俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

サンダー史 Part8:米ブレイク寸前からの足踏み状態へ

30歳の新人バンド、サンダーの1st アルバムが21位にランクインし、フェス出演が決定する。それが1990年夏のモンスターズ・オブ・ロック。このフェスの出演にはデヴィッド・カヴァデールの推薦があったそうだ。


以下、BURRN 1994年3月号のインタビューを引用

─デイヴィド・カヴァデールと貴方達は、以前からの知り合いだったんですよね?


ダニー:ここ2~3年だよ。親しいという程ではないけど・・・・。僕が思うに、彼はTHUNDERのファンなんだ。すべてはそこから始まった。彼は僕達の音楽と、プレイヤーとしての力量を認めていた。90年に僕達がドニントンの「モンスターズ・オブ・ロック」でプレイすることになったのも、彼の力によるところが大きい。勿論、僕達にとっても非常に大きなチャンスだった。そういうことは決して忘れないよ。
彼はいろんな意味で僕達によくしてくれた。それは疑いもないことだよ。

今でこそ日本でも夏フェスがそこらかしこでやっているが、この頃はフェスは基本的には欧米でやっているものだった。例えば一番伝説的に語られているウッドストック、ワイト島フェスティバルとか。そしてハードロック界隈で有名だったフェスがモンスターズ・オブ・ロック。第1回はグラハム・ボネットの頃のレインボーがヘッドライナーということでも有名だったフェスである。

サンダーは1989年デビューだが、わずか1年でモンスターズ・オブ・ロックのオープニング・アクトとして出演することになる。ヘッドライナーはホワイトスネイク。その他、エアロスミス、ポイズン、クワイアボーイズ。

これは当時のポスターだが、写真にサンダーがいない・・・と思ったら、一番下の写真がひょっとしてベン・マシューズなのか?(別に良いけどなぜベンなのか?)


それで、ウッドストックまでのウォームアップギグと称して、出演の数日前からツアーを行っていたが、その道中で、ツアーバスの運転手がエアコンをつけっぱなしにしたせいで、ダニーはなんと喉を潰してしまう。
ブレイク寸前のバンドに起こったアクシデント。
ダニーはドクターストップがかかり本番まで声を出さず、ぶっつけ本番で挑むことになった。


1曲目は「She' So Fine」。ダニーの一声目は、無問題と言ってもいい程の絶好調。本当に直前まで故障していたのか?と思うほど。

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「ハローチーム」という呼びかけで観客を操りだすダニー。 

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この日のヘッドライナーのホワイトスネイク/デヴィッド・カヴァーデイルのお得意の曲調を本家以上のパフォーマンスで圧倒するダニー。

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そして最後は「Dirty Love」。演奏前に客を煽りまくる。「セクシー・アンダー・ウェアァァ!!!」。歓声がもの凄い。

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※ ながらく「Dirty Love」のライブ映像は公開されていなかったが、2013年リリースのCDにはボーナスDVDとして「Dirty Love」が収録された。しかし途中でブッツリ切れている。長らく未収録だったのはおそらくこれが理由。テープが途中でなくなったのだろうか。


サンダーのライブの上手さは、モンスターズ・オブ・ロックで知れ渡った。

サンダーはボーカルオリエンテッドなバンドである。ボーカルはおそらくハードロック界では5本の指には入るだろう(個人的にはNo.1である)。
しかし楽器隊に特段派手なプレイがあるわけじゃない。ヴァン・ヘイレンスティーヴ・ヴァイ、ポール・ギルバートみたいな超絶技巧が存在するわけではない。ダニー以外の4人は、このボーカルを盛り立てるためのバンドである。タイム感やグルーヴなどのバンドとしての纏まり、上手さはかなりの物だ。個人技より総合チームワーク。このチームプレイを重視する「One For All」な感じが、ちょっと日本的でもあって、それで日本人気が高かった要因でもあった気がする。


この時のライブはBBCラジオでオンエアされていたようで、会場に向かうエアロスミスのメンバーが移動車の中でこのライブを聴いていて、ジョー・ペリーがゲフィンA&Rのジョン・カロドナーに「な、サンダーすごいだろ?」と言ったとか。この前年にサンダーがエアロスミスの前座を務めて以来、エアロスミスのメンバーのフェイバリットバンドとなり、ゲフィンと契約すべきだと推していた模様。

以下、BURRN 1990年7月号、ルークのインタビューより引用(サンダー初登場の回)

AEROSMITHも僕らを支持してくれてるって?
そうなんだよ。去年一緒にプレイしたんだけど、僕達が会場に着いて楽屋へ向かっていったら、彼らの楽屋からTHUNDERのアルバムが流れてきたんだ!(笑)スティーヴン・タイラーとジョー・ベリーなんか、わざわざ僕らの楽屋に来て、"アルバム最高だよ”って誉めてくれて、一緒に飲みにも行った。あれだけの成功を収めた人達にそう言ってもらえるなんて光栄だよ。
彼らとのライヴは、バーミンガムの「NEC」という会場で2回やっただけだった。だけど、ソールド・アウトで僕達にとっては願ってもない有意義なショウだった。翌週のアルバムの売り上げは倍になったし、注目度がグッと上がったよ。観客の反応も良くてね・・・


さらにガンズ・アンド・ローゼズアクセル・ローズも「お気に入りのバンドだから契約したほうが良い」とゲフィンに進言していたとのこと。

以下、BURRN1991年7月号のインタビューより引用

─ G’N'Rと言えば、アクセルはTHUNDERのファンだそうですね?


ルーク:どうもそうらしいんだ。(笑)去年の9月に初めて「ゲフィン」の人達とミーティングした時、僕達のアメリカでのマネージャーをやってくれているラリー・メイザー(CINDERELLA等も手掛けているマネージャー)がそれを教えてくれてね。それでLAに行った時、ダニーと僕が「レインボウ」にいたら、ちょうどアクセルが入ってきてこっちを見てるんだ。どうも彼は僕達がTHUNDERだという確信が持てなかったらしくて、それで僕が「ビール奢るよ。僕達のアルバムを気に入ってくれてありがとう。とても助かってるんだ。僕達、THUNDERっていうバンドの……」って話しかけたら、「ああ、やっぱり君達か!アルバム、大好きなんだよ!」ってとても喜んでくれてね。それでみんなで食事をしたんだ。彼はいろいろ誤解されているけど、すごくインテリジェントで感じのいい人だよ。とても思慮深い青年だし……。バンドをやってる奴には頭のいいのはあまりいないけど、彼はとても知的だったし、僕も気に入ったよ。

またこの時のライブの感想も語っている。
同じインタビューより引用

─ところで、あなた方の評判を一気に広めた昨年8月の「モンスターズ・オブ・ロック/キャッスル・ドニントン』に出演した時のことをお訊きしたいのですが……?


ルーク:怖かった!(笑)でも、僕達はべつに「ドニントン」に出たからイギリスで成功したわけじゃないよ。
そう言われることが多いけど、あのコンサートの前にHEARTのイギリス・ツアーに同行して、その時の12回のショウが「ドニントン」への足掛かりとなったんだ。まあ、それで「ドニントン」だけど、「最初に出るパンドはヒドい目に遭うんだぞ」ってみんなに言われていたこともあって、僕はその時のまわりの雰囲気に飲まれたようになってしまってね。出番の30分くらい前には「あー、早く終わらないかなぁ」なんてイライラし始めてきた。それでステージに上がる時間が来て、まず僕が1人で登場して”She's So Fine”のリフを弾き始めたんだけど、初めは客席に背を向けていたんだ。そうしたら、いきなり大歓声が起きたんで驚いて振り向くと、観客がみーんな腕を振り上げているんだよ!(笑)ビックリしたよぉ!でもその時「ああ、僕達のやってきたことは間違ってはいなかったんだ」と胸が熱くなってきた。「ドニントン」が僕達にもたらしてくれたのは、マスコミに、僕達が大観表の前でプレイしている様子を初めて観る機会を与えてくれたことだ。

─バンドもビックリしたけど、マスコミの連中もさぞビックリしたことだろうね、うん。

ちなみにこの日のヘッドライナーはホワイトスネイクだが、全曲Youtubeで見ることが出来る。

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この頃はスティーブ・ヴァイがいた頃だが、バンドとしての纏まりがない。ホワイトスネイクで一番好きなのは「サーペンスアルバス」だが、ライブバンドとしての纏まりがあったのはミッキー・ムーディとバーニー・マースデンがいた頃だろう。その頃とは比べ物にならないくらいハイテクになったが、グルーヴが失われている。リハーサルなんてしてないんじゃないかというくらいバラバラである。ホワイトスネイクはこの年の年末に一旦解散してしまう。


エアロスミスの映像もあった。この時、ジミー・ペイジもゲストで出ていた。カヴァーデイル・ペイジはこの時に話が出たのだろうか?

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そしてモンスターズ・オブ・ロックの1ヶ月後に米ゲフィンと契約する。

この時期、前述したように、ホワイトスネイクエアロスミスガンズアンドローゼズのゲフィン勢からミュージシャンズ・ミュージシャンのような扱いを受けており、その後ゲフィンと契約するのも当然の流れのように思える。

一方英国では、モンスターズ・オブ・ロック直後にランク圏外になっていた1stアルバムは再度チャートインする。そして一ヶ月後の1990年9月にジャケットをモンスターズ・オブ・ロックのものに差し替えた「She's So Fine」を再リリース。

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個人的にも所有している(2010年頃取り寄せ)



この後、アルバムのツアー第2弾を行い大盛況。イタリア、ベルギー、オランダ、フランス、ノルウェースウェーデンデンマーク、オランダ、ドイツ、そしてイギリスに戻り、ハマースミス・オデオン(ハマースミス・アポロ)の2Days。

翌年、1991年2月、英EMIから「Love Walked In」がリリース。これはヒットし、22位まで上がる。それにつられてアルバムも再度チャートイン。

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1991年3月にはついに米ゲフィンから「Dirty Love」がリリース。リリースから3ヶ月遅れでビルボードのHot100にランクインし、7/13の週にピークの55位をマーク。


https://www.billboard.com/charts/hot-100p1991-07-13www.billboard.com

(ちなみに15位にはエクストリームの「More Than Words」が付けている)

 
4月にはゲフィンからアルバムカバーをアメリカ仕様に変更して「Backstreet Symphony」が発売。


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最高位は114位(6/29の週)。


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(この時の1位はスキッド・ロウの「Slave To The Grind」だった)


米仕様ジャケットはまあ写真はカッコいいんだけど、好み的にはEMI盤の方が好きかな。EMI盤の方は「Very English」な感じがするので差し替えられたのだろう。売る気がなかった Capitol でもリリースされていたので、アメリカ市場では同じアルバムが2回リリースされていることになる。


「Dirty Love」と「BSS」の順位の推移はこんな感じ。


このリイシューについてのインタビューも存在する。
BURRN1999年7月号から引用。

─これは一旦「Capitol」から発売された「BACK-STREET~」が、その数ヵ月後に「Geffen」に移籍、再リリースされた際のアメリカ盤ですが....。


ルーク:「Geffen」がジャケットを変えたいと言い出したのは、多分、以前俺達が「Capitol」と契約していた事実から切り離して考えたかったんだと思う。


ダニー:英国の「EMI」と契約した当初は、アメリカでは「Capitol」との契約になると言われて喜んでいたのに、いざ「Capitol」からアルバムがリリースされてショウケースのためにアメリカに行った時、同社の社長という人と会ってみたら....。それが僕らにとってはアメリカのレコード会社のお偉いさんとの初会見だったんだけど、その人は満面の笑顔で僕らを迎えてくれたくせして、こっちに背を向けた途端、後頭部にもう一つ別の顔がついていることがわかった。(笑)僕らとしてはアメリカでの大きな第一歩のはずだったのに、その会社を経営する人が僕らを嫌っている、どうすればいいんだ?…ということで、そのまま英国に戻り、「Capitol から降りなきゃダメだ」という話をしたんだ。かくして喧々諤々の議論が続き、「BACKSTREET~」が出た直後の'90年の「ドニントン」に出演したところ、そこには「Geffen」の人も、ジョン・カロドナー(当時「Geffen」のA&Rで現「Sony」の副社長)も来たし、AEROSMITHやデイヴィッド・カヴァデールや、あと…..あいつ何て言ったっけ、ワキャキャキャキャってヤツの名前…..ワキャキャキャキャ…って…


ルーク:スティーヴン・タイラー


ダニー:違うよ…あ、思い出したアクセル・ローズだ。


ルーク:.....


ダニー:あいつも含めて、「Geffen」のアーティストが揃ってジョン・カロドナーに「このパンドと契約するべきだ」って推してくれたんだ。で、気がついたら僕らは飛行機に乗ってアメリカに向かっていた。先方はアルバムも凄く気に入ってくれていて、僕らと契約する以上アルバムの再発も希望していた。だから、僕らとしてはジャケットが変わることくらい何てことなかったというのが本当のところでね。(笑)


「Dirty Love」のピークアウトを待ってたのか、1991年8月に米で「Until My Dying Day」をリリース。ただラジオ用にエディットされている。

この頃、重要な3枚のアルバムがリリースされた。ガンズの「Use Your Illusion」とメタリカの「Metallica」(ブラックアルバム)、そしてまだ無名だったニルヴァーナの「Nevermind」。


10月には「Love Walked In」をリリースするが、これはヒットしていない。しかし2025年現在はサンダーのサブスク配信の中でもダントツの聴取回数であることは前回書いた通り。
ちなみにこの曲はアクセル・ローズのお気に入りで、彼女とケンカした時にこの曲を流して和解したんだとか。


ただ、勢いに次第に陰りが見え始める。 

1991年の夏に、デイヴ・リー・ロスと一緒にツアーをやるはずだったのに、土壇場で中止に。

スネイクはこの頃、一人だけロサンゼルスに住んでいたが、ドラッグ中毒になっていた。

なお、この頃のハードロックバンドにありがちなクスリの噂はサンダーの場合、スネイク以外のメンバーにはない。サンダーは大酒飲みではあるけどクリーンだったと、アンディ・テイラーが言っていたし、ルークはインタビューで「音楽を長く続けるには健康でなければならない」と言ってます。最近のTwitterによると、コロナ禍でもサイクリングに勤しんでいた。

ルーク:誰もがいずれは死ぬけれど、やはり不摂生は身体に良くないね。ステイタス・クオーのリック・パーフィットが去年亡くなったけど(2014年12月24日、68歳)、彼を知っている人だったら誰も驚きはしなかったと思う。彼はとてつもないパーティー好きで、浴びるほど酒を飲んでいた。ギリギリの一線を乗り越えそうなライフスタイルだったんだ。俺はステイタス・クオーを聴いて育ったし、リックとは友達だったから、とても残念だったよ。ロバート・パーマーとはザ・パワー・ステーションのツアーで18ヶ月を一緒に過ごしたけど、彼もクレイジーだった。とんでもない量の酒を飲んで、タバコを吸ってコカインもやって…何でもアリだった。「健康な人生ほど惨めなものはない」って言ってたな。彼は54歳で亡くなったけど、それは彼自身の選択によるものだった(2003年9月26日、54歳)。彼らの生き方は批判しないけど、俺は健康でいることが好きなんだ。ライヴは重労働だから、ベストな状態でステージに上がりたい。さっきも1時間前までジムで運動してきたところだよ。どうせなら長生きしたいし、体力が続く限り音楽を続けていきたいからさ。


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後にスネイクは、バンドのムードを悪くするということで「悪貨は良貨を駆逐する」的な感じでクビになるが、その遠因にはクスリ問題があったのではないかと思われる。

成功が約束されていたはずのサンダーだったが、その僅か1年程で徐々に暗雲が立ち込めてくる。

結局アメリカで一番ヒットしたのは「Dirty Love」で、ビルボード55位が最高位。これがアメリカでのサンダー唯一のヒット曲となり、アメリカでこれ以上ヒットすることはなかった。サンダーがアメリカでデビューした頃はLAメタル勢は既に下火になっており、その一方でニルヴァーナ起爆剤になった新たなムーブメントが彼らを苦しめていった。


2023年にルークがソロでこんな曲をリリースしている。

KILLED BY COBAIN
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アメリカでコバーンに殺られた
度肝を抜かれたね
ぼろ儲けに乗っかるには出遅れた
国境で引き返したよ
でもきっと大丈夫さ
俺は成功したと思ったがそうでもなかった

もう何年も昔の事だから訊くなよ
もはやどうでもいいことだからさ

Songs From The Blue Room

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続く。