俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 23

第23章は「彼女に気をつけろ(Is He Really Going Out with Her?)」で、前章に出てきたジョー・ジャクソンの楽曲名から。(いつもコメントくださる「ぴよ」様、教えていただきありがとうございます)
この彼女はビュエルのことだろう。

コステロは自伝を書いているうちに観念したのか、ビュエルの名前を出さないと奥歯にモノが挟まった感じになることに気づいたようで、この章でようやくビュエルの名前が登場する。
ただ、書き方としては辛辣というか黒歴史みたいな感じの書き方で、ビュエルのことを悪意のある女呼ばわりしている。

ただ、コステロが一方的にアプローチされたわけではなくて、場所は英と米で離れていたのに何度もビュエルに手紙を送っていたそうだ。
で、コステロの誕生日の日にビュエルが来英するという。これが1978年8月25日。
ちなみにリブ・タイラーは1977年の7月生まれなので、まだ1歳になったばかり。ビュエルはリブ・タイラーがいるのに英国に行って良いのかしらと思ったそうな。
で、たぶん連れて行っておらず、トッド・ラングレンのところで育てられた・・・のではなかったかな?
まあ確かにやっていることはお互いメチャクチャではある。

「人生にひどいことが起きれば、そのおかげで僕は、バカげたくだらない曲がかける」とコステロは書いていて、芸人みたいなことを言うなぁと思ったけど、時には精神安定の為にもこういう考え方は必要に思える。
「酷いことがあっても後々なんかの役に立つかも」と思えば、精神的ダメージを軽減できる・・・と思いたい。

このコステロ・ビュエルの不倫騒動で生まれた名曲もたくさんあるので、一概に悪いとは言い難いところ。

ちなみに石田純一は「不倫は文化だ!」と言ったことに世間的にはなっているが、実際は記者に「不倫は絶対悪」と言われたことへのカウンターとして、「不倫を元に生まれた演劇や音楽などもあるが、それをすべて否定することはできない」(要約)と言っただけであり、それを超意訳した記者が「不倫は文化だ!」と書いてしまった。石田は、やったことはともかくとして至極真っ当なことを言っているだけというのは書いておきたい。
※ この「不倫は文化だ(石田純一)」に加えて、「お客様は神様です(三波春夫)」「努力は必ず報われる(高橋みなみ)」「優勝なんて目指しません(新庄剛志)」が誤訳四天王だと思っている。


話を戻して、「Armed Forces」が完成した後に1公演行って肩慣らし(1978年9月23日)、翌日に「Rock Against Racism」に出演。
10月にはアメリカへ。11月はカナダで15公演も行っている。その後ハワイで公演をしたそうだが詳細は明らかになっていない。
そして11月23日から30日まで初の日本公演。トラックに乗ってレコードをバラまいたエピソードが語られている。

Elvis Costello Wikiには書かれていないが、この時のオープニングアクトがシーナ&ザ・ロケッツだったというのは日本のファンにとっては有名な話。
この間、「シン・YMO」を読んだら、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズの名前が出てきたので驚いた。

YMOの1stがリリースされたのがこの日本公演の最中だったが、ちょうど高橋幸宏がこのエルヴィス・コステロの日本公演を見ていたらしい。
そして前座だったシナロケを見て、鮎川誠をYMOのライブのゲストに呼んだのが1978年の12月22日の六本木ピットイン。
ここで意気投合してシナロケはアルファレコードに所属することになり、「ユー・メイ・ドリーム」が細野晴臣プロデュース、2nd「Solid State Survivor」の「Day Tripper」のギターを鮎川誠に弾いてもらうことになる。

つまりシナロケとYMOを引き合わせたのはコステロなのだった、まあ本人はそんなこと知ったこっちゃないだろうけど。

日本の後、12月はオーストラリアへ。
なんかこの導線に見覚えあると思ったら、F-1グランプリか。秋になると鈴鹿で日本GPを行って最終戦がオーストラリアGP、90年代の話ですけど。
日本人からするとオーストラリアは決して近い位置ではないと思うのだけれど、ヨーロッパから来た人にとっては南下するだけなので近い位置にあるということかな。

その後、ハリウッドに移動してコメディ映画「アメリカソン(Americathon)」にカメオ出演。中国が海底トンネルを掘ってアメリカを侵略するという荒唐無稽な映画らしい。
www.youtube.com

クリスマス前にはロンドン・ドミニオン劇場で7公演。ド派手な宣伝をしたそうだが雰囲気最悪だったそうだ。
ちょうどジェイク・リヴィエラコステロにビュエルと別れろと迫っていてそのことも雰囲気に関係があったのだろう。

ツアーの合間にオランダのテレビ局へ。ここでドリー・ドッツの人気ぶりを見て、一緒にいたCHICのナイル・ロジャースと顔を見合わせて呆れたらしい。

ドリー・ドッツ「(Tell It All About) Boys」
www.youtube.com

CHICの名前が出てくるのがちょっと驚き。この頃「おしゃれフリーク」が大ヒットしていた。
www.youtube.com

コステロはこれ?口パクとはいえ「Senior Service」とはレアな選曲。これ、4回くらいしかライブにかけられてない。
www.youtube.com
ライブであるとするならありえないコーラスになっていて、これでよくオンエアがまかり通るなぁと思う。

この頃、コステロはかなり忙しく、青白い顔をしながらドラッグでなんとか乗り切っていたらしい。
しかし、この人気が長く続くわけがない、とコステロは思いジェイク・リヴィエラと相談。
「そろそろバイク事故の時期じゃないか?」とどちらからともなく言い出したらしい。
もちろんビートたけし千原ジュニアのバイク事故の話ではない。1966年のボブ・ディランのバイク事故のことで、この時に休養してリフレッシュできたようだ。

1979年2月からはアメリカへ。シアトルから始まり、59日間で58公演。休みの日もあるが1日2公演の日もあるとんでもないスケジュール。
日本のアーティストだと60公演なんていったら半年くらいの期間で回りそうだが、たった2ヶ月。

2月15日には、グラミー賞に出れば新人賞もらえるぞ、とレコード会社(コロムビア)から言われて出席したが、新人賞はコステロでもTOTOでもカーズでもなく、「A Taste Of Honey」(知らん)。
www.youtube.com

曲自体はアイズレー・ブラザーズのようだ。クラヴィネットがずっとなっていて、ギターソロはアーニー・アイズレー風。ベースラインはCHICっぽい。一発屋とは言え決して悪い曲ではない。

しかしこれはグラミー賞における珍事として未だに語り継がれる出来事らしい。
ただ、A Taste Of Honeyの「Boogie Oogie Oogie」はUSチャート総合、R&B、ダンスの三部門で1位を取っていて、新人賞としてはまあそんなものなのかなという気がしないでもない。
この時点で後世の評価がどうなるかなんて分からないだろうし。

TOTOは「Hold the Line」がUSチャート5位、カーズは「Just What I Needed」が27位、コステロはUKはともかく、USチャートは1978年に限ってはランクインしていない。
今になってみると確かに並み居るレジェンドを抑えて、ディスコブームだったとはいえ、一発屋ディスコバンドが新人賞、というのは奇妙には映る。

このWikipediaを見ていたらなかなか面白い。ノミネートされて新人賞を逃したビッグネームがたくさんいる。
Grammy Award for Best New Artist - Wikipedia

クリーム、ZEP、エルトン・ジョンELPイーグルス、バドカン等など。
この辺、日本のレコ大新人賞も似たようなもので、10年前のリストを見ていても結局この人このまま世に出てきてないじゃん?という人もいる。

3月13日にはナッシュビルでようやくジョージ・ジョーンズと会ってボーカル入れ。

この北米ツアーは「Armed Funk Tour」と名付けられたが、ツアーに同行していたのはルビナーズ。
ルビナーズにはちょっと思い入れがあって、2009年頃、月イチくらいで通っていた中古レコ店で耳心地の良いパワーポップが流れていた。
初期のコステロを彷彿とさせるパワーポップだけど、一体誰が演奏しているのか分からない。
その頃iPhoneは持っていたが、Shazamはまだなかったので、店員に聞くしかなかった。
「ルビナーズって言って、マニアックな人気があるアメリカの70年代のバンドです」と教えてもらった。
それで調べていったら、コステロオープニングアクトを演っていたと知って二度びっくり。
2011年には札幌のベッシーホールという小さなライブハウスに来てくれた。アットホームなバンドで終演後には一緒に写真を撮ってくれた。

youtu.be


ルビナーズでおそらく一番有名なのは「I Wanna Be Your Boyfriend」。
www.youtube.com


この曲はアヴリル・ラヴィーンの「Girlfriend」と似ていて訴訟沙汰になっている。
「I Wanna Be Your Boyfriend」もストーンズの「Get Off Of My Cloud」と似ているのだけれど・・・。

www.youtube.com


ただ実は、ルビナーズは元々オープニングアクトではなく、カール・パーキンスだったようだ。
カール・パーキンスのマネジメントに問題があり、取りやめになった。
しかし、ナッシュビルでは共演し一緒に「Honey Don't」を演奏したとのこと。
カール・パーキンスってリンゴとジョージが歌っているイメージがあり個人的には若干印象が薄い。
ライブだとジョンが「Honey Don't」を歌っていたりしますが。
一番有名なのは「Blue Sweed Shoes」だと思うけど、あえての「Honey Don't」なのかな?