俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 25

第25章は「素晴らしき哉、人生!(It's a Wonderful Life)」。
この章のメインはジャズ系のミュージシャンがメインのお話になる。

トニー・ベネットとのエピソードから。トニー・ベネットコステロは1983年8月8日にニューヨークで共演。
当初、両者レコーディングしている「My Funny Valentine」を演ろうと思ったが男二人で歌うと滑稽な感じになる、というベネットの発言により回避。

コステロは60年代中頃、母とトニー・ベネットを見に行ったことがある。その時のドラマーがバディ・リッチで、叩きすぎ、ドラムソロ長すぎでウンザリしたらしい。
そういえば、ディープ・パープルの「Live In Japan」を初めて聴いたとき衝撃だったなぁ。「The Mule」のイアン・ペイスのドラムソロが長いこと長いこと・・・。映像なしで聴くと苦痛ですね。

1983年には「Everyday I Write the Book」が久しぶりのヒット。
ただ、実は数字的にはそこまでヒットしたわけでもない。1983年8月6日の週がピークの28位。トップ100には8週間入ったので、中ヒットくらいだろう。
「Punch The Clock」はその翌週にピークの3位になるので、アルバムは結構良い順位。
USチャートだと割と良い順位で36位で、キャリア中でも2番め。アメリカで一番上位が「Veronica」で19位。「Everyday」の前にチャート入りしたのが「Accidents」で101位。
ここから分かることは・・・アメリカ人は4年経ったら忘れる、ということかな。

さて、この頃のコステロはパンクのイメージを完全に払拭し、バックにTKOホーンズというトランペット、テナーサックス、アルトサックス、トロンボーンという4人組に、Afrodiziak(読み方分からん)という黒人女性コーラス隊を帯同して大所帯ツアーを敢行していた。(米米CLUBみたいだな)

この頃のRockpalastに出たときの映像が海賊版で出回っている。
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この頃の映像はかなりYoutubeに上がっている。

さらにちょっと珍しいスウェーデンのTVでのLIVE。
「Shipbuilding」はともかく「Invisible Man」「Charm School」とかかなりレアなのでは?
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ニューキャッスルでのLIVE映像もあった。
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The Costello Show と銘打ったリイシューシリーズで1983年頃のライブもリリースされると噂されたが立ち消えになった。

トニー・ベネットとの共演前夜、2時間程のライブだったがTKOホーンズ、アトラクションズに張り合うように大声を出さねばならず、それで声が枯れてしまい、そのままトニー・ベネットとのデュエットの日となって声がガラガラのまま出演することになってしまったそうだ。
初期の頃と比べてもライブの時間も伸びてますね。たぶん1978年頃は70分程じゃないでしょうか。当時は20曲弱で曲も短い。
1983年頃のセットリストは30曲弱あって、曲も初期ほど短くはない。

ということでトニー・ベネットとは「It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing) 」をデュエット。
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なんか表情が硬いですね。こんなコンディションですみません、みたいな顔。
バックバンドのメンバーにはひどい態度を取られたらしい。
ちなみにバックバンドはカウント・ベイシー・オーケストラだったが、カウント・ベイシー自身は優しかったようだ。

1992年にはカウント・ベイシー・オーケストラ(ただし、カウント・ベイシーは既に亡くなっている)と再度共演。
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ちょっと端折って、1986年頃、コステロはノッティングヒルゲートの近くの小さなアパートの屋根裏部屋でケイト・オリオーダンと暮らしていた。(屋根裏部屋・・・)
近所にヴァン・モリソンが住んでいて、たまに道端で会っていた。

ジャズミュージシャンのロニー・スコットが作ったロニースコッツというクラブでコステロチェット・ベイカーが演奏するシーンを撮影するということがあって、ヴァン・モリソンにそのことを話したらヴァン・モリソンも来ることになった。

ヴァン・モリソンは「Send In The Clowns」をリハーサルで歌ったが、本番には来なかったという。
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本番の様子は商品化されているがYoutubeにもある。ベーシストがコステロに似ているがコステロではない。
youtu.be

コステロチェット・ベイカーに会ったのはこの日が最後になってしまった。

コステロチェット・ベイカーの死後(1988年以後)に知ることになるが、この後、チェット・ベイカーは1987年6月14日の東京公演でコステロの「Almost Blue」を演奏する。
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他にもジョージィ・フェイムとかフランク・シナトラの話などの記述があるが割愛。読んでください。

興味があったのはこのセンテンス。

音楽が始まったのは1977年でも、1965年でもないし、1954年でもない。もっと前から音楽はある。
そのことをいつも忘れないようにしている。
何も過去に生きる人間になるつもりはないしそうする意味はないと思うが、過去が確かに存在したことを否定しないようにしている。
過去には学ぶものがあまりにも多いし、愛すべきものがとても多い。

そうだよな、と。コステロってそういうところある。
特定の人からはパンクのパブリックイメージがあるのでそう思われてないかもしれないが、自分が影響を受けた人に対するリスペクトをきちんと持っている。
まあ、スティーブン・スティルスとの一件だけは、どうして?という話ではあるけれど・・・。

1979年は曲作りのネタが不足してモータウン/スタックスのシングル盤まとめ買いして「Get Happy!!」を作り、1981年には自分の心情を歌う言葉を求めてカントリーレコードを手に入れて「Almost Blue」を作った。
どこかの章で書いていたが、ネタ元をそのままコピーせずに自分なりの解釈で演奏していたら、それがオリジナルなものになる、という記載があった。
コステロの多作ぶりは、このネタ元の多さ(しかもネタが足りなくなったら仕入れてくるという能力もある)と加工技術の上手さから来るのだろうな、と思う。

ビートルズで言うと、加工技術はポールよりジョンの方が上手いと思う。ポールはネタ元が広い。だからビートルズとしては上手く回っていたんだと思う。
ポールは・・・こんなこというと怒られるが、ソロになるとネタ元をあまり加工せずに出してくることがある。
耳馴染みがある、というと聞こえは良いけど、ようするにどっかで聴いたことのある曲を出してくる。それゆえに傑作、と言えるものが作品数の割に少ないように感じてしまう。

なので、コステロとポールのコラボは、ポールのそういうところを補完するという意味では良いコラボだったのではないかと思う。
作品の出し方としては異論はあるが、それはポール・マッカートニーのところで書くことにする。