俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 26

第26章は「カラー・オブ・ザ・ブルース(The Color of the Blues)」で、前章がジャズ関連のお話だったが、この章はカントリーのお話がメイン。

1989年5月、ロイヤル・アルバート・ホールで、ジョニー・キャッシュ、ジューン・カーター、ニック・ロウと共にステージにあがったエピソードから始まる。
www.youtube.com

ジューン・カーターがコステロに次のヴァースを歌ってくれと頼んだが、コステロはその場所の歌詞を知らないと言うと、その場で作って歌えば?と言われる(フリースタイルダンジョンか?)。
コステロは自分の知っている古いブルースやフォークの歌詞をつなぎ合わせて歌った、という話。
コステロの脳内に辞書があって、パッチワークできるようになっている。「I Want You」や「Suits Of Lights」なども古い歌詞にインスパイアされているという。
この辺、ネイティブ日本人にはよく分からない話。

ただ、昔、ディープ・パープルの「Speed King」が、古いロックンロールの歌詞を繋ぎ合わせているな、というのは分かったことはある。
これはディープ・パープルを聴く前にビートルズの基礎教養があったから分かったこと。

で、時代は戻って1979年。ジョニー・キャッシュとジューン・カーターの娘、カーレン・カーターはニック・ロウと結婚していたため(1990年離婚)、ニック・ロウの義父がジョニー・キャッシュ、ということになった。
その年のクリスマスはロンドンにジョニー・キャッシュ一家が訪れて、ニック・ロウコステロ、アトラクションズ、ルーモア、ロックパイルが集まってセッションをした。
その時に録られたのが「Almost Blue」の2004年Rhinoリイシューに収録されていたジョージ・ジョーンズの曲「We Oughta Be Ashamed」。

www.youtube.com

マルチトラックテープはコステロの手元にはなく、ジョニー・キャッシュが亡くなった後に彼の息子が倉庫から見つけ出してくれたらしい。

ここから、カントリーについての受容のされ方が書かれている。
コステロに触れていると、ジョニー・キャッシュ、ジョージ・ジョーンズ、ハンク・ウィリアムズ等の名前が出てくるが、あまりピンと来ない。
この章にはコステロがどのようにカントリーに惹かれていったか、が詳細に書いてある。

カントリーといえば、過去に「Secret, Profane & Sugarcane」について書いたことがある。
shintaness.hatenablog.com

大抵の日本人にはカントリーは理解し難いものがある。
日本で一番有名なカントリーソングはおそらくジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」ではないかな?
www.youtube.com

CMで千鳥も歌っているくらいだし。

個人的にはカントリーアレンジで好きな曲もあるけど、ど真ん中のカントリーとなるとちょっと手が動かない。
音楽誌もジャズはもちろん、ブルース専門誌まであるのに、カントリー専門誌って聞かない。「カントリー&ウエスタン」という雑誌がかつてあったようだけど70年代後半に廃刊になっている。
人気がないから雑誌がないのか、雑誌がないから人気がないのか・・・、まあどっちもだろう。

コステロはカントリーは英国でも人気がなかった、と書いているが、それでもコステロの叔父がクリスマスにジョニー・キャッシュのアルバムをプレゼントしてくれたというエピソードがある。
コステロがその次にジョニー・キャッシュを聴いたのがボブ・ディランの「ナッシュビルスカイライン」。
www.youtube.com

カントリーが本格的に好きになったのはグラム・パーソンズのようだ。その後ハンク・ウィリアムズにハマる。

プロとしてキャリアをスタートした後、「Stranger in the House」をジョージ・ジョーンズがデュエットしたいということでレコーディング(1978〜1979年)。
このデュエットはアルバム内の一曲として発売される。

www.discogs.com

1981年4月28日にそのアルバムの曲をメインにした特別番組に出演。
www.youtube.com
www.youtube.com
www.youtube.com

この時、おたふくにかかっていたが、パフォーマンスに影響はなかったそうだ(トニー・ベネットの時といい、なんでこのタイミングで病気になるのか)。

この後、一旦英国に戻った後、再度ナッシュビルで5月中旬から下旬にかけて「Almost Blue」を録音する。もともとカントリーをメインにするつもりはなく、「憂鬱」「ブルー」な曲を集めて作ろうと思った、というのは有名な話。
プロデューサーのビリー・シェリルがコステロを事務所に呼んで、音楽出版社コステロに歌って欲しいカントリーのテープの山を見せられた。
カセットに入っていた曲は「間違いのない」曲ばかり、つまり鉄板のカントリーばかりだったようだ。
結局、このテープの中の曲を選ばなかったが、今度はコステロがリストアップした曲がビリー・シェリルからは「今さら?」的な曲ばかりだという指摘を受ける。

ナッシュビルでのレコーディングの定石としては、プロデューサーが選曲をし、曲にあったセッションミュージシャンをプロデューサーが呼んできてレコーディングするのが普通だったようだが、コステロはアトラクションズとジョン・マクフィーのチームでレコーディングすることにした。この方針を採ったことにより、コステロシェリル間では緊迫した空気があった。

また、シェリルがエンジニアルームでバーボンを飲んでいたり、エンジニアと拳銃の見せ合いっこをしていたことにコステロは憤慨していた模様。
要するにあまり上手く行ってなかった。

この頃のレコーディングは「サウス・バンク・ショー」というイギリスのドキュメンタリー番組が密着していたようだが、Youtubeには見当たらなかった。
緊迫していたということだし「Let It Be」みたいな出来になっていたのかな?

そんな中でも「Good Year For The Roses」「Sweet Dreams」にはヒットの可能性を感じて念入りにアレンジ。「Too Far Gone」もシェリルの曲なので入念なアレンジ、と力の入れ具合が曲によって違ったようだ。
個人的にもこの3曲と他の曲との温度差を感じていたのだけれど、そういうことだったのかと腑に落ちた。
正直な感想を書くと、アトラクションズの演奏はこの種の曲に合ってない気がしていたのだけれど、その3曲はそこまで悪くはないなと思っていた。
1985年には「King of America」のレコーディングでまたアメリカに行くが、この時は現地のミュージシャンを曲に合わせてチョイスすることになる。この時の反省があったのかもしれない。

で、結局「Good Year For The Roses」はヒットする。英国で最高6位、トップ100にも11週入っていた。USチャートには(おそらくあの事件の影響で)チャートインしていない。
www.youtube.com


もともとはジョージ・ジョーンズのシングルで1970年にUSチャートで12位(カントリーチャートで2位)の曲。
www.youtube.com


ナッシュビルから戻り、再度自分の曲を書き始めた。もともと歌手の影に隠れてソングライターになりたかったコステロが、その時にこのレコーディングを経験して作った曲が「Almost Blue」で、これはコステロの曲の中でもカバーの多い曲。

www.youtube.com

Elvis Costello Wiki に一覧があるが確かにかなり多い。
Almost Blue (song) - The Elvis Costello Wiki

有名なのはチェット・ベイカーのバージョンと、妻ダイアナ・クラールのバージョンだろうか。
ジャズ・アレンジの曲なのでやっぱりジャズミュージシャンによるカバーが多い。


ところで、この経緯からすると当たり前だが「Almost Blue」アルバムには「Almost Blue」は入っておらず、次のアルバム「Imperial Bedroom」に収録される。
ちなみにレッド・ツェッペリンの「Houses of the Holy」も「Houses of the Holy」アルバムには入っておらず、「Physical Graffiti」に収録されている。これは何故なのか知らない。