2ndアルバムの路線変更が大不評だったテラプレイン。
そこで、1988年の4月にルークとダニーの2人がニューヨークとロサンゼルスに視察旅行と称して渡米した。
さて、80年代後半のアメリカのロックシーンはどのようになってたのか。
1986年からのビルボードトップ100に入ったハードロック系をピックアップしてみた。
1987年
7位 - Whitesnake "Here I Go Again"
10位 - Bon Jovi "Living On A Prayer"
74位 - Bon Jovi "Wanted Dead Or Alive"
1988年
5位 - Guns N' Roses "Sweet Child O' Mine"
17位 - Whitesnake "Is This Love"
19位 - Def Leppard "Pour Some Sugar On Me"
30位 - Def Leppard "Love Bites"
34位 - Aerosmith "Angel"
41位 - Bon Jovi "Bad Medicine"
82位 - Van Halen "When It's Love"
97位 - David Lee Roth "Just Like Paradice"
1989年
3位 - Poison "Every Rose Has Its Thorn"
15位 - Warrant "Heaven"
23位 - Bon Jovi "I'll Be There For You"
39位 - Bon Jovi "Born To Be My Baby"
43位 - Great White "Once Bitten, Twice Shy"
53位 - Def Leppard "Armageddon It"
60位 - White Lion "When the Children Cry"
61位 - Skid Row "18 and Life"
71位 - Guns N' Roses "Patience"
74位 - Guns N' Roses "Welcome To The Jungle"
81位 - Aerosmith "Love in an Elevator"
82位 - Bon Jovi "Lay Your Hands on Me"
86位 - Guns N' Roses "Paradise City"
と、年々ハードロック系が増えていった。ポイズンってこんなにヒットしてたのか…
アルバムチャートも調べてみた。
1987年
1位 - Bon Jovi "Slippery When Wet"
8位 - Cinderella "Night Songs"
12位 - Europe "The Final Countdown"
13位 - Poison "Look What The Cat Dragged In"
16位 - Whitesnake "Whitesnake"
34位 - Stryper "To Hell With The Devil"
35位 - Heart "Bad Animals"
1988年
3位 - Def Lepard "Hysteria"
6位 - Guns N' Roses "Appetite For Destruction"
10位 - Aerosmith "Permanent Vacation"
19位 - Whitesnake "Whitesnake"
20位 - Robert Plant "Now And Zen"
28位 - Van Halen "OU812"
29位 - White Lion "Pride"
33位 - Scorpions "Savage Amusement"
1989年
4位 - Bon Jovi "New Jersey"
5位 - Guns N' Roses "Appetite For Destruction"
7位 - Guns N' Roses "G N' R Lies"
9位 - Def Leppard "Hysteria"
11位 - Skid Row "Skid Row"
15位 - Winger "Winger"
27位 - Cinderella "Long Cold Winter"
28位 - Warrant "Dirty Rotten Filthy Stinking Rich"
シングルは年単位でどんどん増えていったが、アルバムだと年単位の差はそれほど差は感じない。シングルだと1989年がピーク。シングルが多くなってきた、というのは、ライトなファンが増加傾向にあった、ということだろう。
彼らが視察に行った翌年の1989年がピークで、1990年にはピークアウトするので、ちょうど爆発的に盛り上がっていた頃のアメリカのシーンを見てきたことになる。
中でも印象的だったのはロサンゼルスのサンセット・ストリップだったようで、ここは言うなればLAメタル版トキワ荘みたいなところで、ここでの活気あふれる雰囲気に、やっぱり自分たちはロックに回帰すべきなんじゃないかと決意を新たにした。
ナッシン・ファンシー〜テラプレインの超初期は、それこそフリー/バドカン路線に近かったわけで、言わば10年弱を経て原点回帰しようと決意したことになる。
特に印象的だったのがアクセル・ローズ率いるお馴染みガンズ・アンド・ローゼズだったようだ。フロントマンであるアクセル・ローズ自身がサンダーのファンになり、一時期はサンダーばかり聴いていた頃もあったそうだ(1990年頃)。そしてなんと後のゲフィンとの契約もアクセル・ローズが一枚噛んでいる。ゲフィン重役にサンダーと契約するように推したらしい。
今ではほとんど語られないことだし、知名度的なことで言うとガンズは未だに一般の人でも普通に名前を知っているバンドで、かたやサンダーはBURRN読者以外にはほぼ知られてない、知名度的にも雲泥の差がある2バンドだが、実はこういう付き合いもあった。今はほとんど言及されないのでいまだに付き合いがあるかどうかは定かではない。
そして、知人を介して元デュラン・デュラン、元パワー・ステーションのアンディ・テイラーと出会う。ここで、ハードロック直系の人を呼んだわけじゃないってのがポイント。アンディ・テイラーもポップ畑でやってきて、でも実はハードロック志向の人だった。要するに境遇的には似た者同士だった。
※ 個人的にはLAメタル系は苦手なので、その界隈の人と組まなくて良かったなとは思う。
そんなこともあって、テラプレインのメンバーとアンディ・テイラーと、エンジニアとして旧知のベン・マシューズを呼んで、1988年の夏から秋にかけてデモテープを作る。ちなみに、バックボーカルにはテラプレインの「Couldn't Handle The Tears」でバックボーカルを担当したルビー・ターナーもいたとのこと。
この時、一番はじめに作ったのが「Girl's Going Out Of Her Head」だった。第1期のサンダーは実は典型的なハードロックの曲はそれほど多くないが、その内の1つがこの曲で、「Moving Target」路線に対するカウンター的なものとして、かなりハードな出来。
1999年にリリースされたレアリティーズアルバム「The Rare, the Raw and the Rest」にも1曲目に収録され、歴史はここから始まったと記されている。
この頃のデモが音源として2曲残っていて、1つが「Dirty Love」のデモバージョン。「The Raw, The Rare and The Rest」のライナーノーツによると1988年の8月に録音したこの曲は全く別のアレンジだったらしいので、秋から冬にかけて録音された最終バージョンのデモだと思われる。完成版とほぼ同じアレンジ。ラフミックスのようにも聞こえるがベースとコーラスが違う。後半の「Na Na Na」のコーラスがルビーだろうか。
もう一つがロッド・スチュワート&フェイセズのカバーで「Stay With Me」。おそらくアンディがロッドのプロデュースをやったからだろう。
その他、アンディ・テイラーと共作した「Until My Dying Day」と「She's So Fine」や、シングルのB面に入った「Dance, Dance, Dance (’Til The Night Is Through)」と、「Another Shot Of Love」の6曲がデモとして録音されたよ。この中だと「Dance, Dance, Dance (’Til The Night Is Through)」が少々ソフト路線、「Another Shot Of Love」はテラプレインの1stに入っていてもおかしくないくらいのポップな出来。1stアルバムからこれらが落とされた理由はテラプレインっぽいからなのだろう。
「Stay With Me」が落とされたのはカバー曲の関係だと思われる。初期ビートルズじゃないんだからってことかな?
カバー候補にはエルトン・ジョンの「土曜の夜は僕の生きがい」もあったそうな。
「Another Shot Of Love」は結構好きな曲だが、ごく初期のライブでしか演奏されてない。当時のライブ定番だった「Fired Up」より全然こっちのほうが良い。
2000年代以降のサンダーはサビメロに苦心しているという気がするが、この頃のあまり演奏されてない曲でもかなりサビメロがしっかりしている。
さて、このデモはテラプレイン時代に作られているので、当然テラプレインの次期アルバムとしてのデモという位置付けだったはずである。そのためベースはテラプレインのメンバーであるニック・リンデンなわけで、後にアウトテイクとしてリリースされたCDのクレジットにも「Nick Linden」と書いている。しかし「Dirty Love」なんかは、前述した通りサンダーとして世に出たバージョンとさほど変わらない完成されたアレンジ。テラプレイン末期には既に完成していた。
この時のデモの出来に相当の手応えを感じたルークとダニーは、テラプレインとしてリリースするよりは、全く別のバンドとして再出発するほうが良いのではないかと思い、ルークとダニーのデュオで再出発を決意する。やっぱり中心メンバーはこの二人で、ナッシン・ファンシーの頃から、この二人前提のバンドなのである。
テラプレインのアンソロジーのライナーノーツから引用する。
その12月、テラプレインにとって大きな転機が訪れる。リタ・フォードがマキシ・クラブで演奏したとき、ボウズとモーリーは元ナッシン・ファンシーのベーシスト、マルコム・マッケンジーと一緒にそのライブを見ていた。サプライズアンコールで、ジョン・ボン・ジョヴィとリッチー・サンボラが登場し、モーリーはその場の熱狂ぶりに感動した。
「会場は完全にヒートアップしていたんだ」とルークは数年後に語った。「マルコムに言ったんだ、『よし、これを解決しよう、サン・モリッツに行って、やり直そう』って。そこで私たちは、どんな音楽をやるかを決めたんだ。つまり、ブルージーなロックンロールをやるべきだって。」モーリーは当時、テラプレインを解散するつもりはなかったが、最終的に1989年1月にテラプレインは解散。
ちなみにルークとダニーはリタ・フォードより俺らの方がうまくやれる、とサンダーヒストリー本の中では言っている。
そして、マネージメント陣からは、こんなアドバイスを受けたのだ。
バンド名を変えるのは必須、しかしバンド名を変えただけだと見透かされるのでメンバーチェンジも必要、全部変える必要なない、一人だけで良いと。
そして、1989年の元旦にテラプレイン全体の会議があり、解散が決定した。
しかし、ニック・リンデンとしては、ほぼ完成している「Dirty Love」のデモを手伝ったのに、後にクビになってしまった。この時点ではハリー・ジェームズもクビである。
ニックとハリーにとってはあのデモは何だったんだよ、みたいな感じだろう。
当時、ニックはかなりショックを受けたようだが改革には血が必要なのだろう。
Victim of changes..
ニックはプライベートでも離婚をしてるがテラプレインとの離婚が最も辛かったらしい。ちなみにスネイク脱退時もオーディションを受けたが落ちたらしい。可哀想なニック…。今ではまたルークと交流があるようで、地元でローカルバンドやってる模様。
テラプレイン解散後、即ダニーとルークでデモを作りはじめたが、予定していたセッションドラマーが来なかったので、わずか10日後にハリー・ジェイムズを再び呼んでドラムを叩いてもらうことになった。
テラプレインのオリジナル・メンバーの75%が再集結。
ということで、要するにテラプレイン解散といいながら実態を見ると、テラプレインから新バンド(サンダー)へのメンバーチェンジを伴ったリニューアル、とも言える。
レコード会社にコントロールされた作り物のテラプレインから自我のバンドサンダーへ。
日本にも同じCBSでレコード会社がコントロールした赤坂小町というバンドがやがて自我を持ってバンド名を変えてPRINCESS PRINCESSになって1989年にはミリオンセラー。フローとしてはちょっと似ている。
さらにエピックソニーでも、同じようにガンズ・アンド・ローゼズに影響されて、デジタル・ポップ路線だったのに急にメタル路線に変更して、バンド名も変更したTMNというグループがあったりする。ウォーレン・ククルロという、アンディ・テイラーの後にデュラン・デュランに入ったギタリストが参加しているってのも何かの縁を感じる(小室哲哉がデュラン・デュランのファンだったらしい)。TMの場合、正式メンバーは変わらずだったが、ツアーのバックバンドは大幅に変えたので似ていると言えば似ている。ガンズ・アンド・ローゼズの影響力が恐ろしい。
話は戻り、解散したテラプレインは、残党メンバーのダニー、ルーク、ハリーの3人+プロデューサーのアンディ・テイラーのラインナップで、英EMIと契約。
ニック・リンデンまでいるとまんまテラプレインなのでクビ、というかテレプレインは解散なので本当はクビではないが、まあクビだろう。なので新ベーシストが必要となった。ハリーがテラプレインをクビになった直後に一緒にやっていたマーク・ラックハーストがEMIとの契約の後すぐに加入。スネークというニックネームはダニーが付けたようだ。
そして、ベン・マシューズもその翌月に加入。ベンは新メンバーとはいえ、サンダーのメンバーとは昔から知っている旧知の仲。
なので関係性も乏しい状態で加入したスネークにとってはちょっと居心地が悪かったようだ。これが後の脱退劇につながっていく。
ベン・マシューズとメンバーとはアマチュアの頃からの古い知り合いで、テラプレイン時代からずっと誘われ続けていたが、断っていたそう。ダニーの歌はすごいけど、テラプレインの曲が好きじゃないということだったが、サンダーのデモを聴いて、これなら入りたいと思って快諾したようだ。
ということで、サンダーのラインナップが揃い、バンド名をどうするかという段階になったが、バンド名の元になったのが「Distant Thunder」という曲。
アンディ・テイラーの「サンダー」がバンド名の元になったという説とそうでないという説があって、真偽は不明。確か1990年頃のインタビューでは、アンディ・テイラーに「それは俺のアルバムと同じ名前だからやめてくれよ」と言われたという話があったが、最近のインタビューだと「Distant Thunder」とアンディ・テイラーのアルバムがバンド名の由来だと言っている。
しかし、この「サンダー」というバンド名がその後いろんな誤解や勘違いを生んでいくのである。
「サンダー」という名前は、いかにもメタル然とした名前のように聞こえる。古くはステッペン・ウルフが「Born To Be Wild」で「Heavy Metal Thunder」という歌詞を歌ったり、ラウドネスに「Thunder In The East」というアルバムがあったり、シン・リジーが最もメタルに近づいたアルバムが「Thunder And Lightning」だったり、ライオットの「Thundersteel」とか、AC/DCの代表曲にThunderstruckがあったりと、どうしてもHR/HM色が強い感は否めない。サンダーヘッドっていうバンドもあった。
この「サンダー」というバンド名を聴くと、ハードな音楽性を想像してしまう。自分も、サンダーを聴くまでは「最近BURRNでよく名前を見るサンダーって、何なのかな?スラッシュメタルみたいなバンドかな?」なんて思っていたほどだ。
しかし、聴いてみるとメタルどころか、ハードロックというのもちょっと言いすぎなんじゃないかというくらいのサウンドだった。多分自分が初めて聴いたのは1995年頃にリリースされた「Live Circuit」の曲をラジオか何かで聴いたのが最初。あれ?サンダーってこういう感じだったのか、と思いました。たまたまラジオで聴いたから興味を持ったけど、そうでなかったら多分聴いてない、このバンド名なら。
そういうわけで、メタル雑誌でしかピックアップされない状況が延々と続いてしまうことになる。メタル雑誌が取り上げているのも不思議ではあるのですが、ありがたいのでこれに関しては批判はしない。ただ、本当はクロスビートとかに載ってても全然おかしくなかった。一度、ストレンジデイズが取り上げてくれたことがあり(2007年頃)、そこでは「なぜかメタル雑誌でしか取り上げられない」というサンダーにとっての永遠のテーマを議題に挙げていて興味深く読んだ。
ただ、これは後の歴史を知っているから言えるわけで、当時、将来のことをそこまで考えられるはずもない。
このバンド名を決めた1989年の時点では、AORの「Moving Target」で大失敗した直後で「俺たちはポップではなくロックをやる」という決意表明のための1stシングル「She's So Fine」であって、決意表明のための「サンダー」というバンド名なので、当時の彼らの状況を抜きに語ることは出来ない。
仮に「テラプレイン」というバンド名のままで「バックストリート・シンフォニー」をリリースしていたら、音楽性が二転三転して迷走しているバンドという烙印を押されて終わっていた可能性もある。
そのため、バンド名「サンダー」は歴史の必然だったのではないかと、今になれば思うのである。
続く。