俺の記憶ストレージ Part 1&2

色事を担当する色男

My Childhood Computer Era (1984-1992)

前回の続きみたいな話ですが、そもそもこのブログは「記憶が無くなる前に記憶の中のものを書き留める」という趣旨なので、記憶のあるうちに幼少期~青年期のことを書いていこうかなと。

 
前回書いたとおり、ファミコンを買ってもらったのは1984年でしたので、ここから個人的コンピューター時代が始まります。
 
さらに、「とと姉ちゃん」を見てて思い出したのですが、私の爺ちゃんの家にも「和文タイプライター」があったのです。
 
 
小学生の頃、和文タイプライターで文章作ってくれってよく頼まれてました。その後、爺ちゃんはワープロを買ってタイプライターの出番は徐々になくなりました。ワープロは今になってはどんな機種だったか定かではありませんが、いざとなれば持ち運べるように取っ手が付いていた気がします。それを友達の家に持って行って連文節かな変換を見せてあげた気がします。その友達はディスクシステムを持っていて、自分はそれが羨ましく、彼はワープロが羨ましかったみたい。ディスクシステムがあったということは1986年頃。小4だ。この頃既にローマ字入力のブラインドタッチが出来たから珍しがられた。この「珍しがられ」は大学まで続き、社会人になる頃にはまったく珍しがられなくなった。当たり前だけど。
 
ワープロ、ではなく、パーソナルコンピュータとの出会いには従兄弟が絡んでました。
 
子供の頃、従兄弟からLSIゲームのTRONが要らないからとのことで貰ったという話を書きましたが、その従兄弟は千歳に住んでいたので盆と正月の年に2回会う程度だったのですが、3歳くらい年上でいつも僕のやりたいことを先にやっていて、ある意味、憧れの存在でした。
 
例えば、ドラえもんの単行本を多数持っていたり、こち亀の単行本を持っていたり、マンガを書いていたり、ファミリーベーシックでプログラムを組んでいたり、中学生になる頃にはレスポール(風)のギターを弾いていたり、とにかく憧れの存在。従兄弟なので血が繋がっていので興味を持つものが似ていたのかもしれません。その中の一つにMSXでBASICを使ってプログラムを組んでいた、というのがありました。
 
MSXというのは、平たく言うと子供向けのホビーパソコンになります。
 
 
マイクロソフトアスキーが考案した共同規格でこの規格に沿って家電メーカーのSONYとか松下とかがMSXを販売していました。小学生の頃、従兄弟はファミリーベーシックでプログラム組んでいたそうですが(記憶媒体はカセットテープ!)、中学生になる頃はSONY製のMSX2でプログラムを組んでいました。これが羨ましくてしょうがなかった。
 
実は小学生の頃にも、「四角いボタン」のファミコンを持っていた別の「ボンボン」の家にMSXがあったのですが、その彼はプログラム組むとかじゃなく、単にゲーム機として持っていました。スーパーカセットビジョンとかセガ、みたいな並びでMSXを持っていたみたいな感じ。そうじゃなくて、従兄弟はそれでオリジナルのゲームを作っていたのです。これが凄いなーと。
 
それで父方の祖母に中学校の入学祝いに買ってもらったのがパナソニック製のMSX2+で「FS-A1WSX」というもの。
 
 
ここまで書いて不思議に思ったのですが、このマシンの発売日は1989年の10月と書いてますね。僕が中学校に入学したのは1989年の4月。入学祝いにしてはだいぶ時期がズレています。従兄弟から祖母にアドバイスがあって、SANYO製のMSXが性能良いからSANYO製にすればと提案されたのだけれど、いや、パナソニック製の方が凄そうだからパナソニック製ので、というやり取りがあってそこで色々すったもんだがあって、時期がズレたのかもしれません。
 
確か、ベルリンの壁が崩壊したニュースをテレビで見ながらMSXを触っていた記憶があるから、1989年の11月には入手していた可能性が高い。ひょっとすると、「FS-A1WSX」発売のニュースを見て、この発売を待って10月になったのかもしれません。祖母が亡くなって18年にもなるし、父も亡くなって12年。父が亡くなると父方の親戚にもほとんど会わなくなります。なので従兄弟とも10年以上会ってないので、確認しようにもどうにもこうにもという感じです。
 
中学に入るとクラブ活動がありますが、僕は「マイコン部」というのに入ります(後に部長となる)。これが文化系のオタクっぽいクラブと思いきや、まったくその通りの部活でして、ここで何していたかというと、MSX-FANという雑誌に載っていた、素人が投稿したゲームのプログラムをタイピングする、という、あまりクリエィティブではない作業でした。
 
余談ですが、MSXのプログラムはBASIC言語で書きますが、MSX-FANの紙面の制約上、1ページに納まるプログラムが重宝されました。ここで生まれたのが1画面プログラムというやつで、可読性(なんてそもそも必要ないのですが)無視の画面にビッシリ書かれたプログラム。この洗礼を受けた人が社会人になってプログラマーになるとカルチャーショックを受けるのです。「スカスカじゃねーか」と。
 
・・・まあ僕がそうなんですけど。
 
やがて、自分でプログラムを組みたいと思い作り始めたのが音楽。音楽はやっぱりこの頃から好きで「FS-A1WSX」にはFM音源が搭載されていたので、これとBASICを使って、まあ今で言うところのDTMをやっていたわけです。これが高校1年の夏くらいまで続きます。
 
MSX-FANにもオリジナル曲が投稿されてたんですね。実はこの時にYMOとか細野晴臣の存在を知り、まあ、マトモに聴くのはもっと後ですが、ライディーンやら東風あたりを知るわけです。
 
高校1年(1992年)ってのがまた暗黒時代で、クラスは謎の派閥で分断されて一体感がなく、性格に難ある人が多くどうにも気の合う人がいなかった。中学2年から3年までが楽しかったから余計にダークな感じになり、それで学校から帰ったら家で音楽聴いたり、MSXDTMっぽいことをやったりしていたわけです。DTMっていっても音が貧弱なので、なんだかパッとしないなーと思いながら惰性でやってました。そういうわけで1992年ってのは私生活もあまりパッとしないし、音楽もビーイング系ばかりでパッとしないし、僕の中では最も好きではない年になってます。
 
で、ビーイング系ばかりで嫌気が指していたので、古いのばかり聴くわけです。ある日、家の近くのサンホームビデオで「CASE OF BOOWY」のVHSを借りてきて見ていたら、布袋寅泰の華麗なるギターさばきに魅了されたのです。
 

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※当時、何百回みたか分からないくらい見た「Case Of BOOWY

 
ギターを自由自在に操り、まるで魔術師。あんな風に弾けたら楽しいだろうな、と思い、そこで僕は思うわけです。この「終わりなき日常」を打破するにはギターしかない。
 
そこで、思い立った次の日に別のクラスのギターを持っていた友達に「ギター貸してくれない?」と頼んで借りたフェルナンデス製のギターを家に持ってかえり、2週間程死ぬ気で練習しました。家帰ってすぐ練習。飯食べ終わったら寝るまで練習。それで基本的なコードは弾けるようになり、これはイケそうだ、と思い、自分のギターを質屋で買うわけです。フェルナンデス製のサンバーストのストラトキャスター(FST-70)。ラージヘッドのモデルでヘッドにはタバコの跡があったので、前のオーナーはクラプトンのファンだったのかな?アンプもYAMAHAの安いアンプを島村楽器で買って、ここからギター三昧の日々。
 

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(↑1996年頃の写真。おそらくブラック・サバスのコピーをしていた時の写真。このギターは友達にあげたのでもう手元にはない)

 
これを機に、僕の人生はコンピューターから最も遠い時代になります。テレビゲームはだいぶ前からやってませんでしたが、MSXも触らなくなりました。自分の生活でコンピューターが占める比重が1位の時代はここで終わり、ギターこそが全て、の時代になります。
 
なので1984~1993年までが僕の中でのコンピューター期の第1期。
 
再び触るのは大学に入ってから触ったWindowsで、1993年~1997年くらいまでの間、まったくコンピューターに対する興味がない時期でした。どんな機種があるかも知らないし、どんなゲームが流行っていたのかも知らない。ゲームハードもこの頃何があったのかよく知りません。
 
そんな自分がのちのちIT企業に入るなんてこの頃は思ってませんでした。
 
今、ゲーム開発会社にいますが、業界に転職した時、高校の頃の友達に「おまえゲーム好きだったの?」と質問されたのですが、そのくらいの感じです。高校からの友達は誰も僕がかつてゲームが好きだったのを知りません。反対に、小学校とか中学校から知ってる友達なんかは、やっぱりそっちの道に行ったのか〜と言われます。で、その友達は僕がギターをやってたことは知らないので、バンドやってたと言うとこれまたビックリされるという。自分としては何の違和感もないんだけど、他人から見ると二面性があるように見えているのかもしれない。