俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

コステロ自伝 ANNEX Part 11

第11章は「ライムストリートへと向かう列車はない(No Trams to Lime Street)」

ライムストリートというのはリヴァプールの中心の駅。

マクマナス少年が子供の頃は蒸気機関車がある時代だったがやがて廃止された。
古いものが廃れていく様を蒸気機関車の解体で目の当たりにした9歳のマクマナス少年はそれを「Watching The Detective」の歌詞を書くまで心の中に残っていたそうだ。

ちなみに自分が初めて近親者の死去を目の当たりにしたのも9歳の頃。曾祖母は自分が生まれてからずっと寝たきりの状態だったけど、しかしずっといるものだと思っていた。しかしそうではなかった。
翌年1986年の岡田有希子の件や、三原山噴火、チェルノブイリ原発事故も恐怖でしかなかった。

マクマナスは、18歳の頃(おそらくラスティ解散の後)父であるロス・マクマナスに居候しようとロンドンへ引っ越した。
ロスはそこで、再婚相手?のサラとの間に子供ができたことをカミングアウト。つまり、ロスと奥さんのサラと乳飲み子とマクマナス18歳が同居していたということだ。
で、ロンドンで最初の妻であるメアリーと再会し、くっついたり離れたりして結局結婚する。

最初の子供が生まれる直前にワーナーのパッケージツアーがあり、そこにドゥービー・ブラザーズがヘッドライナー、オープニングアクトリトル・フィート、というのがあり、それを見に行った、というお話。
ちなみに僕がリトル・フィートを初めて知ったのは鈴木保奈美から。鈴木保奈美さんはリトル・フィートのファンだそうな。F1の川井一仁さんが酒井康との対談で話していた。

1975年の1月19日、レインボーシアターのリトル・フィート
www.youtube.com

マクマナスはドゥービー・ブラザーズどころか、リトル・フィートのアンコールを見ることもなく会場を後にしてメアリーの分娩に間に合ったそうだ。

ところで、鈴木茂の「BAND WAGON」はアメリカ録音だが、数曲はリトル・フィートのメンバーと録音している。この録音時期が1974年の11月頃なのでちょうどイギリスでマクマナス青年が見る直前だったようだ。
www.youtube.com

さて、ロンドンでのマクマナスだが、なかなか思うようには行かなかったが、父ロス・マクマナスはよくセッションボーカリストの仕事をしていたらしい。
その繋がりで若い人のコーラスがほしいということでデクラン・マクマナスにお声がかかった。そのCMがこれ。

「僕は秘密のレモネード・ドリンカー」
www.youtube.com

イギリス人ではないのでよく分からないが、これはイギリス人であれば誰でも知っているCMらしい。日本だと丸大ハンバーグとか文明堂のカステラとかそんなイメージだろうか。

2011年にロスが亡くなったときにタブロイド紙が「秘密のレモネード・ドリンカーの死」というタイトルで記事にしたために、まるでそのCMでしかなかったかのように書かれてしまい、コステロは憤慨している。
たぶん、このデイリー・メールの記事だろう。
www.dailymail.co.uk

これがエルヴィス・コステロのレコーディングデビューと同時に映像デビューでもあった。その頃はそんな芸名などはなくデクラン・マクマナスだったが。
www.youtube.com
ベースを弾くフリをしながらコーラスを付けているのがコステロらしい。後ろでキーボードを弾いているフリをしているのが、父ロス・マクマナス。

これは1973年のCMだが、当然エルヴィス・コステロとしてデビューする前なので話題になるはずがない。
だが、70年代後半にコステロがブレイクするとこのことが公になり、また親子を使ってリバイバルヒットさせようということで、結局5年とか10年おきに新バージョンが作られていたとのことだ。

そういえば大滝詠一もこの頃、CMソングを生業としていて、これまた清涼飲料水のCMソング(三ツ矢サイダー・サイダー'73)を手掛けている。
www.youtube.com

なかなか芽の出ない若いミュージシャンにとってはCMソングで食いつなぐ、というのは常套手段なのだろう。

デクラン・マクマナスはあまりこのCMのことを公に話すことはそれまでなかったが、19歳のクリスマスの頃、ロンドンからリヴァプールに戻る列車の中のエピソードでこのことを喋った、というエピソードが紹介される。

列車の中でたまたま横に立っていた軍人と、スーツを着た女性とマクマナスの3人でウイスキーを回し飲みしながら盛り上がってしまい、リヴァプールに着いてからバーで2次会。
デクラン・マクマナスはここでCMの自慢話をしたようだ。そしてスーツを着た女性をお持ち帰りしようと企んでいたが、トイレに行っている間に軍人と女性は消えてしまった、というお話。
CMソングを歌ったことで有頂天になっていたが、現実は虚しいものだった。
デクラン・マクマナスはベロベロに酔っ払い、母の住む家に帰ったが悲しそうな目で見られた。

1976年にもロンドンからリヴァプールに戻ることがあったが、そこで「Red Shoes」がほぼ完成した形で閃いたらしい。

「Red Shoes」の歌詞にはこんな箇所があるが

Oh, I said "I'm so happy, I could die."
She said "Drop dead," then left with another guy.

おそらく、1973年のスーツの女性に逃げられたエピソードからインスパイアされた。
同じ列車に乗っていたから3年前のエピソードを思い出したのだろう。

「Red Shoes」はAメロ、Bメロ、サビという構成ではなく、サビ、サビ、サビ、みたいな曲だが、これが閃いたのはすごいとしか言いようがない。

10年程前に書いたブログ。
shintaness.hatenablog.com

僕は彼の歌は、歌詞が長すぎる、言葉が多すぎる、コードがありすぎる、つまり音楽も言葉もめいっぱい詰まりすぎてると感じていたんだ。ある曲を聴いて、最初は「お、いいじゃないか」と思って聴いているんだが、次の展開が来て「ちょっと待った。これでまた別の曲が作れるのに」ってカンジ。そのうち、なんとさらに次の展開がやってきて(笑)「オイオイ、これでもう1曲出来ちゃうぜ」って思ったっけ。1曲に3曲分もの中身が入ってるんだよ。(ニック・ロウ

ニック・ロウが嫌がる典型的なノルウェー曲がこれだろうと思うが、高1の頃にこの曲を聴いて、「こいつ・・・天才?」と思ったのだった。つまりニック・ロウと私の趣味は全然違う(笑)

今のようにスマホもないしテープレコーダーも(列車の中に)無かったので、メロディを忘れないように延々と頭の中で繰り返し、母の実家に帰った後も挨拶もそこそこに、自分の部屋にあった1969年から弦を張りっぱなしのギターで繰り返し演奏して脳裏に焼き付けたとのこと。

完成形より荒削りなパスウェイスタジオでのデモバージョン。1976年のデモなので書いたばかりだと思われる。
www.youtube.com

ところで、コステロ自身は閃きで曲を作るタイプではないとのことだ。大抵は何週間、何ヶ月、何年間も苦しんで産み出されるらしく、こういう風にできることはかなり珍しいとのこと。
これは山下達郎も同じことを言ってますね。閃いて作るなんてないです、と。ピアノの前でうーんうーんと苦しみながら作っているらしい。

閃きで作った曲で一番有名なのはビートルズの「Yesterday」でしょうかね。
www.youtube.com

ポールの夢の中にこの曲のメロディが出てきて、誰かの曲なのか?と思いメンバーにこの曲知っているか?と聴かせたら誰も知らなかった、と。
それで、コステロと同じように忘れないように慌ててコードをつけて曲にしたらしい。
「Yesterday」は小5の頃(1987年)の学習発表会でリコーダーで演奏した曲。
「Yesterday」と「Hey Jude」を演奏したのだけれど、ビートルズの曲を聴いたのはこの時か、もしくは夏休みの午前中にやっていた「ビートルズ・カトゥーン」で流れていた「A Hard Day's Night」を見たときのどちらか。
Hey Jude」の後半のポールのシャウトにクラス中が驚いた覚えがある。その頃、シャウターなんて聴いたことなかった。


「Red Shoes」の完成形がこれだが、この章のタイトルはRed Shoesでも良かったんじゃないかな。
www.youtube.com