いくら、お笑いに興味のなさそうな「意識高い系」の評論家が批判しても、松本人志は僕の中では揺らがないスーパースターであり、カリスマなのです。思春期の頃から今の今まで、ものすごいものを見せられてきたので、これはもうしょうがない。
僕が始めて松本人志に触れたのは「夢で逢えたら」だったと思っていたが、実はその前に見ていたようだ。
1986年の「欽ドン!ハッケヨーイわらった」は等身大の紙相撲をやる、という番組だったが、これは欠かさず見ていた。だが、そこにダウンタウンが出ていたことには気づいてなかった。
さらに、1989年の「全員出席!笑うんだってば」も見ていた記憶があるが、それがダウンタウンだった記憶がない。
さらに、1990年ごろ「ダンスダンスダンス」という番組でダウンタウンが司会だった。この頃はダウンタウンというコンビ名は知っていたが、ABブラザーズ(中山秀征)とか、その辺のコンビと区別がついてなかった。
明確にダウンタウンを意識して見たのは「夢で逢えたら」だった。友達に「夢で逢えたらが面白いよ、絶対見たほうが良いよ!」と勧められたのがキッカケだが、当時既に有名だったウンナンが出ていたから、まあ見てみようかな、と思って見てみた。その頃のオープニングはユニコーンの「働く男」だったので、1990年の夏過ぎだった気がする。
ウンナン目当てで見始めたはずがいつのまにか、一挙手一投足が気になるようになってしまったのがダウンタウンという若手コンビだった。この頃、ダウンタウンは27歳くらいだった。
ガキの使いは始まっていたようだが、札幌ではネットされていなかった。翌年に何周遅れかで、土曜日の昼に放送されるようになったが時間が不定期だったのであまりきちんと見られなかった。
「ごっつええ感じ」は当初、特番で何度か放送されており、それも欠かさず見ていたが、1991年の冬にとうとうレギュラー化することになった。当時、裏番組の「天才たけしの元気が出るテレビ」を見ているクラスメイトが大半で、超初期の「ごっつ」を見ていたのは、多分、自分しかいなかった。ただ、放送後数回ほどで、ごっつ派が増えた記憶がある。
自分と同世代がダウンタウンに夢中になりだしたのは、1992年中頃だったと思う。
自分の親世代にまでダウンタウンが認識されたのは恐らく1994年頃で、世間的な大ブレイクは1995年頃だろう。この頃になると、ダウンタウンのバッシング本が出版されるほど、社会的に影響を与えていた。
その時代の極私的、好きな作品をいくつかピックアップしてみたい。
カッパの親子(from ごっつええ感じ 1992)
ごっつ初期で最も好きなコントが「カッパの親子」だった。この、理不尽で切ないコントが、初期のごっつでは一番好きでビデオに録画して何度も何度も見たのだった。
お見舞い(世界一位)(from ごっつええ感じ 1993頃?)
「何の世界一位」なのかは各々想像しなければならない。
西日本番長地図(from ごっつええ感じ 1994頃?)
とにかく切ない。
頭頭(オリジナルビデオ 1993)
ごく普通のホームドラマと思いきや、生活風景に謎の食べ物が自然と出てくる。ごっつのコントを期待してこれを見ると違和感しかない。・・・そして衝撃のラスト。これを見た友達は意味がわからないと言っていたが、これが好きかどうかが、僕が仲良くなれるかどうかのボーダーラインだった。
大病の男(from 寸止め海峡(課題) 1994)
1万円ライブの中で最も好きだった作品。ホラーも笑いと紙一重なんだなと。
ステップナー (from GEISHA GIRLS 炎のおっさんアワー 1995)
これは音声だけですが、ごっつでもよくあった「ありもしないものをさもあるかのように行う」コント。
次回に続く。