俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

父の話

私の父は、昭和の終わり頃から零細ながらも建築会社を経営していた。しかし、うまく回っているとは言い難く、1985年、バブル景気前夜に一度破産。持ち家を手放したりと、なかなか安定しているとは言い難い家庭だった。父はその後も建築会社を続けていたが、雪だるま式に借金が積み重なっていた。

自分が社会人になったのは2000年頃だったが、特に状況は変わらず、相変わらず事業はうまくいないようで借金は増え続けていたようだった。

そういえば、一度家族会議をしたことがある。自分はものすごい借金があることは知っていたが、それを全く知らなかった弟は驚いていたようだった。弟は父に援助を受けていたりしていたのでなおさらショックだったようで、そこから弟の人格が変わった気がする(真面目になった)。

父の話に戻すと、貯まりに貯まった借金を一掃するために、怪しい儲け話に投資しようとしていたり、かなり危うい橋を渡っていた。

そして、社会人になり一定の収入を得ていた自分の所にもお金を借りに来たりしていた。身内なので渋々貸していたが、ある時に堪忍袋の緒が切れ、もう借りに来ないでほしい、とかなり強く言ったことがある。その時の父は悲しい目をしていて、今になってみると言い過ぎたかもしれないが、それが当時の偽らざる気持ちだった。自分が稼いだお金が父のせいで全く貯まっていかない。自分もそんなことは言いたくはなかった。しかし父はその後も申し訳無さそうに借りに来る、もう堪らなかった。この頃、自分の人生でもかなりつらい時期だった。

自分も社会人だったのでなかなか忙しくなり、父に会うことが少なくなっていたが、2003年頃のある日、ふと父を見ると、ものすごく小さくなっていた。痩せていた、というよりも小さくなっていたという表現の方がしっくりくる。父はおそらく借金のことや、自分たちに迷惑をかけているというも心労もあり、体を病んでいったのだろうと思う。それに加えて糖尿のせいもあるのかな?と思った。

自分の家系はもともと糖尿病の多い家系で(自分は奇跡的に問題ないのだが)、糖尿が一番キツかったのが父の兄で、毎日インスリンを注射していた。父はそこまででもなかったが、自分が小学生の頃(1988年頃)に一回、さらに社会人になってから(多分2001〜2002年頃)に一回入院していた。晩年は「今入院すると仕事ができなくなる」と言って病院に行くのを拒んでいた。

 

2004年の9月、私は27歳で社会人の5年目の秋だった。その頃、北海道には珍しい巨大台風が来ていて、大通公園の木が軒並み倒れていた。
実家にはその頃、父と母だけで暮らしていて、築30年を超えた木造の家屋だったので屋根が吹き飛ぶんじゃないかと心配していたらしい。これが9月8日。

台風が去った直後、父が風邪をこじらせて入院した、と母から連絡があった。
なんでも、風邪が悪化して近所の病院に行って肺のレントゲンを取ったところ、医者が真っ青になって、大きい病院を紹介するということになり、即入院した、という。

早くお見舞いに行かないとと思いながらも、9月11日は同僚の結婚式があったので、翌日の9月12日の日曜日、札幌のハズレにある病院まで見舞いに行った。

父が入院したのは結核病棟で、結核を疑われていたようだが、結果は陰性だった。

母を連れて病室に行ったのだが、父の元気がどうにもない。
「大丈夫?」と聞くと、いつもの父なら「大丈夫、ちょっと寝てれば治る」とか強気なことを言っていたのだが、その時に限って「気力がない・・」と言うのである。いつもと違う様子になんだか嫌な予感がしたのだが、それでもまあ入院が長引くかもしれないな、くらいの予感だった。

そこからわずか1日後の月曜日15時くらいに、母から電話がかかってきた。
「お父さんがもう危ないって」と母が言う。「え?どういうこと?」「だから、もう長くないっていうか・・今日か明日までだから早く来て」と言う。頭が混乱した。

青天の霹靂というのはこういうことを言うのかと思った。

上司に事情を告げて、仕事を切り上げて即座に病院に向かったら、父は既に人工呼吸器を付けられていた。パルスオキシメーターも酸素が低すぎて測れないような状況だった。

医者が自分を呼んでいるというので、母を残して一人で話を聞きに行った。
50〜60代くらいの医師だった。
「長男の方ですか」「はい」というやり取りの後に、肺のレントゲンを見せられた。
肺はすべて白くなっていて、「重症の肺炎で、今日持つかどうか・・あと数時間になるかと思います」と言われた。
「これ、なんとかならないんですか?もう手の施しようがないんですか?」と聞いても横に首を振るだけだった。

自分の両親は基本的に自分より早く死んでしまう。これは頭では分かっていたが、いざ告知されるとやはりショックは大きい。

しかも、余命宣告というのはもっと、「あと半年」とかそういうスパンだと思っていたのに、あと数時間ほど、というのはかなりの衝撃だった。

医者が無理と言っている以上、運命として受け入れるしかない、と思い、父の病室に戻った。
病院についた頃、父はまだかすれ声ではあったがかろうじて話すことができた。
父は自分に何か言っているようだった。最初はよく聞き取れなかったが、母が聞き取り『「延命はするな」って、と言っている』という。

自分が小学生の頃から、父が繰り返し言っていたのは、「人は必ずいつか死ぬ、死ぬときは死ぬんだ、怖がってもしょうがない」ということだった。自分がもう長くない、ということを父は察していたようだった。

それから数時間はどんどん弱っていく父と心電図を見ていくだけだった。

翌日の未明に心電図が停止すると、医師、看護師が一斉に病室に集まってきて、医師が父に馬乗りになり、心臓マッサージを施すのだが、これはそういう儀式なんだ、と即座に分かった。そして、父のまぶたを捲ったあとに「ご臨終です」と告げられた。

父は64歳だったので老衰とは言えないが、風邪から肺炎になり、そのまま亡くなってしまった。心労と糖尿で体が弱っていたのだと思う。風邪で病院に行ったのが9月9日で、亡くなったのが9月14日。その間、たったの5日だった。

父は「今病院に行って何か見つかると仕事ができなくなる」とよく言っていた。おそらく風邪もかなり悪くなってから病院に行ったのだと思う。もっと早く行っていればまだ生きていたかもしれない。

人が死ぬときは、もっとこう、ガンとかそういうので徐々に弱っていって死ぬと思っていたが、こういう死に方もあるということを自分の身に降り掛かった出来事で知ったわけです。

昨今、どうやら、「風邪なんかで人が死ぬわけがない」とかいう人が一定数いるらしいので、自分の父の話を書こうと思った次第。

まあ、病院関係の人ならご存じの話だとは思いますが。昔から「風邪は万病の元」と言いますし。

父が死んでから既に17年程経っているけど、あまり思い出したい出来事ではなく、人に話したこともあまりないんだけども、風邪をこじらせるとかなり怖い、ということを知って頂きたく。

以上。