俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 12

第12章は「列車の近づく音がする(I Hear the Train a-Comin')」。

フリップ・シティの話がメイン。フリップ・シティはラスティの後にデクラン・マクマナスが結成したバンドで、結局メジャー・デビューはできないまま1975年に解散。

1973年頃、デクラン・マクマナスと似たような仲間が5人集って、ロンドン郊外でルームシェアをしていたそうだ。
(オズワルド伊藤のルームシェアを思い出した)
毎晩、日替わりDJでレコードをかけていたそうだ。
頻繁に聴いていたのはヴァン・モリソンの5枚(どれだろ?)、スティーヴィー・ワンダーの「Music of My Mind」(1972)、「Innervisions」(1973)、ニール・ヤングの「ニール・ヤングwithクレイジー・ホース」(1969)、とのこと。
その頃はヒットチャートはくだらないので無視しろ、アルバムで聴くべし、みたいな風潮だったらしい。
マクマナスはピンク・フロイドは一切聴く気がしなく、それならジョニ・ミッチェルを聴くべしと主張していた。「Court and Spark」(1974) がリリースされ、これは素晴らしいと全員の意見が一致したとのことだ。

ところでフリップ・シティというバンド名はこのアルバムの「Twisted」の歌詞から拝借したらしい。
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なので、フリップ・シティという名前が付いたのは1974年以降だ。解散が1975年とのことなのでかなり短命なバンドである。

1974年にはバンドのみんなで、ザ・バンドジョニ・ミッチェルCSN&Yが出演したウェンブリー・スタジアムのフェスを見に行った。

ここから急に1985年のライブ・エイドの話に飛ぶ。

ライブ・エイドといえば「We Are The World」だが、曲は知っているものの自分は当時小3だったのでライブ・エイドについてはあまり知らないのだ。
そもそもバンド・エイドというチャリティ団体をブームタウン・ラッツボブ・ゲルドフが作って、そのライブイベントがライブ・エイド
メタル系アーティストが似たようなことやりたい、と言ってやったのがヒア・アンド・エイド。メタル雑誌を読んでいた人にとってはこっちの方が有名だったかもしれない。
日本でも似たようなのやろうとやったのがオール・トゥゲザー・ナウ。
この辺が後追い勢の私にはゴッチャになっている。

ライブ・エイドに出たコステロは一人でビートルズの「All You Need Is Love」を演奏。
アトラクションズがそこにいないのには訳があった。出演者が多いので機材のセッティングに時間がかかる。そのため、コステロの次の出演者の機材セッティングのために場繋ぎとして演奏するためだった。
確かにフェスとか有名バンドの対バンに行った人なら分かると思うが機材のセッティングに1時間近く待たされることがある。だったら誰かソロでなにかやってくれよ、と思うこともないわけじゃない。
ただ、この当時のコステロクラスが行っちゃ悪いが前座的な扱いというのは、コステロもモヤモヤするだろうし、ファンとしてもこの扱いにはちょっと・・・という感じですね。アトラクションズ自身もモヤモヤしていたようだ。
とは言え「チャリティだから」と言い聞かせて歌ったようだが。

1985年は結局、アトラクションズとライブをしたのは1回のみだったが、それがライブ・エイドの4ヶ月前のロンドンでのライブで、サウスウェールズの炭鉱作業員のための慈善興行だった。

Concert 1985-03-09 London - The Elvis Costello Wiki


1985年頃には、私の住む北海道に沢山あった炭鉱は次々と閉山していった頃で、よくニュースになっていた。夕張でも大規模な爆発事故があった。
90年代半ばに公営ギャンブル場でアルバイトをしていたことがあったが、その頃に出会った古参のアルバイトのおじさんたちは元々炭鉱作業員だったようで、閉山したため札幌に出てきたと言っていた。
今はもはや石炭が話題になることがほぼないけれど、80年代はまだ炭鉱の名残がある時代だった。

コステロが出た慈善興行は、石炭から石油へのエネルギー転換時に仕事が無くなった人たちへのチャリティ、という目的だが、一方で当時のマーガレット・サッチャー首相が取っていた新自由主義路線へのカウンターという意味もあったようで、そのためサッチャー批判がテーマの「Trump the Dirt Down」のプロトタイプである「Betrayal」をオープニングに持ってきている。「Betrayal」は長らく音源化されていなかったが、2006年の「King Of America」のリイシューで収録され、なんだかニック・ロウが作りそうな可愛らしいメロディの曲なので「Trump the Dirt Down」と同じようなテーマだとは思いもしなかった。
この時のライブでは「Brilliant Mistake」「Sleep of the Just」も演奏されているが、当然「King of America」の発表前なので当時は未発表曲。
例の如くElvis Costello Wiki で音源を聴くことができる。
この2曲はKOCの頭とお尻に配置された重要曲。アトラクションズのアレンジも悪くないのだが、KOCは結局、「Suits of Light」だけがアトラクションズの演奏になってしまったが、本当はこの2曲と「Betrayal」も演奏する予定だったのではないだろうか。
ついでに「Blue Chair」も演奏されているが、これがまたB&Cで聴かれる素朴なバージョンとも、KOCセッションで録音された派手なシングルバージョンとも違う、バディ・ホリー風のアレンジが施されたバージョンでこれも良い。勝手に「ペギー・スー」バージョンと呼ぶことにする。この曲も彼の中ではしっくり来なくて色々やったんだなと思う。

アトラクションズと袂を分かつまでのストーリーとしては、一般的に「King Of America」のレコーディングで1曲だけの演奏になり、険悪になったアトラクションズとコステロが最後に一枚 B&C を作って解散、というものだが、その布石がライブ・エイドでの一件にあったような気がしないでもない。

ライブ・エイドはアフリカ難民救済がテーマだが、コステロの曲にテーマに沿う曲が無かったので「All You Need Is Love」にしたとのこと。BBCコステロの生歌が流れたのはこの時が初だったようだ(それまでは口パク)。
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それほど交流があるわけでもないようだが、ポール・ウェラーとの逸話も書かれていた。「Big One」というチャリティでスタイル・カウンシルと1983年に共演。
曲は「My Ever Changing Moods」。

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スタカンで私が一番好きな曲ですね。昔、山下達郎がラジオで、「最近イギリスでシュガー・ベイブそっくりな曲がヒットしているようで」と紹介したとかしないとか。
ところで、インポスターズのディヴィー・ファラガーが在籍していたファラガー・ブラザーズの2ndアルバムもシュガー・ベイブに似た曲があって、コステロの周辺にシュガー・ベイブ的なものが割とあるなぁと思った。

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これなんかほぼ「Down Town」。ちなみにですが、「Down Town」から2年後の曲ですよ。

そういえば、The Jodellesの「My Boy」という「君は天然色」に似た曲がありましたが、これも「君は天然色」から2年後。
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また話が飛んで、ライブ・エイドの後は息子のマットとモスクワに旅行に行ったという話。この頃マットは10歳で私と年がかなり近い。
ライブ・エイドの数日前に東京(中野サンプラザ)でコンサートがあり、余った円をドルに変えたものを持っていたため通貨の密輸業者だと思われた、入国時に一悶着あったようだ。
この頃のソ連はちょうどゴルバチョフペレストロイカを始めたばかりの頃。チェルノブイリの事故は翌年。
サッカー少年団に入っていた私は、練習帰りに雨が降ってくるのを見て、黒い雨が降ってくるんじゃないかと怖かった思い出がある。

そして、またもや時代は1974年に戻り、ザ・バンドを見た時の話。ロビー・ロバートソンがテレキャスではなく、「いかにもロックスター然とした」ストラトを持って、派手に立ち回っていたことに驚いてしまったらしい。

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コステロが持っていたギターもロビー・ロバートソンに習ってレスポールのコピーモデルからテレキャスターに変えていたにも関わらず。
まあ、そのコステロライブ・エイドで赤いストラト弾いてるのだが。

ジョニ・ミッチェルCSN&Yも出演していてCSN&Yは有名曲ばかりやっていたが、ニール・ヤングは少々毛色の違う曲をやっていた。「Don't Be Denied」という曲で、コステロにとってはパンクロックとはこういうものだ、というニール・ヤングの意思表明だと思ったそうな。
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この後はパブ・ロックのお話が続く。

日本でパブ・ロックが一時期話題になったことがある。1998年頃、ミッシェルガンエレファントがメジャーになり、ウィルコ・ジョンソンドクター・フィールグッドが注目された頃。
レコード・コレクターズ誌も特集していましたね。
チバユウスケのインタビューが載ってました。
パブ・ロックとは何?と言われても特定のジャンルという訳じゃなく、パブで演奏していた人たちという括り。まあ当然ながら大所帯ではできないので最小編成が前提ではあるだろう。

ウイングスの「Hi Hi Hi」とか「Helen Wheels」「Junior's Farm」みたいなブギーをやっている人たち、というのが自分のパブロッカーのイメージ。

フリップ・シティはブリンズリー・シュワルツをお手本にしていたが、ほぼアマチュアに毛が生えたようなもので、どのパブに出演者として出てどのパブに観客で行ったのか記憶が曖昧らしい。

で、結局1975年にフリップ・シティは解散。

「Imagination」もそうだったが、フリップ・シティの演奏能力はアマチュア並で決して上手ではない。
たとえ下手でもクラッシュとかピストルズみたいに勢いがあればそれで乗り切れるけど、フリップ・シティにら勢いもないのでこれは売れないなぁという感じ。

「Radio Radio」の原型の「Radio Soul」のフリップ・シティの演奏とアトラクションズの演奏を比べてみるとよく分かる。

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曲が良くてもアレンジと演奏がダメだとやっぱりダメなわけですよ。


ところで、アマチュアの頃のバンドメイト、ラスティのアラン・メイズはエピソードも大量にあったのだが、フリップ・シティに関しては少しだけ名前が出てくるものの、誰がどのパートでとか、どこでどう知り合ったとかエピソードが少なすぎるのが不思議だ。一緒に暮らしていたにも関わらず。「My Aim Is True」のライコ版のライナーノーツではメンバー名も全部書いてあるのに、この自伝では名前も数名出る程度。

フリップ・シティのブートは結構あるけれど、公式にリリースされたものは一つだけで「Imagination」という曲がそれ。
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「My Aim Is True」のライコディスクのリイシューでボーナストラックで収録されているが、これを聴いた時なんか「こわっ」と思った。
デモ?だからなのか、サウンドのバランスが絶妙に悪いし演奏もなんか拙い感じで気持ち悪さを感じてしまった。
昔、ビートルズのブートで「What's The New Mary Jane」を聴いた時と同じような気持ち悪さ。
今聴いても気持ち悪いとは思わないのだけれど、当時は完成形ではないデモ的なものを聴いたことが無かったのもあり、なにかゾクっとしたんだな。

また、以前も貼ったが、フリップ・シティがE1フェスティバルというイベントに出演した時の動画があるが、この章でこのフェスについて言及した箇所はない。おそらくだけど地元のお祭りか何かだろう。そこにローカルバンドとして出演しただけではないだろうか。
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そういえば、BOOWYがライブに出演した時のギャラが野菜だった、という話があるが、その時のライブの動画が数年前にYoutubeにアップロードされた。
それが佐賀県民の森イベントというもので、これと似たようなものだろう。
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(ちなみに1曲目がコステロの「No Action」から拝借したと言われている「In My Head」)

地方都市リヴァプールでラスティとしてドサ回りしてどうにもならず、大都市ロンドンで一旗上げようとしたものの結局やっていることはリヴァプールの時と同じような感じで、解散してしまった。

コステロは結局成功するというのが歴史的な事実ではあるけれど、その裏で同じような道を辿って音楽の道を諦めていった人も沢山いるんだろうなと思った。