそりゃ)。

おあとがよろしいようで。